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田舎おじさん 札幌を見る!観る!視る!

私の札幌生活も17年目を迎えました。これまでのスタイルを維持しつつ原点回帰も試み、さらなるバージョンアップを目ざします。

小菅正夫氏 動物愛を語る

2025-01-16 19:15:08 | 講演・講義・フォーラム等
 元旭山動物園長の小菅氏は語ります。言葉を持たない動物たちから小菅氏は「すべてを教わった」と…。北海道弁を丸出しにして話す小菅氏の言葉の端々から動物への限りない愛の深さを感じさせられました。

 昨日(1月12日)午後、かでる2・7において「民放クラブ講演会」が開催され参加した。今回の講師&テーマは、元旭山動物園長の小菅正夫氏「すべて動物たちから教えてもらった」と題して講演したものでした。

   

 小菅氏の業績については多くの方がご存じかと思いますが、振り返ってみると日本最北にある「旭山動物園」は、小菅氏が中堅の頃、来園数が伸び悩み閉園の危機に陥っていました。そうした状況の中で、小菅氏は長年動物たちを飼育する(付き合う)中で、動物たちの本性を突き止め、動物たちが生き生きと動き回る姿を来園者に見ていただく「行動展示」という方法を開発し、旭山動物園を来園者数日本一に導いた方です。

 小菅氏は今回の講演を五つの柱を立ててお話されました。その五つの柱とは…、
 ① 時間に縛られない
 ② 幸福感
 ③ 生きる意味
 ④ 死生観
 ⑤ 明日は…
 小菅氏のお話の内容を全てレポすることはとてもできませんが、小菅氏がお話されたエキスのようなものをお伝えすることができればと思います。

 その一つは、動物たちは時間などに縛られて生きてはいないということを、チンパンジーの飼育を担当して教えられたと言います。動物(チンパンジー)は自然の変化を指標にして生きている。夜明けとともに活動し、夕暮れの前に寝床をつくる。ヒトも動物の一種と考えた時、小菅氏は腕時計を外したそうです。つまり、飼育を担当する者が時間に縛られた生活をしていて、飼育する動物の気持ちを理解することなどできないと小菅氏は教えられたようです。

 また、動物たちはどのようなとき最も幸せを感ずるかというと、食べ物を探して採る時と、子を育てる・命を繋ぐ時だと教えられたということです。

 「生きる意味」についても同様なことが言えると小菅氏は言います。小菅氏は「生きる意味についてたくさんの動物たちに尋ねてきました」と小菅語(?)で話されました。その過程でカバが明確な答えをしてくれたと言います。
 カバは動物たちの中でも多産系のようです。旭山動物園でもゴン&ザブコのペアは何頭もの子どもを出産したそうです。しかし、ゴン&ザブコが高齢となり身体も痩せ細ってきたことから出産が無理と判断して動物園としては2頭を離して飼育していたそうです。
 ところが2頭は一瞬の隙をついて交尾し、出産したそうです。小菅氏はカバから次のように教えられたと言います。「私たちは子どもを産んで、育てるために生きている」と…。つまり動物たちは「生きているかぎり、命を繋いでいく」ということを教えられたと小菅氏は話されました。

 そして最後に「死生観」です。
 動物は死を特別なこととは考えていません。人間はことさらに死を意識しているように思えますが、ゾウもトラもオオカミも、平気で死を迎えます。まさに悟りの境地にあるようです、と小菅氏は話された。

   

 こうした対話を動物たちと重ねながら小菅氏は37年間の旭山動物園での生活を終えるのですが、これで小菅氏の動物たちとの付き合いが終わったわけではありません。
 小菅氏は退職後、個人としてやり残したと思われることに取り組みます。そのやり残したこととは、
 ① ゾウの繁殖
 ② ゴリラの飼育
 ③ 生息地を知る
これらの解明のために、小菅氏はスマトラ、ボルネオ、ウガンダ、コンゴといった国々を飛び回り、動物の不思議を追い求めます。
 そのことが2015年に札幌市環境局参与(円山動物園担当)を委嘱されることになります。そして、円山動物園にアジアゾウが導入される際は、導入するゾウの選定から、ゾウの繁殖(タオの誕生)まで指導的立場で現在も活躍中の方です。


 小菅さんは飾らない人柄、動物の生態を北海道弁丸出しで話されるユーモアな話しぶりが、主婦層からは大人気のようです。この日の講演会でも多くの女性が詰めかけ、小菅氏に一言、一言に歓声を挙げながら聴き入っているのが印象的でした。
 北海道だけではなく、今や国内的にも動物園界の指導的役割を果たしておられる小菅氏のますますの活躍を祈念したいと思います。



