遅ればせながらこの度「国民文学作家」とも称された吉川英治が著した「宮本武蔵」の文庫版を読了した。非常に興味深く物語に没頭されられながら読んだのだが、昭和初期の作品とあって、今読むと若干の違和感が拭えなかったのも事実だった。
私はあまり熱心に読書に勤しむというタイプではない。だから現代小説もそれほど手に取ることはなく、ましてや時代小説などほとんど読んだことがなかった。
それが某日、中古本販売の大手「△△△△OFF」を覗いてみたら、講談社文庫版の「宮本武蔵」が格安で全8巻が並んでいた。「うん、時には時代小説もいいなぁ…」程度の軽い気持ちで購入した。(何せ格安である)
早速読み始めてみると、これが期待どおりに面白い。
吉川作品によると武蔵は関ヶ原の戦いで西軍に加わり参戦し、西軍敗戦後は隠遁し、剣の道に精進し、魂の求道を通して鏡のように澄明な境地に達する過程を詳細に描いているのだが、その過程の多くは吉川英治の創作と言われている。例えば、関ヶ原の戦いにおいて武蔵の父は東軍に加わったという史実が残されているという。親子が東西に分かれて戦うのは不自然ではないか、と主張する史家も多い、といったように…。
吉川作品はある意味で、自らの創作も交えて宮本武蔵を希代の英雄としてまつり上げる上で大きな役割を果たしたようである。
※ 「宮本武蔵」の著者・吉川英治氏です。
さて、物語全体についての私の印象であるが、私のように知識の浅い者にとっては “宮本武蔵” というと佐々木小次郎との “巌流島の決闘” が直ぐに思い浮かぶ。私はその場面が「いつ来るのか、いつ来るのか」と読み進めたのだが、いっこうにその場面が表れない。なにせ文庫本は一冊が400ベージほどの量で8冊もあるのだが、物語の大半は、武蔵は野にあって自ら剣を磨きながら、二人の弟子(三木之介、伊織)を相前後して従えつつ、幾多の決闘を勝利する場面もあるが、その他武蔵を恋い慕う “おつう” とのまるでメロドラマのようなすれ違い、あるいは武蔵を宿的として命を狙うことに執念を燃やす “お杉ばば” の武蔵追跡劇、もちろん武蔵の本当の宿敵・佐々木小次郎もところどころで登場するが…。
結局、私が期待しながら読み進めた “巌流島の決闘” 場面は第8巻の357~366頁の僅か10頁足らずで描き、それがこの「宮本武蔵」の終焉だった…。
吉川英治としては「巌流島の決闘」を最大最高の見せ場として、そこにいたる大河のような流れをそこに収斂させるという手法を取ったのだろう。
しかし、私のような時代小説を解しない者にとっては、例え「巌流島の決闘」を最後の見せ場とするとしても、武蔵と小次郎のそれまでの生き様や二人の生き方の違いなど、巌流島に至る二人の英雄の過程をもっと詳細に描いてほしかった思いが残った。また、巌流島の後の武蔵の生き様も知りたいと思ったのは素人の浅はかさなのだろうか?
※ 宮本武蔵自らが描いたとされる自画像です。
「国民文学作家という大家の作品に向かって、お前はなんてことを言うんだ!」と多くの方々からお叱りを受けそうだが、素人ゆえの怖さ知らずで書いてしまったことをお許しいただければと思います。
吉川英治著「宮本武蔵」を数週間にわたって楽しませてもらいました。
(私の文章中に事実誤認のところがあったとすれば、全て私の責任です)