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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

北海道立文学館 吉本隆明展を視る

2022-12-20 12:14:27 | 作品展・展覧会等

 雑食性を自認する私だが、そんな私でも「吉本隆明」は視界に入っていなかった。「戦後思想界の巨人」とも称される吉本だが、私には関心外だった。それがひょんなことから特別展の入場券が手に入ったのだが…。

        

 12月18日(日)午後、中島公園内にある「北海道立文学館」に足を運んだ。文学館で開催中の「歿後10年 吉本隆明 廃墟からの出立」特別展を見るためである。

   

 リード文でも触れたが、私にとって「吉本隆明」という人物は視界に入っていなかった。というのは何を隠そう私にとっては彼の言論など難解すぎて、著書を手に取ってみようとも思わなかったからだ。ところが!某日、ある講演会に出向いたときに知り合いの方から「行ってみないか?」と問われ、入場券をいただいたのだ。雑食性を自認する私である。そこまで言われたら行かないわけにはいかないだろう、と考え文学館に出向いてみたというわけである。

 展覧会場は日曜日の午後というのに閑散としていた。やはり一般人には少々縁遠い人物と受け取られているようである。私はせっかくの機会だから、少し丁寧に見て回ろうと考えた。特に吉本氏の少年期、青年期を詳しく見ることによって彼の思想がどのようにして形成されていったかを知りたいと思った。

   

 少年時代の吉本に影響を与えたのは、東京月島の彼の家のあった近くにあった塾の教師:今氏乙治(いまうじおとじ)だったようだ。今氏は早稲田大で英文学を学び、自身も詩や小説を書いていたという。さらに彼は今氏の蔵書をむさぼるように読んだという。吉本の時代(1924年生まれ)に塾に行っていたということは、吉本は比較的恵まれた少年時代を過ごしたようだ。彼はそこで詩で表現することの面白さに気付いたようだ。

 吉本の思想形成に決定的な影響を与えたのは太平洋戦争であったことは、吉本に関心のある方にとっては常識なのかもしれないが、そのことが今回の特別展ではよく理解することができた。太平洋戦争が始まった1941年は吉本が17歳の時である。彼は太平洋戦争は日本がアジアの植民地を開放するための戦争だと信じて疑わず、多感な時期を戦争礼賛で過ごし、勤労奉仕に汗を流しながらも詩作に没頭していた時期でもあった。

 吉本は富山県魚津市の日本カーバイド工業に勤労動員されていた時に終戦を迎えたが、その衝撃ために何も考えることができずひたすら海を見て過ごしたと展示物に書かれていた。

 さらに吉本にとって決定的な影響を与えたのは、その後1945年に進学した東工大で遠山啓教授に出会ったことだという。遠山教授の「量子論の数学的基礎」を聴講して、決定的な衝撃を受けたと吉本は告白している。

 そして彼の思索、執筆活動が始まっていくのだが、それから吉本が著した膨大な著書群を見た時、「これはもう降参」と私はその後の展示を見て廻ることを早々に諦めた。

 展示を見て回ることを諦めた私であるが、一つの展示が私の眼を射止めた。それは「影響を受けた本は?」、「最も困難だった出来事は?」、「最も好きな言葉は?」という質問に答えている展示があったので、それをメモした。

 それによると、影響を受けた著書としてファーブル著の「昆虫記」、作者不詳の「新約聖書」、マルクス著の「資本論」を挙げている。

 困難な出来事では、吉本は結婚のことを挙げている。彼は同人誌を発行していた時に同人だった黒澤和子という人と恋愛関係に陥ったらしい。ところが黒澤は既婚婦人だった。

吉本と黒澤、そして黒澤の主人との三角関係となり、相当に苦労して結婚にこぎつけたらしいことを吉本は吐露していた。

 最後の好きな言葉ではマタイ伝の「ああエルサレム、エルサレム、予言者たちを殺し、遺される人々を石にて撃つ者よ……」と答えている。(1965年に答えたことだそうだ)

 吉本隆明が戦後言論界においてどのような位置を占めたのか私には知る由もないが、日本の学生運動など左派の運動に大きな影響を与えた人物だということだけはおぼろげながら認識している程度である。 

          

 彼の歿後10年を期してこうした特別展が道立文書館のような公的施設で開催されること自体、彼の発表し続けた思想自体が普遍性を帯びているということの証だろうか?      



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