金平茂紀氏が語る「高校生が『頭をあげる』時代へ」

2025-01-14 19:06:07 | 講演・講義・フォーラム等
 ジャーナリストとして著名な金平茂紀氏は語ります。今こそ高校生は頭をあげて、何が問題なのか?何が真実なのか?大いに議論してほしい。そして自らの考えを主張すべきであると…。旭川東高校で青春時代を過ごした金平氏は北海道の高校生に力強くエールを贈りました。

 一昨日(1月12日)午後、エゾシカネットの講演会を途中で中座した私は、札幌プリンスホテルの国際館パミール館で開催された「北の高校生会議10周年記念シンポジウム」に参加しました。
 「北の高校生会議」とは、「2014年に学校の枠を越え、全道の高校生と対話したい!という高校生の思いを(公財)秋山記念生命科学振興財団が助成することで開催が実現し、その活動が今年10周年を迎えた」ということです。
 私はその存在は承知しておらず、今回のシンポジウム参加も金平茂紀氏の講演を聴きたいという動機から参加したものでした。

     

 金平氏は言います。1985(昭和60)年8月、群馬県御巣鷹山に激突して520名の死者を出すという史上最悪の航空機事故が発生しました。その時、金平氏はテレビ記者として事故を取材していましたが、航空機の機長が必死に「頭を上げろ!頭を上げろ!」何度も叫んだことがボイスレコーダーに残されていたことが記憶から消えず、「今回その言葉の一部に使わせてもらい「高校生が『頭をあげる』時代へ」と決めたことを冒頭披露された。
 
 そして金平氏は、「成田悠輔、堀江貴文、ひろゆき、…」などの顔写真を提示し、「とんでもない若者が出現してきた」と警告しました。曰く「集団自決、集団切腹、余命投票制度、プラン75、等々…」つまり老人不要論を声高に論じる人たちです。(詳しくはお調べください)

 続いて福井県立農業高校演劇部が提起した「明日のハナコさん」と「ぐぐるプロジェクト」についてです。この二つについても詳しくはご自身でお調べいただきたいと思います。二つともに、日本の原発問題についての金平氏の問題提起です。

 金平氏から言わせたら、いずれもが由々しき問題である、との認識です。
 そうした状況にある今こそ、瑞々しい感性の持ち主である高校生が「自分たちには関係がない」あるいは「仕方のない問題」と考えるのではなく、「頭をグイっとあげて、何が本当で、何が正しいのか?」ということを考えてほしい!という若者たちへのメッセージであったと私は解しました。

 金平茂紀氏がどのような言論を展開されているかは諸兄はよくご存じのことと思います。そのことに対する賛否両論があることもよくご存じのことと思います。
 その問題をここで論じるつもりはありません。ただ、金平氏が若者たちに対してモノゴトの本質を追求する気持ちを持ってほしいと呼びかける思いには賛成したいと思うのです。

 間もなく我が国をリードする立場に立つ若者たちが、一日でも早く私たちの周りを取り巻く諸問題に目を向け、より良き道を探ることは我が国にとってプラスになることこそあれ、マイナスとなることなどは微塵もないはずですから…。 

 金平氏は講演の最後に、〈とりあえずの提案〉と題して、高校生たちに次のようなことを提案しました。
 〇過去を学ぶ 過去から学ぶ 歴史とは何か
 〇“学校" を取り戻す
 〇 個人〈 公共〈 国家
 〇数値化できないもの  語学力
  音楽、文化、演劇、映画、詩、ドキュメンタリー、写真、……
 〇Solidarity ガザ、パレスチナ、ミャンマー、韓国、…
   (註:Solidarity =連帯)



エゾシカネット創立記念講演会

2025-01-13 14:43:22 | 講演・講義・フォーラム等
 春のエゾシカが増えるって? エゾシカの6次産業化って何? NPO法人「エゾシカネット」創立10周年 記念講演会&フェスティバルに参加してきました。

         
 昨日(1月12日)午前、北区民センターで開催された表記講演会&フェスティバルに参加してきました。
 「エゾシカネット」とは、HPに次のように説明されています。
 「道民に対して、エゾシカの有効活用等に関する事業を行い、北海道の環境保全や地域・まちづくりを積極的に行うことで広く経済面や福祉等に寄与することを目的としています」と説明されています。
 ただ、開会時の理事の挨拶では、あまり堅苦しく考えることなく気軽に、楽しくエゾシカのことを考えていきましょう、と活動する団体のようです。

