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マイコー雑記

行き来するもの書き留め場

米国育ちで日本の小中学校に数日通った子供達が思った10のこと&敏感っ子が学校に慣れていくということ

2017年06月28日 | 子育て全般

日本滞在10日目です!

実家は、食器洗浄機、乾燥機、クーラーなどの家電製品に頼らない生活なので、

フーフー言いながら、汗をふきふき家事してます。

毎晩日が沈み、ひんやりとした風にあたる心地よさといったら!

また食材の買出しや、とにかくどこへいくにも、

徒歩や公共の交通機関が頼りですから、足腰が鍛えられますね。

通常の日本の方々と同じように暮しながらも、足が、毎日筋肉痛ですよ。

米国社会で、常に心地よい温度に保たれた環境や車社会になれた身体が、

日々作り直されているような気持ちです。

 

しかし冷房も、どこへいっても米国に比べると、マイルドですね。

米国の自宅の近所のスーパーも、

夏の間、「店舗丸ごと冷凍庫?」と思うぐらい冷えてます。

必ずジャケット持参で買い物へ行くのですが、

あちらの方々は、ノースリーブにショーツで悠々と買い物されています。

「感じる度合い」が違うのでしょうかね。

 

 

さて、先週は中学校、今週は小学校の体験入学を終えました。

普段、今の学校のあり方について書くことも多いわけですが、

今回は2.3日、お客様のように参加させていただいたこともあり、

ただただ、先生方、そして生徒たちの

優さ・親切さ・親身さ・ユーモアなどに感動した日々でした。

三女を囲んでクラスメート達。

 

子ども達も、

先生はじめ周りの生徒の「人の良さ」に驚いていました。

米国から数日体験入学という立場ですから、

生徒達もものめずらしかったのでしょうね、

常に周りを囲むようにしてお世話していただきました。

 

最後には、

ラミネートされた集合写真の裏にクラス一人一人から寄せ書きしていただいたり、

クラスメート一人一人から手紙もいただきました。

短い間でしたが、かけがえのない思い出になったようです。

 

また中学は、校長先生はじめ先生方が、

「これまで様々な中学校を回ってきたけれど、この学校が一番落ち着いています」

と口を揃えて言うような学校でした。

 

母校なんですが、

当時は、竹刀を常にもっているような先生もいて、

ヤンキーとか「不良」といわれる子がもっといたよなあと思い出してました。

親御さんたちに聞いても、「ヤンキーとか全然いないのよ」とのこと。

確かに、見渡しても、真面目そうな子ばかりです。

「ぐれてる暇も余裕もないのよ」という親御さんもいましたが、

親の目や手が、より行き届くようになったということなんでしょうか?

 

 

以下ざっと、子供達が口にしていた感想をまとめてみます。

米国育ちの子供達が日本の小中学校に数日通ってみて驚いたこと

1. 中学に入ると男女の間に大きな距離ができる

これは中学生組みの意見です。

小学生は見ていても、男女がより混ざり合っていましたね。

米国のクラスは、授業の割り当てでも自主的にも、

様々な活動を男女混ざってすることが多いのに対し、

日本では、授業でも休憩時間でも、

男女がはっきりと別れていてびっくりしたようです。

男子は遠巻きに女子を眺めながら、

時々ちょっかいをかけるといった振る舞いをする子もいる。

すると女子は、「男って子供っぽいよねえ」といった様子で返す。

こうした雰囲気は、米国にはないのだそうです。

確かに米国の中高生を見ていると、

「男女の境界」をそれほど意識していないところがあります。

これはインターナショナルスクールに小学時代通い、

公立の中学に移った従兄弟の息子君も口にしていました。

 

2. 掃除の時間がある

これは、小中学生皆、衝撃だったようです。

また、中学校の教頭先生が、

「最後の感想で、娘さんが皆で掃除していることに驚いたと言っていたんですが、

日本の生徒にとって、とても新鮮なコメントでしたよ」とおっしゃられてました。

米国は雇われた業者さんが掃除をします。

生徒自らが皆で学校をきれいにすることが時間割に組み込まれているのは、

日本が誇ることのできる、最高の教育だなあと思います。

 

3. 給食が美味しい&選択肢がない

日本の学校での掃除と給食については、

世界的にも知る人ぞ知る有名なこと。

同時に長女は、米国のように自分で食べたい物を選ぶことができない

ということが新鮮だったようです。

 

4. 生徒が従順で先生をよりリスペクトしている

米国では、「生徒が自分の意見を言う」という風潮が行き過ぎて、

あまりにも傍若無人に先生に対しても失礼な態度をとる生徒もいます。

日本では、先生に言われたことは何であっても素直に「はい」ときく従順な生徒が多いことが驚きだったようです。

 

5. 写真の時に皆がピースする

また、最後の記念撮影でも、

皆が皆ピースサインをする様子に驚いてました。

確かに。

「こうするのよ」とピースサインを教えてもらったそうです。

 

6. 恥ずかしがりやの子が多い?

米国では人前でのプレゼンも小学生時代から鍛えられます。

それに比べ、日本は人前で話すことが苦手な子が多いのかなという印象だったようです。

最後にクラスメート一人一人からもらった手紙にも、

アメリカの学校生活についてスピーチするよう言われた長女へ、

「物怖じせずクールだった、堂々と話していてかっこよかった」

と書かれたものが多かったです。

 

7. 礼をする回数の多さ

毎時間、立って先生に向かい、

「よろしくおねがいします!」「ありがとうございました!」と挨拶することに驚いてました。

廊下でも、先生とすれ違うときには会釈し、

日に何度も何度もお辞儀する様子が強く印象に残ったようです。

挨拶とは、原点を思い出す瞬間、そう思います。

授業ごとに、こうした節目ががあるというのは素晴らしいなと私は思います。

 

8. 折り紙が上手

小学生の子達、たくさん折り紙を折ってプレゼントしてくれました。

カタツムリや、凝った独楽や、

折り紙好きな三女も次男も感動してました。

折り紙は、米国でも子ども達の間で人気があり、随分と行き渡っています。

日本の文化が、こうして世界中の子ども達の架け橋になっているのっていいですね。

 

 9.手を握ってくる子がいる

小学生の三女ですが、

歩く時など、女の子達が手を握ってきたことに、とても驚いてました。

確かに、米国ではお友達同士手をつないでいる様子をあまり見ないかもしれません。 

ハグを頻繁にする文化ですが、面白いですね。 

 

10.先生が前に立ち教科書にそって講義をするという授業がほとんど

米国は、教科書がなく、

担当の先生が独自に用意するプリントや用具を用いた授業も多いですし、

もっと先生と生徒間、生徒と生徒間で

ディスカッションなどのやりとりが組み入れられているとのこと。

長女は、子供なりに、

「日本の学校は、先生も生徒も人は親切で最高だけど、

教育はどうなんだろうと思った」と言っていました。

他の子達も、日本語がしっかり分からないということが大きいのですが、

他のことは楽しかったけれど、

ただ座って先生の話を聞き続けるのみの授業が、

退屈だったと口を揃えていました。

逆に言えば、より長い間ジッと座って話を聞き続けることのできる日本の生徒たちがすごいです。

米国では、授業中も動き回ることも多く、

期待される「じっと座り聞き続ける時間」もより短いように思います。

 

 

学校に慣れるのに時間がかかった次男7歳の成長

3歳のプレスクール時には、嫌がりながらも3ヶ月続けた末、

激しいチックが出、断念。

←プレスクールを止めることでチック改善。

チック症体験:http://kosodatekyua.com/tic/

 

5歳のキンダーでは、

「音が大き過ぎる」とランチの時間や行事には、

私が隣に座り手を握ってました。

 

小学校1年でアラスカから東海岸に移り、

通学バスは苦手だけれど、

私が教室まで手を繋いで送り迎えするなら登校できるようになります。

 

小学校2年で新たな小学校に移り、

今では、毎朝「ばいばい!」と車を降りて学校に向かい、

帰りはバスで戻ってきます。

気の合うお友達が何人かできたようで、

学校が楽しいようです。

 

