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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

道南の旅を振り返る Ⅲ

2021-09-19 18:24:30 | 道内の旅

 今回の「道南の旅」を振り返ってみると、昨日の第2日目、そして本日の第3日目がハイライトだったのではと振り返っている。それほどこの二日間は盛りだくさんであり、内容も濃い二日間だった。それでは内容の濃かった第3日目を…。 

◆第3日 9月15日(水)

 ◇上ノ国町

 国道228号線は松前町の白崎岬からは青函海峡に別れを告げ、日本海沿岸を走ることになる。上ノ国町はいわば本格的に日本海沿いに面した最初の町ということが言えそうだ。

■北海道夜明けの塔

   

 「北海道夜明けの塔」は国道228号線から外れ、夷王山方向に向かう。するとその夷王山の麓の小高い丘の上に突然高い塔が現れた。「北海道夜明けの塔」(あるいは単に「夜明けの塔」とも称しているようだ)である。「北海道~」と聞いて何か謂れがあるのかな?と思ったが、設立経過は上ノ国町の開基800年を記念して高さ800寸(24.24m)の塔をふるさとのシンボルとして建設したということのようである。

■夷王山墳墓群

   

※ 墳墓の一つ一つをよく見ると、わずかに盛り上がっている ことが分かります。

 「夜明けの塔」の近くに「勝山館跡」という史跡があるがその館跡に接するように非常にたくさんの墳墓が存在していた。墳墓は室町時代のアイヌの墓と類推されるそうだが、一つ一つの墓に白い標柱が立てられ、その部分は土がわずかにも盛り上がっていた。判明した墳墓の数は600余基だという。

■勝山館跡

   

※ 海が臨める丘の上に広がっていた勝山館跡です。左手一番奥が武田氏が住んでいたところと考えられています。

   

※ 勝山館跡の最も高いところに位置していたのが「館神八幡宮跡」と考えられています。

   

※ 残念ながら休館だった「勝山館跡ガイダンス施設」の建物です。

 国の指定史跡にも指定されている「勝山館跡」は、松前氏の始祖である武田信広が1470年頃に築いた山城跡である。資料によると館跡からは中国製青磁や瀬戸・美濃焼、金属製品、木製品など多数出土されたそうだ。出土品からはアイヌが使っていたものも含まれることからアイヌも混住していたと考えられているそうだ。

 勝山館跡はそのご16世紀末まで松前氏の拠点として存在したという。

 なお、館の近くには「勝山館跡ガイダンス施設」という資料館的施設が建っていたが、コロナ禍とあって入館は叶わなかった。 

◇江差町

 江差町は「桧山振興局」館内の振興局所在地ということで、周辺の中心地的存在であり、歴史もある町である。そのような江差町の代表的なスポットを見て回った。

■開陽丸記念館

   

※ 開陽丸の案内施設などを兼ねる「海の駅」です。

   

※ 復元され記念館として開放されていた「開陽丸」です。

   

※ 開陽丸で目に付いたのがたくさんの大砲です。まさに戦艦でした。

   

※ 船内にはこのような砲弾があちこちにたくさん展示されていました。

   

※ 船内に展示されていた開陽丸の全体模型です。

   

 開陽丸の看板から眺めた鴎島です。

 江差町の代表的観光施設というと「開陽丸」が頭に浮かぶ。私もまずは江差市街地から伸びる鴎(かもめ)島の麓に係留されている「開陽丸記念館」を訪れた。江差沖で沈没し、実物大で復元された開陽丸は想像していたより大きなものだった。(上甲板長約72m)内部は記念館となっており入場料500円を納め見学したが、開陽丸は完全な戦艦だった。全てが戦闘用に装備された船で、船腹からは多くの砲門が顔を覗かせ、船内には数多くの弾丸が並べられていた。

 開陽丸は旧幕府軍が接収し、戦略上非常に重要な戦艦だった。その旧幕府軍が江差地方を制圧するために出向いた際に江差沖で座礁、沈没してしまった。旧幕府軍にとってはこの開陽丸を失ったことで新政府軍に対する海上戦力の優位が一挙に崩れ、箱館戦争の帰趨に大きな影響を与えたと言われている。          

■江差追分記念館(江差山車会館)

   

※ 江差追分会館(江差山車会館)の外観です。

       

※ 山車会館内には、本物の山車が2台展示されていました。その1台です。

   

※ 追分会館内の一隅には追分名人の顕彰するコーナーがありました。

   

※ 追分会館内の伝習演示室と呼ばれるステージ付きのホールの緞帳にはニシン漁最盛期の江差の様子が描かれていました。

   

※ 江差追分の師匠(向かって左から二人目)による「江差追分」を始めとする民謡が披露されました。

 江差といえば郷土芸能「江差追分」を外して語ることができない。その江差追分を語る会館が街中にあった。ここも入館料500円を納め見学させてもらった。展示で興味深かったのは、追分会館より、山車(江差ではヤマということだ)会館だった。江差では毎年8月の9日~11日までの3日間「姥神大神宮渡御祭」と称して、13台の大きな山車が街を練り歩くそうだ。その様子を映像で知ることができ、改めて江差の歴史の深さを知る思いだった。