 会は二つの講演、高校生の発表、子ども部員の発表、朗読劇と盛りだくさんの内容でした。私は他に所用もあったために、前半の講演、高校生の発表まで聴かせていただき、途中退場させてもらいました。参加させていただいた部分のみレポすることにします。

     

 まず気象予報士として活躍中の菅井貴子さん「春のエゾシカが増える…!?~2100年北海道の未来天気予報」と題して講演されました。
 菅井さんによると、北海道はここ100年で地球温暖化が影響して平均気温が1.63℃上昇したそうです。これは全国平均(1.4℃)よりも高い数値だということです。
 そして北海道における最高気温は2023年5月26日に佐呂間町で記録した39.5℃だそうです。(ちなみに札幌市の最高気温は36.3℃、我が国の最高気温は、浜松市と熊谷市の41.1℃とのことです)

 こうして見てくると、北海道は全国的な平均より速い速度で温暖化が進行していると言えそうです。このみ温暖化が進むと、75年後の2100年の北海道を菅井さんは次のように予測します。
 ① サクラの開花が現在より5日早くなる。
 ② 30℃以上の日が30日を超える。
 ③ 大雨の日が増える。積雪が減少する。(真冬日は5日程度)
 ④ 秋刀魚、鮭、シシャモが不漁となる。
 ⑤ エゾシカが増える。

 問題のエゾシカです。エゾシカは以前の北海道の冬の気温では凍死するケースが多かったため、それほど個体数の増加には繋がらなかったものが、温暖化によって凍死することがなくなったために、冬を越したエゾシカが春の出産期に多くの子鹿を出産することがエゾシカの増大に繋がるというのです。
 そのことに対して菅井さんは最後に「シカ肉を食べたり、加工品を買ったりして、シカ猟を後押しすることが大事」と強調して講演を終えました。

     

 続いて、ハンターであり管理栄養士の資格も持っている音威子府村在住の秋山實氏が「エゾシカの六次産業化」と題して講演された。
 実は私は一昨年8月に秋山氏の同じ内容のお話を一度聴いています。今回はお話されませんでしたが、その時のお話では秋山氏は東京電力に勤められたり、インターネット関連の事業を興したり、東北大学で博士号を取得したりと、一般の人とは少し違った生き方をしてきた方のようです。
 その秋山氏がたまたま北海道で一か月ほど山登りなどを楽しんだ際に、北海道においてエゾシカが異常繁殖していることを知り、この問題を何とかしようと2016年、一念発起して音威子府村に移住したということなのです。

 一昨年のときはエゾシカの六次産業化を目ざしているとのことでしたが、その後本格的に六次産業を軌道に乗せるために奮闘していらっしゃるようですが、一個人が取り組む事業としてはいろいろな困難も立ちはだかったいるようです。
 狩猟の問題、加工の問題、そして販売の問題、等々…。しかし、秋山さんは困難を一つ一つ解決して前へ進んでいるようです。
  現在はエゾシカジャーキー、エゾシカ革の洗顔クロスに活路を見出しているようです。

 齢75歳を超えても秋山氏は若々しく、ご自分の夢を追いかけているようです。エゾシカの六次産業化が軌道に乗り、後の続く人たちが次々と出現することでエゾシカの増大対策の一助となることを願って止みません。

 続いて、岩見沢農業高校森林科学科の宇野唯真さんが「北海道の『森林の活用』 高校での学びと実践活動」と題して発表されたが、その内容については割愛します。
 また、その後に「子ども部員の発表会」、「朗読劇」とありましたが、私は他に所用があったために中座させてもらいました。

いやー、本日も大苦戦です!