今回、再び全く見知らぬ、しかも言語も通じない環境に入るわけですから、

難しいかもしれないなと覚悟していました。

それでも結局、「まあまあ楽しめた」とのこと。

「言葉さえはっきり分かれば、この学校、毎日行ってもいいかも」とも言っていました。

次男にとって、またひとつ成長だなあと感じています。

 

「敏感な子」が、本人のペースで慣れ、

その子なりに様々な体験ができるよう、

長い目でみてサポートしていきたいですね。

 

 

 

 

 

最後に、小学校でも中学校でも、

「お忙しいところお手数をおかけして申し訳ないです」という私に、

「学校にとっても生徒にとってもいいことなんですよ。

異なる文化に育った子と直接接することができ、

英語を学ぶ機会にもなりますから」と先生方。

 

2019年から、

小学校でも高学年から英語の授業が始まりますね。

これまでの小学校の先生の採用時点では、

「英語ができる」ことが必要とされていませんが、

それでも、そうして先生になった方々が、英語も担当することになるのだそうです。

「高学年を受け持つことを避ける先生方が増えるんじゃないか」と

小学校の教頭先生も笑ってらっしゃいました。 

「グローバルな人材を育てよう」とする教育改革は、

調整を必要としながらも、現場にも、徐々に浸透していますね。

 

小学校分団登校

この中央の線からは、「靴をはいたままではだめ」と教えられます。

 

実際、靴で一歩でもこえようものなら、即効注意されます。

「こ、こまかいね」と驚く小学生組み。

 米国は、靴と屋内の差がアバウトですからね、新鮮だったようです。

 

 

さて、書たきたいことは溢れながらも、

体力的に限界です、ひとまず寝ますね。

今週は東京へ日帰りもありましたし、週末は大阪です!

こちらに来て以来、日本の子育て本にも手当たり次第目を通しているのですが、

その中から思ったことなどもお伝えしたいなと思っています。

それでは、みなさん残りの週もよい日々を!


『It Mama』寄稿:「科学的に証明!パパの存在が子どもの成長に与える影響」&父と娘の性(機上より)

2017年06月17日 | 子育て全般

ただ今、カナダ上空を飛行中。

このまま無事に、日本に到着できそうでほっとしてます。

あと9時間ほどです。

 

旅というと、だいたい何か1つか2つ忘れるんですが、

今回は、日本の親戚友人のために購入したチョコレートを、

冷蔵庫にごっそり忘れ、空港で買いなおしましたよ。

まあ、「パスポート忘れた」とかでなくてよかったです。

日本から帰ったら、チョコレート三昧です。←子ども達大喜び。

 

今日は父の日ですね!

ということで、『It Mama』さんへ「父親の存在と子供」について、

まとめました。

 

子育てというと、まずは「母親」に注目がいきがちです。

これは、母親の方が父親より、

より長い時間子どもと過ごす場合が多いということもあるでしょうが、

とはいえ、専業主婦だろうと共働きだろうと、

「子供にとってお母さんこそ大事」といった風潮がありますよね。

 

そこで、この記事では、

「子供にとってお父さんってこんなに大事」

といった研究を紹介しました。

 

命は1人では誕生しませんから、

命の成長にも、2人の存在の影響が大きいというのは、

理にかなってるよなあと思います。

 

「父親の存在」と「女の子の性」

記事の中の、3番目の研究についてですが、

「子ども時代、父親と充実した時を過ごした女の子は、

第二次性徴期開始もより遅くなりがちで、

性的な問題行動を起こすことも少ない」とあります。

 

これは、私自身、そして周りを振り返っても、

とても納得いく報告、そう思います。

 

私の父は、団塊世代で、

元々は代々神官の家に生まれ、神官になるための勉強をしながらも、

マルクスに傾倒し、「宗教はアヘン」色にすっかり染まり、

大学も中退。

それ以来、ずっと社会的な活動を続けています。

 

社会活動に忙しく、毎晩のように午前様。

食事を一緒にした記憶もあまりないですし、

出張も多く、何ヶ月も会わないことさえありました。

 

また祖母が父親を妊娠中に、祖父は戦死し、

父は祖父に一度も会うことがなく、

父自身、父親という存在がイメージしにかったこともあるのかもしれません。

 

とにかく、たまに顔を合わせれば話をし、関係も悪くないものの、

常に父の関心は家族の外にあり、

圧倒的に、一緒に過ごす時が短かったといえるかもしれません。

 

こうした父親との関係と、

以前も書いたように少し変わった環境にあったこともあるのでしょうが、

幼少期から見られるゲイの兆候研究紹介 & 私自身の「性差」教育体験からも思う子ども自身を「観る」大切さ

私自身、思春期以降、性的なことでは、今振り返っても、

迷走まっしぐら大混乱状態だったように思います。

当時周りで、荒れていた女の子たちは、

皆何かしら親との葛藤を抱えていたように思います。

 

そして今、娘達をみていて思います。

夫は、シングルファーザーに育てられ、

家族という存在を熱望して育ったためもあり、

私以上に子煩悩。

 

娘達も思春期になり、

年相応、性的なことへの興味関心もあるようですが、

当時の私のように、

ぐちゃぐちゃにこじれてしまった様子は

あまり見受けられません。

 

紹介した研究にある、

「父親のフェロモン」が「他者のフェロモン」を遠ざける、

といった説明に、なるほどなあと思いました。

私の個人的なイメージですが、

父親のフェロモンを常に身近に感じている女の子というのは、

他者のフェロモンへ対しても「クッション」があるというか、

そうそうもろに影響を受けることも少ないのかもしれないなあと。

 

こちらにも、より詳しく載せてあります:

・父親の重要性

 

興味ある方、是非どうぞ!

科学的に証明!「 パパ」の存在が子どもの成長に与える影響3つ

 

 

さて、もうすぐ空港に到着し、父に再会します。

親については、私自身、こちらに書いたような気持ちでいます。

夫の母親と過ごした数日間、手放した分だけ必ず何かを得ている・特性のなせる業・新生

15年という年月の中で、私なりに整理してきました。

 

家族としては、あまり機能しておらず、

私自身も随分迷走してきましたが、

それでも、

常に社会的に虐げられた人々、社会的な問題について、

取り組み続ける父親の背中を見て育ったことを

今では、有難く思っています。

 

今日は15年ぶりに再会する父と、父の日を祝います!

 

少しでも、健やかに育つ女の子が増えていきますように!

父親と子供が共に過ごす時、

忙しいスケジュールにも組み込んでいきたいですね。

 

飛行機の中にて。

 

「映画観放題」に驚愕し大興奮中。

本人達、本や漫画やボードゲームやと詰め込んできたんですが、

「映像」の前に吹き飛びましたよ。

 

それではみなさん、ハッピー・ファーザーズデイ!

 

 

*「飛行中書き放題!」と喜んだのもつかの間、

コンセントがないようで、コンピューターのバッテリー切れとなりそうです。

「コンセント」のこと、日本人の客室乗務員の方に「アウトレットありますか?」と聞き、

「コンセント」が出てこなかった自分。日本滞在中、日本語鍛えなおします。


子供の健やかな成長に不可欠な「大人の事情や時間=大人帽子」を脱ぎ捨てる時、「忙しい!」日常での工夫

2017年05月22日 | 子育て全般

こちらの『虹色教室通信』の奈緒美さんの記事、

ゆる~いオーラと、忙しんだから話かけないでオーラ

私自身、子育て生活を通して、

何度もはっとさせられ学んできたこと、

そして今も学んでいることが書かれています。

 

“「昔は(数年前のちょっとだけ昔でも)子どもを取り巻く人々の中に、
「ゆる~い」印象を放射している人がたくさんいましたよね。

ムダというか、余裕というか……子どもの目にも暇そうに映って、
おしゃべりしたいときは自由に話せて、
相談すれば、喜んで乗ってもらえそうな……
24時間、一生懸命じゃない人。”

 

「子どもが変わった、難しくなったといわれるけど、

大人こそが、変わったからじゃないでしょうか」

と問う奈緒美さんの言葉、確かになあと響きます。

 

 

 

