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私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

ベルリンの壁崩壊の裏話

2012-03-02 20:12:22 | 講演・講義・フォーラム等
 1989年、東西ベルリンの間に横たわっていたベルリンの壁が崩壊された。当時小学生で東ドイツの側にいて、壁の崩壊と共にミュンヘンに移り住んだというクリスティアン氏から話を聴いた。

 札幌市国際プラザが1月の「ロシアを知るセミナー」に続いて、2月27日(月)「ドイツを知るセミナー」を開催したので受講した。テーマはタイトルどおり「ベルリンの壁崩壊の裏話」という興味深い話だった。

               

 講師のクリスティアン・フィーツェック氏は旧東ドイツ領だったポツダム市に生まれ育っていたが、小学5年生(確かではない)の時にベルリンの壁の崩壊を目の当たりにした方だそうである。
 当時は東西冷戦が終結に向かいつつある時期で、東ドイツ国内では西側との生活格差が広がり、国民の不満が高まっていた。そして政府の統制も効かない状態となって、ベルリンの壁が崩壊するのも必然の成り行きだったようである。

 東ドイツでは車を購入するのに10年待たねばならないとか、電化製品が簡単に手に入らないなど国民生活は相当に耐乏を強いられたようである。そうした中で西側のテレビ電波は自由に受信できる状態だったため東ドイツ国民の西側への憧れが相当に募っていたという背景があったようだ。
 その上、東ドイツでは「シュタージ」と称される秘密警察・諜報機関の職員が大増員され、住民の中にも「IM」という非公式協力者を育成するなど、堅苦しい監視社会に国民の反発は強まっていたとのことだった。

          

 クリスティアン氏は当時小学生ながらも、当事者の一人だったこともあって壁崩壊の前後を熱く語ってくれた。熱いだけに若干整然とした話とは言い難かった部分もあったが…。

 ところで私は今から46年前の学生時代、ヨーロッパを彷徨したときベルリン市も訪れていた。ベルリンの壁はもちろんのこと、東西ベルリンを見比べて見たことを思い出しながら聴いていた。壁一つで街の表情ががらりと変わって見えたことを憶えている。

 当時、西ベルリンから東ベルリンに入る際は「チェックポイント・チャーリー」という検問所を通らねばならなかった。(物忘れの激しい私だが、語感も良いせいか何故かこの名前は憶えていた)
 講演が終わった後、クリスティアン氏にその存在を聴いたところ、「確かにその名の検問所があった」と答えてくれた。

 私はその後、東ベルリンの駅から列車でチェコスロバキア(現在のチェコ)の首都プラハに向かったのだった…。(遠い昔の話である)