2024-12-28 20:43:00 | 講演・講義・フォーラム等
 申し訳ありません。本日も大苦戦です。
 PC修理業者と電話でやりとりして、PCはなんとか回復して大喜びだったのですが、今度はブログのページにログイン出来なくなってしまいました。
 未熟な技術で先ほどから2時間ほど苦闘したのですが、解決できません。
 もう疲れ果ててしまいました。今日は諦めます。明日また挑戦してみます。はぁ〜あ…。

田中陽希さんのトラバースの勧め

2024-12-23 14:22:21 | 講演・講義・フォーラム等
 「田中陽希」と言えば、2014年にNHK・BSを通して「グレートトラバース 日本百名山一筆書き」を達成したことで一気にその名を知られたプロアドベンチャーレーサーです。その彼が先日(12月21日)札幌においてトラバースの勧めを説いた講演を聴く機会を得ました。

    

 12月21日(土)午後、北大の学術交流会館において北海道大学観光学高等研究センターが主催する「山岳観光とアドベンチャーツーリズム」と題するフォーラムに参加しました。
 そのフォーラムの特別講演として田中陽希氏が「百名山ブームが続く、トラバースブームの考察」と題してお話されました。

         

 その趣旨は、百名山、二百名山を目ざすという登山が中高年の方々を中心にブームとなっていますが、体力的に大変な方は、山を目ざすのではなく山岳地域を横移動するトラバースも良いですよ、とご自身の体験も交えながらその良さを説くものでした。いわば “垂直移動” から “水平移動” への勧めといった趣旨と受け止めました。
 田中氏はご存じのように、百名山ばかりか、その後も二百名山、三百名山を、ただ登山をするだけではなく、登山する山と山の間の全てを “徒歩で移動する” 旅で全てを完遂させたことでもその超人ぶりが話題となった方です。
 田中氏は言います。現代において移動するということは、いかに速く目的地に達することができるかが問われているが、“歩く” という行為は、それとはまったく反対の行為であると言います。現代において “歩く文化(習慣)” は薄れていっていると指摘します。確かに “歩く文化(旅)” は非日常の行為ではあるが、スピードが要求される現代だからこそ、ゆっくりズムもまた大切にしたいと主張します。そしてゆっくりズムの “歩く旅” は、そこに人との触れ合いが生まれることが多いと、田中氏は体験の中でのエピソードを交えて紹介してくれました。

    
    ※ 田中さんがグレートトラバースで履きつぶしたシューズだそうです。

 そして “歩く道” も様々であるとして「登山道」、「木道」、「古道(熊野古道)」、「修験の道」、「農道」等々、多様な道を紹介されました。
 最後に田中氏は「五感を通した体験は長く記憶を残す」と話され講演を締め括りました。
 私は田中氏のお話を聴きながら深く同意していました。田中氏とは比較にならぬ全くの低レベルの体験ですが、現役をリタイアしてから中山道の「木曽路」や「熊野古道」を歩いたり、夏・冬の「石狩川」沿いを遡ったりした経験から “歩く旅” の醍醐味をそれなりに体験できたことを想い出しています。
 今夏の「さっぽろラウンドウォーク」もその延長線にあった体験でした。

    
    ※ フォーラムは満員に近い盛況で、田中氏のお話に聴き入りました。

 登山がもう私の体力では叶わなくなった今、体力の許すかぎり “歩く” ことを楽しみたいという思いを強くしてくれた田中氏のお話でした。
 なお、フォーラムは講演以外のプログラムもあったのですが、所用があり失礼しました。

小規模自治体は生き残れるのか?

2024-12-22 19:57:51 | 講演・講義・フォーラム等
 少し刺激的なタイトルではあるが、“限界集落” とか “限界自治体” という言葉が囁かれ始めて久しい。少子化に加えて、都市への集中化が加速する中、特に小規模自治体には厳しい現実が突きつけられているようです。関連するフォーラムに顔を出してみました。

 一昨日(12月19日)午後、北大構内で開催された北海道大学公共政策大学院が主催した「小規模自治体の持続可能性」と題するフォーラムに参加しました。
 フォーラムは、公共政策大学院の山崎幹根教授が「人口減少時代の地域政策事例研究」と題して、北海道内の自治体に対して行ったアンケート調査の分析と解説。そして東神楽町長による「自治体広域連携の現状と課題」と題する講演から成っていました。
 山崎教授のアンケート調査は、主として小規模自治体を司る自治体職員に関する調査を主とするものでした。それによると、まず地方の自治体に就職しようとする人材不足の問題が浮き上がってきているそうです。特に専門職員(技術職)の不足が深刻だということです。また、都市から離れた小規模自治体は深刻度が顕著だという調査結果でもあったそうです。