社会的な枠の中では、

時間どおりに最大限の物事を達成していくことが要求されますから、

多くの大人は、「1分たりとも無駄にしないぞ!」と突き進んでいきます。

 

これは、

時間に追われた焦りや切迫感にイライラしながらという場合もあるでしょうし、

向上心があったり、仕事にやりがいを感じ夢中になっている場合の、

より前向きな「1分たりとも!」もあるでしょう。

 

 

「大人帽子」をぬぐということ

以前、子ども達を受け持ってくださった先生の中に、

教室で、時々、「あっちへいけ!(BUG OFF!)」と書かれた帽子をかぶり、

机に向かって仕事をする先生がいました。

 

「この帽子をかぶっているときは

集中しないといけないから、

危険だったり体調が悪かったりといった緊急事態以外では話しかけないようにね」

と生徒達にも伝えられていました。

 

ハエが飛んでいる飾りのついた帽子で、

子ども相手にはどうにも際どい「ジョーク」なんですが。

←他にも「ひいき」や「裏表」が激しかったため、

親御さんからこの先生への苦情は随分とありました。

とはいえ、「テヌアー(終身在職権)」をとってしまうとなかなかなす術もないんですよね。

未だに子ども達の間でも話題になることがあります。

まあ、「反面教師」になってとにかく鍛えられましたね。

 

 

 

私は、子どもがその年齢に応じて、

「今はこれをしないといけないから話しかけない」といった

「大人の時間や事情」を尊重することを、

少しずつ学んでいくことも必要だと思います。

 

それでも、子どもが育つ上で何が最も大切かといえば、

「時間枠」や「~するべき」を離れて過ごすひととき、

つまりこうした「大人帽子」を脱ぎ捨てた時や場なんですよね。


「なんとなくこうしたいなあ」といった気持ちや感覚を思う存分広げて、

「効率」などそっちのけで、好きなように試して、寄り道して、

うまくいかなくなって、立ち止まってみて、あっちかなあとまたうろうろ探ってみて。

 

「一分たりとも無駄にしないぞ!」とは対極にある時や場。

奈緒美さんのおっしゃる「ゆる~い」時空。

 

 

 

小さな頃ほど、

こうした「ゆる~い時空」をたっぷりもってやること。

それが、後々、

その子の想像力や創造性や遊び心や余裕や幅や発想や心の豊かさの土台を築く、

そう思います。

 


「大人帽子」かぶりっぱなしの大人に囲まれる現代の子どもたち?

それでも、確かに現代は、

私自身もそうですが、詰まった予定や果てしなく続く「するべきリスト」に、

ついつい、「大人帽子」をかぶったまま子どもに接し続けてしまえます。

 

昔だって、忙しい大人も多かったでしょうが、

とはいえ、奈緒美さんもおっしゃるように、

昔はもっと、子どもは子ども同士で、

「大人帽子」なんて関係のない「子どもの世界」を

たっぷり堪能する時や場がありましたからね。

 

今は、少子化や密なコミュニティーも減る中で、

子どもが子どもに接する機会すら減っています。

それで周りを囲む大人たちが、

「忙しい! 忙しい! 1分たりとも無駄にしないぞ!」と

「大人帽子」をかぶり続けて走り回っていれば、

それはやっぱり、子供も変わってきますよね。

 

 

「大人帽子」をかぶったままで走り続けていると、

我が家もそうなんですが、子どもの気になる行動が増えていきます。

笑顔が減ったり、ぐずぐずと聞き分けの悪さが倍になったり、

やる気が落ちて覇気がない雰囲気だったり、切れやすくなったり、

落ち着きのなさが倍増したり。

 

 

私自身気づいてきたことですが、

専業ママさんでも兼業ママさんでも、

忙しく走り回りながらも、

子どもさんがスクスクと健やかに育っている方々を見ていると、

この「大人帽子」をかぶったりぬいだりの「切りかえが上手」なんですよね。

 

その子の年齢や発達に無理のない「大人帽子」姿を示していきつつ、

それでも、ここぞというときには、

さっと「大人帽子」をぬいで、子ども目線になり、

日常に、子どもと一緒になって「遊び心」全開なひとときが、散りばめられている。

 

特に「敏感な子」の場合、

より敏感に周りの「大人帽子姿」を感じ、

我が家の体験からも、如実に変化が表れてきますから、

意識的に「大人帽子」を脱ぎ捨てる時って、

本当に大切だなあと感じています。

 

 

でも、この「大人帽子」を脱ぎ捨てたときって、

結局、全体的な時間の流れでみると「無駄」どころか、

「切り続けるノコギリを研ぐ」ひとときというか、

発想の転換だとか豊かな気持ちだとかと、

大人にとっても実は「糧」になっている場合の方が多いんですよね。

←ノコギリ研がずに切り続けていれば切れ味は悪くなっていきます。

 

 

 

「大人帽子」を「まとまった時間」脱ぐのが難しくても「一時」を散りばめる

とはいえ、どうにも忙しい日々です。

私自身も、気がつけば「笑っちゃうようなスケジュール」になっていたりします。

 

「何かを減らす」を念頭にいれつつ、

同時に、丸々1日とか、丸々午後となるとハードルも高いですから、

「大人帽子」を横におく「ひととき」を、

日常に10分5分3分1分でも散りばめていくようにすると、

随分と違ってくる、そう思っています。

 

・10分でもゆったり座ってその日の様子を聞いてみる

 

・話しかけてきたら、取り組むことを一旦停止し目を見てマインドフルに聞く

←できないときは「ちょっとこれ終わらせちゃうから5分待ってね」と声をかけてから。

こう繰り返していると、「話しかけてはだめオーラ」を察知する「敏感な子」が、

萎縮したり、自分を抑え込むこともなくなっていきます。

 

・出かける時・帰ってきた時・起きた時・寝る前には、

取り組むことを一旦停止し「アイラブユー」と抱きしめる

←こうして動作と言葉で表すことで、子どもは本当に違ってきます。

安心して落ち着きますよ。

日課にしておくと、「大人帽子」を脱ぎ捨て「我に返る節目」のようになりますね。

 

 

「あ、大人帽子かぶってる」と気づき、

帽子を脱いで子どもに接するひとときを、

日常に散りばめていきたいですね。

 

陽だまり読書な三女と次男(詳しくは漫画に夢中なんですが)。

 

最近様々な出会いが続き、みなさんにお伝えしたいこともたまっていきます。

こつこつとつづっていきますね。

「プログレッシブ教育」のトレーニングの方は、

もうまさに「自分の居場所」を見つけたという心持ちですよ。ふつふつと喜びが湧き上がります。

それでは皆さん、新しい週よい日々を!

 


「日本の伝統的な学校スタイル」の特徴って例えば何でしょう?「そうしたスタイル」に合わない子が伸びていく場とは?「プログレッシブ教育」トレーニング始まりました

2017年05月15日 | 子育て全般

「プログレッシブ教育」のトレーニングが始まりました。

『日本語継承センター』にて「文化を伝えるプログレッシブ教育」トレーニングを受けることになりました

私自身目指す方向に、がっつりと合わさっていて、

そこに立っている自分があまりにも自然な気持ちがして、

こうした場に巡り合えた一連の流れに、感謝がこみ上げます。

 

ベテラン先生方から学びたいことが山ほどありますよ。

 

何十年もかけて培われた姿勢や具体的スキルを備えた存在が、

身近に何人かいらっしゃることの有難さを、噛みしめています。

 

しかもベテランながらも、

こうした方がいいかな、こっちはどうだろう?と

みなさん今も好奇心溢れた様子でひとつひとつの授業に向かわれていて。

 

根掘り葉掘り質問攻めでくっついて回る私にも、←目がハート状態

あり得ないほどオープンに親身に接して下さる先生方に感謝しています。

 

 

 

 

日本人の方々にこれほどまとまった人数お会いするのも何年ぶりかのことですから、

ああ、この感覚懐かしい、ああ、そうだったそうだった、などと

改めて、「日本らしきもの」を実感してもいます。

 

近辺には、日本の「伝統的な教育のあり方」を用いる「日本人補習校」があり、

生徒さんの数も「継承センター」の約7倍の700人。

日本にいずれ戻る家庭も含め、

日本語を母国語レベルで頑張りたいという子供さんたちが通っています。

 