 それから一日に3回披露される江差追分の師匠による実演を聴くことができたのが幸運だった。「北海鱈釣節」、「江差追分」、「ソーラン節」と3曲を堪能することができた。                          

■姥神大神宮(横山家)

   

※ 姥神大神宮の本宮です。

   

※ 栄華を誇った横山家の広大な建物です。(休館中)

 江差にニシンをもたらしたとされる姥神大神宮も市街地に近いところにあった。渡御祭の派手な祭りの様子を映像で見た後だったこともあり、私の中では大きな存在になっていたが意外に質素な神社だった。

 さらに大神宮の前には、漁業・商業・廻船問屋を営んでいたという横山家の広壮な住宅があったが、現在は休館中ということで入館は叶わなかった。

■アネロイド気圧計

   

※ 街の一角に立っていたアネロイド気圧計です。

 観光案内などでは紹介されていないが、私には興味があったので付近にいた住民にその場所を尋ねて訪れた。「アネロイド気圧計」というと、今では学校の百葉箱や理科室にあるくらいのものかと思われるが、その大型のものが江差の市街地に立てられているのだ。

 高さ2mほどの石柱の中に直径30cmの気圧計が備えられ、漁師たちが天候の変化を予想するのに役立てたという。1928(昭和3)年に設置されたそうだ。

 

◇乙部町

■滝瀬海岸(シラフラ)

   

   

 乙部町滝瀬海岸に広がるシラフラは今回の旅の一つの目的だった。「シラフラ」とはアイヌ語で「白い傾斜地」を意味するそうである。私はこの不思議な光景を写真で見た時に「ぜひ行ってみてこの目で確かめたい」と思っていた。江差町から向かうと乙部町の市街地に入る前にある。案内板が設置されているが注意しないと見逃すこともある。

 案内に従い車を進めると行き止まりとなる。そこから徒歩で海辺に向かうとそこは崖の上だった。ふと横を見ると、やや離れた位置に白い壁が広がっていた。これまで見たことのない光景に息をのんだ。シラフラに近づいてみたいと思ったが、その場から崖を下りる道はなかった。シラフラは全長500mほどあるということだが、見どころは夕陽に白い壁が茜色に染まるところが素晴らしいらしい。ぜひその光景を体験してみたいものだ。

■くぐり岩

   

 同じ滝瀬海岸に海辺に突き出た岩の一部に穴が開いていて、そこを潜ることができる岩があった。シラフラを眺めたところからやや離れたところの海岸にあったが、こうした奇岩(?)はけっこう他にもありそうである。

 乙部町にはもう一つの奇岩「鮪(しび)の岬」という鮪の肌をしたような奇岩があるらしいのだが、残念ながら私はその場を発見できなかった。(見過ごしてしまった?)

■箱館戦争官軍上陸の地碑

   

 「箱館戦争官軍上陸の地碑」は乙部町の乙部漁港のところに立っていた。碑は木製で柱状のものだが、特徴は先端に官軍の象徴である鉄カブトを模したものが載っかっていた。

 傍に立てられていた説明板によると、明治2年4月9日、新政府軍参謀・山田市之充率いる1,500人の兵が軍艦「更鉄」、「春日」など8隻が乙部海岸に分乗して着岸し、この地から新政府軍の猛攻撃が開始され、旧幕府軍の敗戦が始まったという。

 

◇せたな町

 「せたな町」は、2005年に旧瀬棚町、大成町、北桧山町の3町が合併して誕生した町である。したがって、海岸線も長い町だった。

子熊岩

   

 「親子熊岩」はせたな町大成地区を走っていた時に道路際で出会った。なるほどよく見ると、海に落ちそうな子熊を母熊が抱きかかえるよう救っている図に見える。

 日本海追分ソーランラインと称される229号線(227号線とは江差郊外から分岐する)は岩礁が連続する海岸線である。したがって名前は付けられていない岩が数多く出現した。あるいは地元民だけが知っている名前の付いた岩は数多いのかもしれない。 

■三本杉岩

   

 こちらは旧瀬棚地区の瀬棚漁港近くに立つ岩礁である。ちょうど海岸近くに三本の細い岩が並立している。その様が三本の杉の木が立っているように見えることから名付けられたようである。

■日本初の洋上風車

   

   

 観光施設ではないため案内などはなく、場所を探すのに右往左往したが瀬棚港の外れにそれらしい風車が立っていた。ただ、洋上といっても港の内側にあったので「果たして見えているのがその風車かどうか?」自信が持てなかった。帰宅して調べてみると確かに自分が見た風車が “日本初” のものであったことを確信した。

 日本初の洋上風車は「風海鳥」という愛称が付けられ平成16年4月から本格稼働を開始したという。資料によると年間発電量は一般家庭約1,000世帯分に相当するらしい。

 風力発電というと、風の強い海岸線に多いが、その多くは海岸線の陸上に設置されているものがほとんどである。陸上の設置の場合は地権や騒音問題などが風力発電普及のネックになっているとも聞く。洋上発電はそうした問題をクリアする意味でも将来性のある発電設備の一つなのではないかとも思える。

 自然エネルギー利用の発電設備としての将来性が期待できる一つではないかと思えるのだが…。

 

 レポしたようにこの日も数多くのスポットを巡り回った。走った距離も4日間では最も長い237Kmを走行した。



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