       
       ※ アンケート調査の分析と解説をされる山崎教授です。

 こうした状況に対して、自治体では人材確保のために「地域おこし協力隊」を増員したり、外部委託をしたりすることによって急場をしのいでいるのが実状のようです。
 一方で自治体には国からDX対応や、ゼロカーボン対応といった時代の要請も次々と次々と指示が下りてくるのですが、その対応もままならない状況も生まれてきているようです。
 こうしたアンケート結果を踏まえて山崎教授はその対策を例示されましたが、決定的な有効策は模索中という感じに私は受け止めました。
 人材不足の問題は自治体だけの問題ではなく、今や我が国の全産業においても人手不足が叫ばれている状況です。この傾向は今後ますます深刻化することこそあれ、問題の抜本的な解決はむずしかしいのではないでしょうか?
 さて、問題の核心である「人口減少問題」はどうでしょうか?これもお先真っ暗というのが本音のような気がします。「晩婚化」、「未婚化」、「少子化」の波は止まることを知りません。ある推計によると、我が国の人口は2008年の1億2千万人をピークに、2100年には人口が半減するとも言われています。

  
 ※ このグラフは山崎教授が提示したものではなく、私がウェブ上で見つけたグラフです。

 そうなると現在小規模自治体と呼ばれている自治体は軒並み立ち行かなくなるのではないでしょうか?そんな未来が数十年後に控えているということを想像するだけでも恐ろしい気がしますが、私たちはそうした未来が近づいていることを認識することも必要なのだと今回痛感させられました。
 私は現職時代、オホーツク管内のいくつもの小さな町村に務めた経験を持つものですが、そうしたある意味で私にとって古里でもある町村の活気が年々失われつつあることに、言いようのない寂しさを感じています。あの古里が無くならないよう、消えてしまわないよう、何か奇跡的な回復策はないものでしょうか?そんな非現実的なことがあるわけがないと一笑に付されてしまいそうですが…。               

北海道の開拓期の女学校

2024-12-21 16:01:38 | 講演・講義・フォーラム等
 北海道において開拓期に女学生のために学校を拓いたのは私立の学校だったそうです。北海道の開拓期の状況を調査・研究する学芸員の方から北海道の開拓期の女学校の様子についてお話を伺った。

   

 一昨日(12月19日)夜、札幌市豊平館において豊平館と北海道開拓の村の共催による「歴史連続講座」(全4回開催)の第1回講座が開講され、受講しました。第1回講座は「開拓期の女学生」と題して、北海道開拓の村学芸員の西田結香さんが講師を務められました。

      
      ※ 講師を務めた西田結香さんです。

 開拓期における女子教育の推進に努めたのは、開拓次官だった黒田清隆だという。黒田は明治4年に「開拓の要は人材教育、その根本は母となる女子の教育にある」として、わずか8歳だった津田梅子(後の津田塾大を創設した人物)をはじめとする5人の少女をアメリカに留学させた人として知られています。
 一方で黒田は、明治5年に東京芝増上寺境内に4月に男子の「開拓使仮学校」を創立したのに続いて、9月には「開拓使女学校」を創立させたそうです。それは、女学校卒業後に北海道で開拓事業に従事する者の配偶者として、開拓に協力する花嫁を養成する目的があったそうです。
 明治8年、男子の「開拓使仮学校」は「札幌学校」と名を改め札幌に移転したのに続いて、「開拓使女学校」も「札幌女学校」と改称して札幌に移転しました。ところが官員と女生徒の間に醜聞が発生したことで当時の開拓大判官の松本十郎が激怒して翌明治9年に廃校となってしまったそうです。
 その後の女子教育は、明治11年になって函館に三人の修道女がやってきて教育事業を興した(現在の函館白百合学園)のが本格的な女子教育の始まりとされています。
 続いて明治15年、同じ函館にメソジスト派のメリマン・ハリス夫妻によって「カロライン・ライト・メモリアルスクール(現在の遺愛学院)」が創設されました。
  明治20年になって札幌にも「スミス女学校(現在の北星学園)」が新渡戸稲造の支援もあって創設されました。また、函館にはさらに仏教系の「六和女学校(現在の函館大谷高校)」も創設されています。
 こうして紹介してくると、北海道の女学校の始まりは全て私立の学校であることが特徴の一つです。公立の女学校はそれから遅れること15年。明治35年になってようやく北海道庁立札幌高等女学校(現在の札幌北高校)」が始まりでした。その後は、北海道各地に公立の高等女学校が次々と創設されていきました。
 講師の西田さんは、直接「遺愛学院」に赴き、学校の実態調査を行ったそうです。創設当時から保管されていた明治期の資料は明治40年函館大火により大半を焼失してしまい、現存するのは大正以降の資料だったということですが、当時の入学願書、在学保証書、成績表、学校日誌、等々貴重な資料を確認することができたということで、そのうちの何点かを写真で拝見することができました。校内の様子も古き良き時代の雰囲気を残したものを写真で確認させていただきました。
 「函館遺愛学院」というと、校舎の壁がピンク色に彩られていて、いかにも女子高という感じですが、私も函館を訪れた際に校舎を外側から見させていただいたことを思い出しました。