それでも、普段、米国の現地校に通っていることもあり、

「日本的な教育スタイル」がどうしても合わないと感じ、

「継承センター」に移ってくる子もいるとのこと。

 

様々な事例についての話を聞きながら、

ああ、確かに、私自身も子供時代、

そうした「日本の伝統的な学校の雰囲気」を感じて、

「不登校」になりがちだったんだと、思い出していました。

その場の「エートス」(*)を意識的にも無意識的にも、

敏感過ぎるほど感じ取る子っているんですよね。

 

(*)エートス:ここでは、社会学で用いられるエートスのことです。

習慣によって形作られた「生活態度」、その場を構成する人々が選択している「心的態度」、

個々の選択の基準となる「正しさ」からなる「倫理的態度」をひっくるめた

その場を特徴づけているもの。その場を覆う雰囲気。

 

 

 

例えば、

・皆が一斉にきっちりと同じことをしなくてはいけない

一方、「プロジェクトがメイン」の授業の在り方だと、やはり「個性の幅」「レベルの幅」「他の選択肢」が許される雰囲気があります。

 

強烈に感じたり敏感な子にとって、圧倒されて立ち止まる対象も立ち止まる物理的時間も周りと異なりますから、「一斉にきっちりと同じこと」って難しすぎます。

「鈍くする」ことのみが、唯一の方法になってしまいます。

 



・先生のオーソリティーの強さ(権威主義的)

英語には、敬語もありませんから、英語での先生と生徒との会話は、日本人にとっては、まるで「ため口」ような驚きがあります。

先生というのは「リスペクトするべき存在」ですが、生徒ともより「対等」に向き合っているという雰囲気があります。

生徒たちも、疑問などは「なんでそうなるんですか?それはおかしくないですか?」と、授業中でもストレートに口にします。

日本人的な感覚では、先生に対して「失礼」とも見えることがあるかもしれません。

こうしたこちらの学校の感覚で、日本の伝統的学校で過ごすのは、やはり、難しいと感じる子もいるでしょうね。

米国の問題としては、対等に見えるあまり「リスペクトは大切」ということを忘れてしまう生徒がいるということですね。

 

敏感な子の場合、反発する気持ちもあるでしょうが、「自分を抑え込む」「萎縮する」ということがありますよね。 

 

 


・姿勢、座り方、仕草などもこまごまと注意される

「ごそごそする」ことが許されない学習環境だと、逆効果の生徒もいるものです。

・ごそごそ動いた方が学習効果アップ!ADHD・ギフテッド・舞踏家タイプの子

「だらしない子」などとレッテル貼られ、挽回できないとなるときつ過ぎます。

これまで受け持ったクラスでも今回のトレーニングでも、必ずこうした子がいます。

それでも、そうした子達が、

工作やプロジェクトなどに、驚くほどの集中力と細かさを見せたりするんですよね。

放課後スクールで「落ちこぼれ」とされていた子たちが、

アートや創ることに没頭して目を輝かせていた姿が目に焼き付いています。

 

敏感な子の場合、本人が叱られやしないかと落ち着かないこともあるでしょうが、

周りが理不尽に叱られたり見下されたりする様子に耐えられないということもあるのでしょうね。

 

 

 

「伝統的な学校スタイル」の方が伸びる子もいます。

でも、もし合わない場合、

こうした「継承センター」のように、

「伝統的スタイルの学校」以外にも、友達とワイワイ学びながら伸びていく場が、

もっともっと日本にも必要ですよね。

 

「日本の伝統的なスタイルにどうしてもフィットできなくて、

こちらに移ってきて驚くほど伸びたんです」

という親御さんの声を聞きながら、

子供時代の私自身のような、

日本の「不登校」の子どもたちを思っていました。

 

関連記事:

 ・精神科医清水將之氏へのインタビュー記事、「不登校」とは今の学校が「おかしいと疑問を持つ子が割りを喰っている」状態という指摘に納得

 ・ちきりん氏の記事に思うこと、「学校で無駄に過ごす」から「多様な選択肢のある」システムへ

「ちきりん『学校は不利な人をより不利にする場所』 イケハヤ『まだ不登校で消耗してるの?」について思う

『ひといちばい敏感な子』を訳した明橋氏が訳書の冒頭に書かれている言葉に思うこと

朝日デジタルの記事に思う、多様な学習スタイルを選べる教育システムでは「不登校」なんて存在しない

 

 

 

とにかく、全身スポンジ状態で、

具体的スキルを吸い込み、実践していきます。

それが、私にできることのひとつ、そう思っています。

「『スポンジボブ』を驚くほど精密に描いた集団から外れやすい子のまぶしい笑顔」を思いつつ。

低学年から中学年のクラスでは「くまもんダンス」を一緒に踊ったんですよね、くまもんが何たるかも知らず初めてでしたが・・・。

「踊りの一挙一動を記憶し生き生きと踊る人前ではあまり話さない子」の姿が頭から離れません。

先生方、言語を文化を子供たちがいかに自然と身に着けるかをホント工夫してらっしゃいます。

 

みなさん、初夏の空をお楽しみください!


子育て生活を支えてくれるマインドセット「ストックデールの逆説」、「最後は大丈夫と楽観的に信じる」と「目の前の厳しい現実に地に足をつけて対応する」

2017年05月13日 | 子育て全般

ノンストップの子育てに日々向き合う中で、

私にとって支えになっている「マインドセット」のひとつに、

ジェームス・ストックデール氏の教えがあります。

 

ちょっと「強いイメージ」なので、

受け付けない方もいるかもしれませんが、

5人の個性の強い子ども達と日々もみくちゃになりながら暮らす私自身にとって、

底のところで力になってくれてます。

 

今日は、紹介させてください!

 

パイロットだったストックデール氏は、

ベトナム戦争時に撃墜され不時着し、

囚人となります。

 

7年半の囚人生活、

2年間足かせをつけられ、

窓のない1m×2mの部屋に閉じ込められたり、

頻繁に拷問を受ける日々だったといいます。

 

生還したStockdale氏が、

ビジネス・コンサルタントのジェームス・コリンズ(James C. Collins, III )氏に話した内容が、

コリンズ氏の著書『Good to Great』にまとめられています。

 

以下引用です:

「私は、決してストーリの結末への信仰を失うことがありませんでした。

私が囚人生活から生還するということを疑わなかっただけではありません。

私は最後には勝つということを、

そしてこの囚人体験が私の人生の決定的な出来事であり、

振り返り、かけがえのないものだった思えるようにするということを、

決して疑わなかったのです。」

 

そこで、「どういう人が、生き抜けなかったのでしょう?」と聞くコリンズ氏に、

こう答えます。

 

「それは簡単です。楽観主義者です。

クリスマスには出られるだろうといい、クリスマスがくると、

復活祭には出られるだろうといい、復活祭がくると感謝祭にはといい、

そして再びクリスマスが来て、やがて失望し亡くなっていきました。

 

これは、とても重要なレッスンなんです。

決して、最後には勝つという失うべきでない信仰と、

あなたの今の現実の最も厳しい事実を直視し、律を持って向き合うこととを、

混同してはいけません

 

ストックデール氏のこの言葉を、

コリンズ氏は「ストックーデールの逆説」としています。

 

 

「最後には絶対にうまくいく」という楽観的な信念、

それでも、

時に厳しい目の前の現実に、地に足をつけ着実に向き合う姿勢。

 

 

こうした「逆説的な姿勢」って、

子育て生活でも、まさに大切だと思いませんか?