    
    ※ ピンク色の壁が印象的な函館遺愛学院の校舎です。

 現在、道内の女子高校は全て私立で、函館に3校(遺愛女子高校、函館大妻高校、函館白百合高校)、札幌に2校(藤女子高校、北星女子高校)の5校だけとなってしまいました。(札幌聖心女子学院高校は、本年度で募集停止となりました)時代の流れとはいえ、女子高の卒業生や関係者にとって寂しさは隠せないものと想像される。講師の西田さん自身、女子中学、女子高校の卒業生ということでしたが、彼女がその想いについて語ることはありませんでした。しかし、彼女が女子教育の歴史を研究テーマとしていること自体が、彼女の女子教育に対する思いが伝わってくるようでした…。

札幌おもしろ歴史散歩 by 和田哲氏

2024-12-19 22:08:12 | 講演・講義・フォーラム等
 和田氏のお話を伺うのは今年5度目である。さすがに博学の和田氏でもネタ切れの感があった感じです。それでも私は和田氏のお話を楽しくお聴きしたのでした。

   

 昨夜(12月18日)、連続受講している「労文協リレー講座」の第3回講座が北海道自治労会館で開講されました。第3回目のテーマは「札幌おもしろ歴史散歩」と題して街歩き研究家の和田哲氏が講師を務められました。
 和田氏のお話は、今年に入って「ほっかいどう学かでる講座」で1回、「札幌学院大コミュニティカレッジ」で3回、いずれも同じテーマでこれまで受講してきました。
 「あるいは同じような話を聴くことになるかも?」と思っていたところもあったのですが、さすがにいくら博学の和田氏とはいえ、おもしろそうな札幌の歴史の話がそうそう多くは転がっていなかったようです。私にとっては、聴いたことのあるお話が多かったのも仕方のないことだと思えました。

    

 昨夜お話された内容は、①札幌の条・丁目、②北海道三大名橋、③札幌市電+名古屋市電、④北海道私鉄物語、⑤アンパン道路、⑥冬季札幌オリンピック、⑦ススキノの劇場&狸小路、⑧北海道盆踊り、⑨幻の藻岩山スキー場、そして「おまけ」として藻岩山中腹に設けられたスキー神社のお話、といったラインナップでした。
 いずれもが、以前にお聞きした話で、拙ブログでもその多くを触れているので、本稿では、①の札幌の条・丁目のお話を少し深堀してみたいと思います。
 まず、街の中心部を「北○条・西丁目」というような企画割りしている都市は他府県には存在しないということです。北海道内には札幌に倣って20数市町で採用しているものの、他府県では街の名称を付けているということです。例えば東京都では大手町1条1丁目というように…。もちろん札幌でも、郊外へ行くと平岸2条3丁目というような表示はありますが、札幌市の中心部のほとんどは北〇条西〇丁目というように表示されていて、私たちとしてはそれが当たり前のように思っていますが、全国的に見るとそれが当たり前のことではないことが分かりました。
   
※ 少々図が不鮮明ですが、東京の街名が非常にたくさん付けられていることが分かる図です。

 そして札幌の条・丁目がどれだけ広がっているかというと、「条」では南は南39条、北は北51条まで広がっています。「丁目」の方は東西ともに30丁目まで広がっています。
 そして条・丁目の一つの区画は道路を除き一辺が109mの正方形で区角割りされています。ですから歩くときに目的のところまで凡その距離を知ることができるのです。
 ところが特例はどこにもあるようで、区画が正方形でないところも存在します。その中でも南10条西2丁目は、ほんの小さな三角形の区画で一周しても僅か40mに満たない広さで、札幌市内で最小の条・丁目だそうです。もちろん住んでいる人はいないそうです。
 一方、桁違いに広い条・丁目は北16条西16丁目で、ここは札幌競馬場がすっぽりと入る区画だそうです。こちらは一周約4kmだそうです。
 また、札幌の街は前記したように正方形で条・丁目が区角割して街づくりをしたために、碁盤の街とも称されますが、NHKテレビの「ブラタモリ」でも話題になったように、街中で微妙に道路が屈曲しているところがあるのです。その理由は、北海道開拓使が区角割をした際に、大通に対して現在の国道230号線(通称「石山通」)を接続する際に直角ではなく95度で接続したことに原因があるそうです。(これは磁石上の南北を基準としたため)