 

 

「この子は大丈夫。

必ず最後には、幸せに羽ばたいていく」

底のところに、こうした楽観的な信念を据える。

 

親の「大丈夫」といった姿勢ほど、

子どもが、安心することはありません。

 

それでも、

日々起こり得る、時に「厳しい現実」や「痛い出来事」を直視し、

自分なりの「律」を持って、着実に対応していくこと。

 

 

 

私自身、もともと能天気なところがありますから、

ストックデール氏の言う「楽観主義者」的なところがありましたし、

今も、そうした部分があります。

 

3歳になれば、5歳になれば、

小学校にあがれば、中学年になれば、高学年になれば、ティーンになれば、

「この区切りになれば、全てがうまくいくだろう」と。

 

でも、異なる区切りを越えれば異なる課題が現れます。

そして日々、様々な物事が起こり続けます。

 

「単なる楽観主義」では、

「思い描いたパラダイス」とのギャップに、

がっかりや、失望が、重なっていくんです。

 

 

かといって、目の前の現実に着実にたんたんと向き合うだけでは

何かが足りません。

それは、「何があろうとも、必ずこの子達はよくなっていく」という

「結末に向けての楽観的な信念」です。

 

そして、

目先のアップダウンに依存するのではなく、

こうした長い目で見ての「必ず大丈夫」こそが、

目の前の小さな喜びを見出す余裕や、

ユーモアや創造性の土台となる「柔らかさ」を可能としてくれる、

そんなように感じています。

 

この「逆説的な姿勢」が、

子育ての荒波を突き抜け、進む力を与えてくれます。

 

 

ストックデール氏は、

日々こめかみにつきつけられる銃口に、

不安や恐怖に決してのっとられないよう

「感情を調整する方法」を身につけたといいます。

←氏の場合は、マントラを唱えるとのこと。

 

銃口をつきつけられる恐怖とはくらべものにならないといえども、

日々の子育てでも、子供の行為を前に、

様々な不安感や恐れが湧き出るものです。

 

以前こちらに書いた、

子どもの「好ましくない行為」を前に流れる「効果音」に気づく、過去でも未来でもない今のその子に向き合うために

過去の悩みや未来の不安や恐怖といった「効果音」に気づき、

影響を受けない姿勢も、

こうした「感情を調整する方法」あってこそです。

 

 

 

 

戦争や囚人などの極限的な状況と、

子育て生活とが重ならない方もいるかもしれませんが、

チャレンジングな特性を持つ子どもと暮す方、

もしくは、強烈に感じすぎる性質を持つ方など、

私のように、助けになることもあるのじゃないかなと、

私自身の内面の支えを書いてみました。

 

「今がどうであろうと、この子達は、必ず最後には大丈夫」

そうした信念を芯に据え、温もりと微笑みをもって、

目の前の事実に、現実的に対応していきたい、そう思っています。

 

 

一つ前の記事には、

昨日のティーンの日常がつづってあります。

昨日のティーンの日常風景:「この子達は、必ず最後には大丈夫」と信じつつ、その都度大切なことを伝え続けるということ

「目先のアップダウン」に翻弄されることなく、

長い目で見た信念を胸に。 

 

 

 

今夜は、バルコニーになんと!アライグマが遊びに来ました。

というか、置いてあったゴミを食べに来たんですが。

2階なんですけどね。

 

さて、怒涛の週末。

明日から「プログレッシブ教育」トレーニングも始まり楽しみです。

みなさん、温もり溢れる週末を!




追記:ストックデール氏の考え方の背景について。”捕虜になる前、1959年にストックデールは海軍の命令でスタンフォード大学へ赴き、国際関係論とマルクス主義を学んで、修士号を取得するにいたった。1962年、自らの希望により、同大学でフィリップ・ラインランダー(Philip H. Rhinelander|)教授から哲学の個人教授を受け、古代ローマ人エピクテトスストア哲学を紹介される。エピクテトスはローマ時代に皇帝ネロ奴隷としての不遇から身を興した哲学者であり、後年、捕虜になった時に、エピクテトスの哲学が助けになったと述懐している。”(ウィキペディア)


『日本語継承センター』にて「文化を伝えるプログレッシブ教育」トレーニングを受けることになりました

2017年05月08日 | 子育て全般

週末に『日本語継承センター』を見学してきました。

土曜日の午前に、「日本語継承教育」が施されていて、

毎週100人近くの生徒さんが通っています。

 


「日本語継承教育」って何?

 

日本語を母語として教える「国語教育」でも、

日本語を外国語として教える「日本語教育」でもなく、

日本語を継承語として教えることを「継承語教育」というんですね。

 

「国語教育」:

生まれたときから家庭&家庭外でも、

日本語をシャワーのように浴びる環境に育ち、

学校などで、学習言語として日本語を深めていく。

日本で育って国語として日本語を学ぶ場合などですね。

 

「日本語教育」

日本語以外を母語とし、

日本語を第二・第三言語として学ぶ。

 

「継承語教育」:

日本人の両親や片親を持ち、

家庭などで日本語を聞きながら育つけれど、学習言語は現地語。

現地語で培った知識や能力を、

日本語力の発達や日本文化の理解に生かす。

 

 

我が家は現地語で生活し、

上の2人以外は日本へ行ったことがないですから(この夏初めて訪ねます)、

日本の教科書を用いた「国語教育」はとてもとても追いつきません。

言語的には「外国語として日本語を習う」ぐらいでも丁度いいのですが、

母の私は日本で生まれ育ったのだし、

自分たちのルーツを引き継ぐといった意味の込められた「継承語教育」が、

今おかれた状況にぴったりです。

 

ということで、

開校されている土曜日午前にアクティビティーのない次女と三女と共に、

出かけたというわけです。

 

 


教室の扉を開けると・・・

年齢や日本語レベルを考慮して分けられた

小学校1年生から高校3年生までの7クラス。

 

ツアーをしてくださったスタッフの方に連れられ、

教室の扉を開けると・・・

 

生徒さんたち、あれやこれや夢中で作ってました。

 

・風船にぺたぺたと新聞紙を貼り付け「ちょんまげ頭部作り」。

・紙を折ったり飾りつけたりと「かぶと作り」。

・真っ白な布にフィンガープリントでペタペタと鱗を描き「こいのぼり作り」

・来月の学芸会に向けて仮面などの「小道具作り」。

 

教科書はなく、

作ったり、調べたりとプロジェクトをしながら、

周りと交流しつつ、「日本語や日本文化」を学んでいくんだそうです。

 

学校紹介にも、

「プログレッシブ教育に基づいています」という文字。

 

 

 

「プログレッシブ教育」とは?

「プログレッシブ教育」とは、

19世紀後半に、「伝統的な教育とは異なる教育を!」

と生まれた教育学のムーブメントです。

 

『虹色通信教室』で奈緒美さんが紹介していたペスタロッチ氏もフレーベル氏も

こうしたムーブメントの担い手ですね。

・自ら学ぶ子が育つ教育とは?(ペスタロッチとフレーベルに学ぶこと)

 

 

「プログレッシブ教育」は以下のような「共通した質」を持っているとのこと。

以下、Wikipediaから抜粋です

 

“・「する」ことによって学ぶ。「ハンズ・オン(実践実地)プロジェクト」、「探検学習(expeditionary learning」」、「体験学習(experiential learning)

・テーマに沿ったカリキュラム(『日本語継承センター』も学期ごとの全校テーマがあるそうです)

・企業家精神を統合した教育

・問題解決力と批判的思考を重視

・グループワークと社会的スキルの発達促進

・知識のまる暗記に反し、学習のゴールを理解と行動とする

・コラボレーティブで協力的な学習プロジェクトを行う

・社会的責任と民主主義のための教育

・個々の個人的なゴールからなる高度に個別化された学習

・コミュニティーサービスプロジェクトを日々のカリキュラムに統合する

・将来の社会でどんなスキルが必要とされるかを問うことにより教科の内容を選択する

・教科書よりも、多様な学習材料を用いる。

・生涯学習や社会的スキルの重視

 

 

私自身、

これまで書いてきた内容からも伝わると思いますが、

こうした「プログレッシブ教育」のスタンスに

とても共感します。

「21世紀型スキル」や「21世紀型能力」を育むのにも、

適していますよね。

 

こうした教育のあり方を、

「日本語や日本文化の継承教育」に生かそうと尽力されている先生方やセンタースタッフにお会いできて、

感慨深かったです。

 

そして、

クラスでプロジェクトしたり作ったりと没頭する生徒さんたちを前に、

しみじみ思いました。

 

「こうして日本文化を伝える試みの、

『世界バージョン』をしたいんだよなあ」と。

 

世界の多様な文化を、

「作る」ことやプロジェクトを通し「ハンズ・オン」で探索し、

体験するカリキュラムです。

 

 

トレーニングをしていただくことになりました

ということで、話はとんとんと進み、

トレーニングしていただくことになりました! ← 猪突猛進

 

教科書はありませんし、

このセンターで用いられているカリキュラムは、

全て、創設以来15年近くかけセンターのスタッフによって培われたものだそうです。

 

ベテランスタッフの方々を仰ぎつつ、

コアから細部にわたり、全身全霊で学ばせていただきます。

 

来月初めまでのトレーニングがスムーズに進みましたら、

夏休み明けの秋頃から、センターにて教えることになるかもしれません。← これはまだ未定

 

もし、教えることになっても、

週1の午前のみですから、センターでの体験を生かしつつ、

こつこつと「世界バージョン」を築いていきたいなと思っています。

 

新しい生徒さんたち、

センターの先生方そしてスタッフ、

新しい学びの場との出会いに、

心躍りつつ。

 

みなさんにお伝えできる力を、

そして子ども達が伸びる環境づくりを

磨いていきますね。

 

築かれていく道に感謝を込めて。

みなさん、今日もよい日を!