  
  ※ 大通公園(緑色の区画です)とそれに接続する赤い縦の線(国道230号線)が微妙に歪んで接続されていることがお分かりかと思います。

 札幌本府は大友堀(現在の創成川)を基準として街づくりを進めたのに対して、当時は札幌本部とは離れた山鼻地区の開拓に入った山鼻屯田兵村は国道230号線を基準に(つまり磁石の北を基本に)街づくりが進められたそうです。そのため街が発展し、札幌の中心街と山鼻地区が結ばれたときに道路に微妙な差が生じたそうです。その微妙な差が今現在もその痕跡を残しているそうです。
 そのことについて、和田氏は札幌本府の街づくりを担当したのが岩村通俊だったのに対して、屯田兵制度を指揮したのが黒田清隆だったことに遠因があるのでは、推測を述べられました。つまり岩村と黒田は互いに反目し合っていた間柄だったそうで、岩村は山鼻屯田兵村の区角割をする際、札幌本府の街づくりに準ずることが当然と考えていたのだが、黒田は岩村の思いなどには一顧だにすることなく独自の街づくりを指示したために、今のように微妙な差が生じてしまったのではないか、との推測を述べられました。果たして真相は?? 
 いや~、歴史って面白いですね。和田氏には、これからも札幌の街を隅々まで巡り歩いて新たな発見をしていただき、それを私たちの提供していただけたらと勝手な願いを持っているのですが…。                                     

改めてACP(人生会議)について学ぶ

2024-12-17 20:57:43 | 講演・講義・フォーラム等
 今年に入ってから何度か「人生会議」という言葉を聴く機会がありました。「人生会議とは何のことか?」おぼろげながら概要は把握していましたが、今回改めて「人生会議」について学ぶ機会を得ることができました。

   

 12月15日(日)午前、札幌市立病院市民公開講座が開講されたので参加した。テーマは「自分の価値観や希望を、大切な人に、医療関係者に伝えるために」というもので、札幌市立病院の看護関係職員の方3名の方が「人生会議」について様々な角度から説明してくれました。
 そもそもACPとは、Advance Care Planningの頭文字を取ったもので、Advanceとは「進む」とか「進める」という意味があるようです。Careは「心配」とか「不安」という意味です。そしてPlanningは「計画」とか「立案」という意味があります。つまり直訳すると「不安なことに対して、計画的に解決に向けて進める」というような意味になろうかと思います。もう少し意訳をすると「人生の最終段階における医療・ケアについて、本人が家族や医療・ケアチームと共にあらかじめ話し合うプロセス」のことを日本(厚労省)では「人生会議」と称したようです。
 各講師のテーマは以下のとおりです。
 ◇「大切な人とあなたの人生会議」
 ◇「もしもに備えた私の心づもりを考える」
 ◇「APC 人生会議~自分の価値観や希望を大切な人や医療者に伝えるために~」
と三者が講義をされたのだが、三者の内容に大きな違いはありませんでした。そこで本稿では、三人の講師が説かれた内容を統合して記録することにします。
 「人生会議」を行う時、大切にしたいことは「自分が何を大切としているのか。どのように生き方を望むのか。繰り返し考え、話し合い、家族や医療・ケアチームと共有する」ことが大切だということです。 

     
 具体的には、
 ① 病気の有無に関わらず、「日々を過ごすうえで大切にしたいとや希望は何か?」
 ② もしも治らない病気などになった際に、「延命治療を望むのか?」それとも「痛みや辛さを緩和する治療のみを希望するのか?」
 ③ 治療やケアについて、自分が決められなくなったとき、代わりを誰に頼むのか?
 ④ もしも治らない病気などになった場合、最期をどこで過ごしたいのか?
 ⑤ だんだん口から栄養が取れなくなった時、「栄養点滴」、「鼻から管で栄養を入れるのか」、「胃ろうを希望するのか」、「自然の経過でいいのか」、どれを希望するのか?
 ⑥ 治らない病気で療養中に、急に心臓や呼吸が止まった時、延命措置を希望するのか、希望しないのか?
 等々について、家族や医療従事者と話し合い、希望を伝えおくことを「人生会議」と称しているようです。
 この希望は、時と共に、あるいは病変によって変わっていくことも一向にかまわないと言います。今現在の本人の希望や気持ちを周りに伝えておくことが大切だと各講師は強調されました。