『It Mama』寄稿「食べちゃいたいくらい可愛い!」には科学的根拠がある!?&「ややこしい感情」全開の次男に改めて思うこと

2017年05月07日 | 子育て全般

「可愛いものをかじりたくなる」衝動については、以前こちらにまとめました:

・可愛いものをかじりたくなることってありませんか?それはなぜかについて。

 

この『ユア子育てスタジオ』の記事にあるように、

当時、「あ~、可愛いくて可愛くてかじりたくなる」という、

「長男の次男に向けての言葉」に共感して、調べ始めたテーマでした。

 

『ユア子育てスタジオ』に掲載した後も、

「こんなテーマ、興味ある人なんてあまりいないだろうなあ」と思っていたんですが、

「可愛いもの 食べたい」「可愛いもの かじりたい」

といった「キーワード」検索でたどりつく方が、

これまで日々コンスタントにいて、驚いています

 

でもそういえば、

日本語にも「食べちゃいたいくらい可愛い」という言葉がありますものね。

自らの突き上げる衝動に???となったり、驚いたりして、

みなさん検索されているのでしょうね。

 

 

今回の『It Mama』さんの記事では、

『ユア子育てスタジオ』で紹介した生物人類学者の考察だけでなく、

イェール大学の研究者による報告も載せてあります。

  

このイェール大学研究とは、

例えば、記事にある「キュート・アグレッション」のように、

キュートなものによって攻撃性が表れるといった、

「感じている感情とは、正反対にも見える表現」をしてしまう

「二形的表現(dimorphous expressions)」についての研究です

 

例えば、辛すぎることを前に思わず笑ってしまったり、嬉しいのに泣いてしまったり。

 

研究チームによると、

「二形的表現」とは「感情のバランスをとるため」なんだそうです。

辛さに振り切れすぎたり、嬉しさに振り切れすぎるのを、

制御してバランスを取り戻すためなんですね。

 

ヒトの感情表現とは、時に、ややこしいもの。

 

と、昨日も、次男が「ややこしい感情」を全開していましたよ。

 

 

 

「ややこしい感情」全開の昨日の次男7歳

 次男の隣に座って、ピアノ練習。

 

「そこは、2拍子ね」「そこは、フォルテになってるよね」など、

間違えたところを指摘されると、嫌で嫌でしょうがない様子。

少し反抗的な態度ながらも、直そうと練習するんですが、

なかなかうまくいきません。

 

何度かトライしながら、フラストレーションで顔をゆがめ、

「ママ僕を見ないで、あっち向いてて!」と言います。

「その方が、うまくできるの!」とのこと。

 

「じゃあ1人でしばらく練習したらいいよ。ママ、台所に戻るからね」と言うと、

隣には座って欲しいと。

でも見ないで! でも遠くに行かないで!

 

練習が終わった後も、腕を組み、ふてくされた表情です。

 

ソファに座り、話をしようと、「こっちにおいでよ」と呼ぶも、

少し離れたソファにうつぶせになり、「ママがこっちへ来て!」

 

私は動かず、夫と話をしていると、

しばらくして、口を尖らせたまま、

「何気に」私のひざに顔をうずめ、横になりました。

 

ああ、ややこしい。

 

ソファに座り、

膝の上の次男の頭をなでながら、

話をしました。

 

初めから完璧になんてできないこと、

間違えるからどこをより練習するといいかが分かって上達していくこと、

以前できなかった曲だって練習したから少しずつできるようになっていること、

などなど。

 

次男は、グチグチグズグズ。 

ピアノ続けたくない

何でピアノなんてしないといけないのか 

←本人が「したい」と言ったからなんですけどね。

だいたい自分は楽器に興味ないんだ

昨日レゴで作った「スピンナー(手の中でクルクル回すもの)」が見つからない

などなど、

しばらく、グチグチグズグズが続きます。

 

 

最近の次男は、

学校も、気の合うお友達が何人かいるようで、

毎日楽しそうに通ってます。

サッカーの技を磨くのに夢中になっていて、

毎日、まあ、生き生きとした様子です。

 

それでも、

最近、私自身ノンストップで走り回りがちで、

ついつい次男との時間もすっとばし気味。

 

すると、何だかこうした「ややこしさ」が増すのに気づきます。

 

こうしてグチグチグズグズする時というのも、

ためこんだ感情を吐き出し、

「感情のバランスを取り戻す役割」を果たしているのかもしれませんね。

 

しばらくして、

すっきりとした表情で、走り回る次男の姿がありました。

 

忙しい中にも、15分でも10分でも、

ちょっとゆったりと子どもに向き合う時を大切にしたいな、

改めて、そんなことを思っています。

 

忙しく走り回るみなさん、

子育てで何が大切かを見つめつつ、

「お手玉」していきたいですね。

 

 

 

さて、ヒトの持つ「ややこしい感情表現」のひとつ、

「かわいいものをかじりたい」についての考察です。

興味ある方是非どうぞ!

・「食べちゃいたいくらい可愛い!」には科学的根拠がある!?

 

 

 

今日は1日、下3人と陸上競技会です。

昨日の「日本語継承センター」訪問も、

とても興味深かったので、また報告させてください!

みなさん、新しい週、よい日々を!


精神科医清水將之氏へのインタビュー記事、「不登校」とは今の学校が「おかしいと疑問を持つ子が割りを喰っている」状態という指摘に納得

2017年05月03日 | 子育て全般

「不登校」という言葉を初めて用いたとされる

精神科医の清水將之氏への4月29日付けのインタビュー記事です。

日本の学校の歴史など、「不登校」を取り巻く状況がまとめられています。

 

私自身、「不登校」は、多くの場合、清水氏がいうように、

今の学校はおかしいと「疑問を感じる子が割を喰っている」状態と思っています。

そして敏感な子ほど、その「おかしさ」を察知し、

意識的にも無意識的にも納得できず、「不登校」として表れていると。

 

清水氏の視点や指摘に、なるほどなあと納得です。

ざっとですが、まとめてみますね。

 


「不登校」という言葉が表すもの

清水氏は、1968年の論文の中で、

「学校恐怖症」や「登校拒否」という言葉ではなく、

「不登校」という言葉を初めて用いたとされています。

 

清水氏曰く、

"恐怖症(phobia)は、いわば、びびっているわけでしょう。それに対して拒否(refusal)は意志表示じゃないですか。”

"学校に行かない子のなかには、いろんな子がいたから、最初にラベリングをして仕分けてしまうと、

ラベルに合致するように観てしまうと思って、思春期外来を始めるときに、「不登校」という言葉をつくったんです。”

とのこと。

 

「学校へいかない」という状況というのは、

恐くていけない、自分は行かないと決めていかない、また「怠学(truancy)」など様々なケースがあるんですね。

そんな中、確かに、「不登校」という言葉は、「登校しない」という事実のみを表していて、

狭義に分類し決めつけてしまうことなく、どんなケースでもひっくるめてしまえますね。

 

 

 

日本には古くから身分に関係なくオープンな「下から」築く学校があった?

まずは、892年に空海が綜藝種智院を開きます。

これは、身分貧富にかかわりなく、勉強したい人は誰でも来ていいという学校だったそうです。

 

それまでは、平安時代の京都の勧学院や、それ以前の国学など、

支配層や貴族の子孫のための学校のみだったそうです。

 

そして室町時代には、寺子屋ができ、江戸時代に入りますます広がります。

"その数、日本全国で1万とも3万とも言われますが、いずれにしても、万単位であったことはたしかのようです。ちょっとした町には寺子屋があって、一般庶民の子が通っていた"

んだそうです。寺子屋を通して、庶民への教育の機会が広がっていったんですね。

 

"寺子屋には授業料がなかったようです。盆や暮れに、親の出せる範囲で付け届けをするぐらい。寺子屋は来るのも帰るのも三々五々。そのようすが描かれたものが浮世絵に残っています。こちらで遊んでいて、あちらで勉強して、バラバラで自由自在だったようです。不登校など生じ得ない状況だったと言えるでしょう。"

自分のペースでの取り組みができる場ならば、

確かに「不登校」など生まれませんよね。

 

"山下:日本には、近代以前にも、身分を問わずに学べる場所があったわけですね。

清水:それは日本のユニークな歴史だと思います。教育の場が、支配層や金持ちや宗教家だけではなく、庶民にも開かれていた。”

 

「寺子屋」というのは、日本独特の歴史なんですね。

海外でこうした試み例がなかったのか、調べてみたくなりましたよ。

いずれにしても、 寺子屋とは、日本が誇ることのできる教育史ですね。

 

上から「マス」に向けての一辺倒ではない、

寺子屋を可能にした日本の土壌を思い出していきたいです。




「ほんとうの精神科医」の姿

本来、児童精神科の臨床というのは、医療、保健、福祉、教育の4つの領域が積み重なった上に成り立つものです。それは、医者にできるところは限られているということでもあります。そこをしっかり理解していない医者は、ほんとうの児童精神科医とは言えません。そういう意味では、日本にどれほど児童精神科医と言える医者がいるか、疑問ですね……。

田中 投薬だけの治療も多くなっているようですね。

清水 それは、おおいに問題ですね。そういう医者には、児童精神科医と騙らないでくれと言いたいです。”

 

確かに、例えば「教育システムにおかしさ」を感じて不登校の子の、

個々の精神面をみたところで、何の解決にもなりませんよね。

教育環境など、その子を取り巻く状況をみていく必要があるのですね。

 

精神科医ではなくとも、子どもに関わる大人として、

こうした様々な角度からその子の健やかさを見ていく姿勢を大切にしたいです。

 

清水氏は、今80代で「多動爺」と呼ばれながら、

情緒障害児短期治療施設を訪ねるケーススタディーを続けているそうです。

不登校の子を受け入れている『生野学園』にも関わっているとのこと。

清水氏のようなより全体的な視野をもった精神科医が続いてほしいですね。 

 

 


誰も彼もが18歳で大学進学を目指すという教育構造の弊害

清水氏は、「大学の粗製濫造は、日本の教育を大きく乱した」と言います。

大人数授業で内容の乏しい大学が乱立し、

とにもかくにも、一斉に「大学」を目指す状況を生み出したと。

 

山下:大学や学部は増えても、かたちばかりで、多くの子ども・若者にとって、進学の意味も空虚にならざるを得なかったと言えるでしょうね。

清水 そうです。高学歴化は、大学に行く行かないにかかわりなく、若い世代に悲劇を与えていると思います。勉強が大好きで、研究者を目指して進学する人は別にして、多くの子ども・若者にとっては、高等教育の意味がわからない。
 政府は、いまごろになって給付型の奨学金を創設すると言っていますが、そんなことでは追いつかない、基礎構造の問題がある。偏差値という数字や学歴で人間が査定されてしまっているのですからね。教員にも結果が求められるし、小学生にまで選別のまなざしが入ってしまっている。これは大きな問題でしょう。

山下 何のためか、よくわからないことのために、がんばらないといけなくなっている。

清水 子どもだけではなく、保護者も教員も見えていない。それなのに競争させられて、そこで一服したい子が生きづらくなっている。遅咲きの子もつぶされている。金子みすゞの「みんなちがって、みんないい」という言葉が、いちばん伝わらないのが教育界です。”

 とのこと。

 

これは、米国でも見られる風潮です。

最大の視聴者数をはじきだしたとされる教育学者のケン・ロビンソン氏のテッドトークにもありました。

「今の学校とは、大学教授を最終目標とした教育システム」と。

なぜか皆が皆大学教授になるための訓練を受け、できるできないと振り分けられてしまっている。

「勉強が大好きで、研究者を目指して進学する人は別にして、多くの子ども・若者にとっては、高等教育の意味がわからない。」

わけです。

 

例えば、ロビンソン氏のテッドトークでも紹介された

ダンサーとして花開いたジリアン・リン氏が、学校システムからはじきだされかけたように、

頭ばかりで、他のギフトを培うことがおろそかになっている。

「学習障害」とされた子にダンスの能力を見出した医師、「ものさし」を多様化するということ

 

 

 

長らく教育界に身をおき、教育学をおさめた姑とも 

滞在中に、こうした話をしました。

互いに強く同意したのが、

小さな頃ほど、子どもが自主的に探索できる時や場を持つこと、

そして結果への評価をはさみこまないことの大切さです。

 

清水氏が指摘する「偏差値という数字や学歴で人間が査定されてしまっているのですからね。教員にも結果が求められるし、小学生にまで選別のまなざしが入ってしまっている。」

といった状況がいかに、多くの子ども達の力を埋もれさせているか。

 

 

また、清水氏の指摘の「遅咲きの子もつぶされている。」について、

夫方や私の側の親族にも、学習障害やメンタル系にも様々な特性のある人々がいるのですが、

気がつくのは、そうした人々は「遅咲き」の場合が多いということです。

 

また「敏感な子」の中には、競走が大嫌いだったり、

競走のある場ではことごとく力を発揮できない場合もあります。

 

インターンやボランティアやアルバイトを通して、

実際に働いてみたり作業してみたり、実践と机上の間を行き来しながら、

より時間をかけ、花咲いていく子ども達もいます。

 

18歳で我先にと人生が決まってしまうようなシステムではなく、

多様なギフトが生かされる社会となるよう願っています。

 

 

私自身も、小学校時代、原因不明の病気になって一ヶ月ほど学校へいけなかったり、

中高校も、留年にならないぎりぎりの日数のみ出席するようにしていました。

中高校と年をへるごとに、授業中というのは、

常にぼーと白昼夢で、振り返っても「学んだことってあったかな?」と思います。

「まき戻し」も「はや送り」もできない一斉に向けての授業が、

頭に全くはいってきませんでした。

自分のペースややり方で、探索し・考え・気づくとできない環境は、

学習環境として無理があり過ぎる子もいる、そう痛感している1人です。

 

 

以前も書きましたが(関連記事)、

通常の学校の他に受け皿や選択肢があるのなら、「行けない」と悩み立ち止まる時間や力を、

「自分はこっちの方が合ってる」と場を移し、持てる力を伸ばす方向へと前向きに進むことに用いていけます。

 

通常の学校以外の選択肢が、増えていきますように。

 

関連記事:

ちきりん氏の記事に思うこと、「学校で無駄に過ごす」から「多様な選択肢のある」システムへ

「ちきりん『学校は不利な人をより不利にする場所』 イケハヤ『まだ不登校で消耗してるの?」について思う

『ひといちばい敏感な子』を訳した明橋氏が訳書の冒頭に書かれている言葉に思うこと

朝日デジタルの記事に思う、多様な学習スタイルを選べる教育システムでは「不登校」なんて存在しない

 

 

日本の「寺子屋」を思いつつ、「子育てスタジオ」をこつこつと築いていきます。

それでは、みなさん、今日もよい日を! 