    
    ※ 札幌市立病院の全景です。

 自分らしく最後まで生きるために、現在の自分の気持ちを周りに伝えておくことにより、自分も、そして周りの人たちも納得できる最期を迎えることができる、というのが「人生会議」の大きな特長であることを教えられました。

さっぽろ漫画人協会忘年展 2024

2024-12-10 19:31:33 | 講演・講義・フォーラム等
 毎年恒例の「忘年展」である。風刺の効いた “笑い” を求めて、「ほくほく札幌ビル」の「らいらっく・ぎゃらりー」(大通西2丁目)を覗いてみた。

 本日(12月10日)より16日までの日程で、「さっぽろ漫画人協会忘年展」が開催されていることを知り覗いてみた。この忘年展は毎年開催されており、今回で51回目だという。
 あまり広くはない会場に一般の漫画による作品が15点、「川柳画」と称する川柳と同時に画が描かれた作品が33点展示されていた。
 それぞれクスッと笑わせられる作品が所狭しと展示されていた。プロとは違うアマチュアの作品だから、全てが観る者を唸らせるような作品ばかりでない。中には「ひねりが足りないなぁ」という作品や、「画がイマイチかなぁ」という作品も混じってはいた。そこで私なりに漫画の部、川柳画の部、それぞれのベスト5を選定させていただき、その作品を紹介することにします。ベスト1は貴方がお選びください。
 まず「漫画の部」です。(なお、漫画の部は「新」というテーマとの部と一般の部に分かれていた)
 まずは「新」の部から3点紹介します。    
 今年はこの人のことは外せないでしょう。大谷翔平選手にまつわるたくさんの「新」を携えた戦国武将が登場しました。大谷選手の今年は、「新チーム」、「新居」、「新婚」、「新家族」、「新記録」そして「新通訳」と、「新」づくめの一年でした。
     
    
 続いては、今春の「能登地震」を題材にし「謹賀年」から「謹賀年」にしたいという願いが込められた一作ですが、能登半島の擬人化が優れていますね。
    
    
 次は「軽めの紙幣、首相 大丈夫?」とタイトルが付けられた作品です。新首相についてはなんとなく分かる気もしますが、新紙幣の渋沢栄一にもそうした評価が囁かれているのですか?
    

 4作目は一般の部から、トランプ米大統領の選出をカードのトランプに掛け合わせた作品ですが、トランプさんの顔のイメージではなく、好々爺に見えているところは減点でしょうか?
       

 最後は強烈な皮肉が笑いを誘います。題して「総裁選 クレーンゲーム」として今年の自民との総裁選をゲームセンターのクレーンゲームに例えています。恋人(?)の二人の会話がまた笑わせます。(彼女)「どれでもい―よね―」(彼)「いんじゃね―」  ※ ガラスで光源が写り込んでいるのが残念!
   

 続いて「川柳画の部」です。
 最初に「寝転んで カステラ食べて 金メダル」です。道民にとってパリオリンピックで旭川市出身の北口榛花選手の金メダルは嬉しい出来事でした。また、彼女の明るいキャラクターも全国的な人気でしたね。
     
 
 2作目は、「始球式 人より上手く 運べるワン」 ここでも大谷選手がらみです。愛犬の「デコピン」は大人気でした。
      

 3作目は、「政治家も イモもミカンも 小粒なり」これは痛烈な皮肉の一句ですね。政治家の奮起を期待したいものです。
      
 4作目は、「ハラハラで 何も言えない しゃべれない」〇〇ハラスメントという言葉が世の中に氾濫しています。おじさんが心に浮かんだ言葉は、「きれいだね」、「髪切った?」、「頑張れ!」、「その服似合ってるね」…。難しい世の中になりましたなぁ。(リタイア親爺の感懐です)
     

 最後の5作目は「石破氏を たたいて渡る 総選挙」、「石破氏」と「石橋」を掛け合わせたものですが、果たして石破首相は石橋を叩いて渡るような総選挙したのでしょうか?そこは疑問も残りますが…。
       

 さて、あなたはどの作品をベスト1に選びますか?
 全48作品、それぞれに工夫があり、クスッと笑わせてくれて、楽しいひと時でした。
 忘年展の会期は16日までです。時間がありましたら覗いてみてはいかがでしょうか?その他にあなたの気に入る作品があるかもしれませんよ!