重度ディスレクシア&恵まれない環境に育った夫に学ぶ3つのこと、「落ちこぼれ代表」からの挽回

2017年04月06日 | 子育て全般

私の夫は、学校システムからの「落ちこぼれ代表」のような人です。

「重度ディスレクシア」と小学校低学年時に診断され、

学校の勉強はずっと底辺。

毎年落第寸前のところ、父親が何度か学校へ掛け合い、

何とか進級できていたといいます。

 

外国語の勉強も止められていましたから、

一切英語が話せないまま18歳で米国へ渡り、

皿洗いや庭師などしながら、学生ローンを借りつつ、

誰でも入ることのできる「コミュニティーカレッジ」で学びました。

 

私が彼に出会ったのはこの頃なんですが、

夏の間、森の中で野宿し、

ヒッピーというかホームレスのような生活をしていましたね。

 

その後、こちらにも少し綴ったんですが:

日本とアラスカ、「別居婚」の始まり 【地球の最北で子育て#01】

互いに学生のまま日米間を行き来しつつ、

彼は、パイロットのライセンスを取りました。

 

シングルファザーとして18歳まで育てた実父も、

彼がパイロットのライセンスを取ったと聞いても、

「この目で見ないことには信じられない」と、

南米まで写真に撮って送るよう頼んだといいます。

 

そうして、パイロットのインストラクターとして働き始め、

次にアラスカの村々を回る航空会社のパイロットの職を得、

そこから政府の航空機関に移り10年後、米国首都本部のポジションに選ばれ、

書類に囲まれ責任のある本人が望んだ仕事についています。

・お知らせ&ディスレクシアを抱え生きるということ

 

今も次へ向かって走り続けていて、

昔を振り返ることに時間をかけることもあまりないのですが、

時に、しみじみと言うことがあります。

 

「まさか貧しい南米の国の学校でいつも最下位だった自分がここまでくるとは・・・」と。

 

 

 

私自身、身近に暮してきて、彼からたくさんのことを学んできました。

 

今日は3点だけ、ここに書いてみますね。

 

1.    いくらだって挽回可能 

彼は生い立ちも、苦労続きです。

 

各種虐待もありましたし、母親も6歳の時去りましたし、

貧困で豆と米だけ食べて育ちましたし

(アラスカの1人暮らし時代も大豆から豆腐と湯葉と豆乳作ってしのいでましたね)、

南米の貧しい国の内戦時でしたから、

近所で爆弾が炸裂したところ奇跡的に助かったこともあるようです。

 

今、私自身子育てについて発信させていただいているわけですが、

彼の話を聞けば聞くほど、

「こんなことをしてしまったら、この子は・・・」と、

現代の「通常の家庭」で心配されるようなことを、

何倍も凝縮したような環境に育ってきたんだなと思います。

 

子どもの性質によって同じことでも受け取り方は違いますし、

「痛み」というものは、比べることはできないというのも分かります。

 

それでも、あえてお伝えしたいのは、

「いくらだって挽回可能です」ということ。

 

どんな育てられ方をしようが、

学校でどんな扱いを受け、どんなレッテルを貼られようが、

学校の勉強が全然できなかろうが、将来の見込みなしと会う人会う人に思われようが、

入学試験にことごとく落ちようが。。。

 

その後の歩みによって、

「やりがいを持った仕事につき生き生きと幸せに暮らすことは可能」

ということです。

 

私自身も、

ああ、こんなことを言ってしまった、

こんなことをしてしまった、

こんなことで大丈夫だろうかと、

子育てするなか不安になることってあります。

 

そんな時、隣で、

美味しそうにご飯を食べている夫を見て、

しみじみ思うんです。

 

ああ、ちょっとやそっとじゃヒトってつぶれないんだな、と。

 

「ああ、子育て間違った」と思っても、

親として自ら生い立ちに問題を抱えていても、

長い目で見るのなら、挽回は可能です。

 

 

 

2. メンタルを整えることの大切さ

夫をみていて、スキルを磨き続けることも不可欠ですが、

特にメンタル面での絶え間ない努力が大きいと感じてます。

 

順風満帆に能力を発揮し、

周りから認められてきた人はいいんです。

 

でも、凸凹があったり、

学校システムからはみ出るような資質(例えば創造的)だったりして、

様々なネガティブなレッテルを貼られ続けてきた場合。

 

スキルを磨くのだって、

周りの何倍もの時間と努力が必要です。

 

そこへ、世間の99.9%の人が

「お前にできるわけない」と思います。

そうして周りから投げつけられる態度や言葉を、

かなぐり捨て、跳ね返し、突き抜けて、

スキルを磨き続けていく必要があるわけです。

「世間の意見」など信じていたら、進むことはできません。

 

夫は、毎朝必ず、そして日に何度か、

心を整えるエキソサイズをしています。

 

それは、外から「お前はこうだ」と与えられるものを突き抜け、

「私は誰か」を思い出し続ける時ともいえるかもしれません。

外から内を満たすのではなく、

内から外へとつくり出せる状態を整えるんです。

 

親としても、

子どもに与えられる思いやレッテルを、

もしそれがその子の成長に邪魔になるとするならば、

共に突き抜けていきたいですね。

 

 

 

3. 成長する喜びの大きさ

彼は、日々むさぼるように勉強しています。

夢に描いたポジションに抜擢されたのも、

資格をいくつも取ったことが大きかったようです。

そうした資格試験用の勉強だけでなく、

時間を見つけては科学や歴史について読んだりDVDを観ています。

 

それはまるで、

「何かを知る喜び、何かができるようになる喜び」を

ほとんど感じることのなかった子ども時代を、

取り戻しているかのようです。

 

そして隣にいながら思います。

何かを知ること、何かができることになる喜びが、

いかに大きいかを。

 

子ども達にも、

この喜びを堪能して欲しいですね。

 

 

 

こちらはディスレクシアについてこれまで書いてきた記事です:http://kosodatekyua.com/category/dyslexia/

・ディスレクシアの人と17年間暮してきて、

私なりに思うことをまた書いてみたいなと思います。

夫は、「学校の勉強ができる・できない」と「賢さ」とは全くの別物だということを、

言葉だけではない体感として教えてくれました。

 

さてこちら、今日は春雷響く大雨です。

みなさん、今日もよい日を!


その子が「立ち止まること」こそ個性が伸びていく契機ですね、自分で道を見出す力があると信じてやりたいです

2017年04月03日 | 子育て全般

 17年間様々な子どもたちに接してきて、しみじみ実感することですが、

その子その子によって、「立ち止まること」というのは、本当にそれぞれ違います。

 

そして振り返っても、

そうしたその子が「ひっかかる」ことのひとつひとつが、

その子なりを表し、その子がその子らしく伸びていく契機となっていくのだなと。

 

「この子には、こうであってほしい、こうなってほしい」といった大人側の思いが、

子供の示すサインを、かきけしてしまわないようにしたいな、

これまでの私自身の反省を含めて、思います。

 

 

「これだ!こんどはあれだ!」と分かりやすくまっしぐらに突進して行く子もいますが、

時にぽっ、ぽっと沸き上がる興味や関心にゆっくりと向き合って行く子もいます。

 

こちらの記事は、そんな「後者の子」が、最近興味を持つことのひとつです。

「宗教心」に興味を持つ娘と「ユニタリアン・ユニバーサリズム教会」の礼拝を訪ねてみました

その子の内に、見えにくくとも、ふつふつと育っていくものがあるんですよね。

 

 

子供は、自分の道を自分で見出す力を持っている、そう信じてやりたいです。

 


その過程で悩み、寄り道し、失敗することもあります。

それでも、道をふさぎ、「こちらへ来い」と大人の望む道を敷いてやるのではなく、

その子自らの道で、その子が壁をこえ、前へ進むのを励ましてやりたいです。

 

 

その子が「ひっかかること」「してみたいなあ」と描くこと。

たとえ小さくみえても、そのひとつひとつが、その先へ築く道へと繋がります。

そのひとつひとつを、「できる範囲」で邪魔せず、サポートしていく。

 

それは、

「その子の夢をシリアスにとることで、

その子は自身の夢をシリアスにとるようになる。」

ことでもあるのかもしれません。

 

その子その子の「人生の旅」を、応援したいですね。

みなさん、今日も良い日を!