雛あられ作り、
「レシピの行間にある変化」と書いたけれど、
友人が紹介してくれたブログを読むと、
あ、そっか、きちんと読んでなかったんだ、と、改めて認識しなおした。(笑)
こちら:「アラスカのいろいろ」
友人の素敵クラフトにうっとり。
当日楽しみです!
子供がキーキーしてたり、ギャーギャーと理不尽な我儘を言ったりとするときは、
ゆったりする時間を持つと、またカラカラと歯車が回りだすことがよくある。
今朝もちょっとそんな様子だったので、
よし、今日は20分ほど余裕がありそうと時計を確認し。
私の中のあれしなきゃこれしなきゃああしてこうしてと急き立てる声からフォーカスをずらし、
ちょっとゆったりした気持ちで、口元ゆるめて、向き合ってみる。
ホールハーティッドで話を聞いてやり、一緒に着替えて、パジャマの上からタイツ履いてふざける子と笑い転げ。
するとしばらくして、すーと落ち着いて、ご飯食べるとニコニコと鞄を用意し、元気よく車に飛び乗る子達。
ギャーギャー言う子を後ろからギャーギャーと追い立てるより、
結局は急がば回れかもしれないな。
改めてしみじみと思った朝でした。
今日は友人たちと、日本からインターンで二か月ほどこちらに来ている日本の大学生の男の子と女の子と、雛あられを作った。
皆初めての挑戦で、レシピ通りにしているつもりなのだけれど、なかなかうまくいかない。
「炊いた白米を一晩低温のオーブンに入れて、カラカラにする」といっても、互いに米がくっついていては、そこだけもちっとしてしまったり、
米粒を互いに離すと、予定していた量がオーブンに入らなかったり。
「揚げる」と言っても、少しのタイミングで、かりかりになりすぎちゃったり、茶色っぽくなってしまったり。
やっぱり何度か作って、レシピの行間にある変化を体得してないと、難しいですね。
料理をしていて思うことのある体験を、改めてなぞったようなひとときでした。
日本のインターンの子達は、頼もしくて、落ち着いていて。そして将来の夢に溢れていて。
何とかうまくいかないかと雛あられを試しつつ、二人の「これから」などの話も聞き。
いろんな年代、いろんな立場にある人達と一緒に何かを創る、楽しい午後でした。
昨日の疑問を生物学専攻の友人に聞くと、
へー、ほー、そっかあ、と思うような答えが返ってきた。
糞がそんな色であるということは、
きちんと食べ物が消化されたり吸収されたりしていないということじゃないかな。
それともひょっとして、それはその虫がつぶれたときの体液だったのもしれない、
または、糞ではなく、危険を察知した生物が種によっては出すことのある威嚇するための液だったのかもね。
ああ、なるほどなあと。実は潰れた時の様子、または、威嚇のための液が記憶の中でごっちゃになってるのかもしれませんね。
人に聞いてみるって、それまで考えなかった扉がぱたぱたと開いて、素晴らしいなあ、としみじみ思った昨夜でした。
フランスに滞在したトーマス・ジェファーソンがアメリカに持ち帰り紹介した食べ物としては、
・フレンチフライ(フライドポテト)
・マカロニチーズ
・アイスクリーム
・トマト
などがある、と書かれた子供向けの本を昨夜次男と三女に読み聞かせ。
トマトはそれまで、アメリカでは「ラブアップル」と呼ばれ、
その愛らしい名前には似合わず「毒がある」と思われていたそう。
何で毒があると思われてたんだろうねえ。
やっぱりあのぐじゅぐじゅ部分がとっつきにくかったのかなあと子供達。
ふと、子供時代、虫か何かの生き物の糞が、あのトマトのぐじゅぐじゅ部分にあまりにもそっくりで衝撃を受けた瞬間を思い出す。
それで、その生き物が何だったのかを思い出そうとするのだけれど、どうしても出てこない。テントウ虫だった?
皆が寝静まり、コンピューターのスイッチオン。
「今はネットで調べたら何でも分かって便利」とはいえ、
色んな言葉バージョンを試してみたけれど、
「トマトのぐじゅぐじゅ部分に似た糞をする生物」、なかなか見つからない。
そんな中、テントウ虫が糞をする映像をユーチューブで見つけ、その瞬間を見守る。
あ、・・・、そっか、黒くて小さいんだ・・・。
トーマス・ジェファーソンのトマトから、
なぜ暗闇の中、
こうしてテントウ虫の排泄シーンに釘付けになっているんだろう。
ふと我に返り、星空を見上げた夜。
*今から生物学専攻の友人に会うので、真っ先に聞いてみようと思う。
今朝、長男の起床時間少し過ぎて起こしに行くと、布団にいない。
昨夜は次男にせがまれ、居間で次男の隣に寝ていたはず。
なのに次男だけすやすや。
自分の部屋に戻ったのかなと覗くも、いない。
夫と。自分で起きて1人でジムに走っていったんだねえ。
だいたいいつも何度か起こして起き、ジムも行きは寒いから車乗せてってと言うのだけれど、
あの子もこうやって、成長してるんだねえ。1人ぱっぱと、頼もしいなあ。
だってあと3年もしたら、1人でやっていかなきゃいけないんだものね、そういうこと頭だけじゃなくてちゃんと分かってきてるんだなあ。
窓の外にはうっすらと太陽が昇り。ああ、今日も晴れそう! 嬉しくなる。
しばらくして、次男がぐずり、近寄ると、次男の足もとの掛け布団にけつまずく。
はっと見れば、その次男とは垂直に置かれた掛け布団に、
長男が頭からつま先まで芋虫のようにすっぽりと包まっている。
いたんだ・・・。
しかも起床時間1時間以上オーバーして、私がけつまづいても、ぐーぐー。
束の間ではあったけれど、爽やかな1日のスタートを、ありがとう。
また英国政府通信本部がディスレクシアの人々を120人雇ったという話になるけれど。
職員の方がインタビューで、
「彼らには秀でたところもあるけれど、確かに普通の人がぎょっとするくらいできないこともある。
それらをサポートするシステムも、もちろん必要になる」というようなことを言っていた。
最近、様々な企画や準備で色々な人と交わる機会が多いのだけれど、
上の言葉、を思い出す。
それほど凸凹は激しいわけじゃないにしても、
誰でも得意や苦手があって。
できないことにフォーカスされ、
せっかくの得意なものさえ差し出せないところへ追いやられてしまっては何とももったいない。
皆が隅から隅までできたとしても、
こじんまりまとまって終わり。
凸凹を寄せ合うから、
ダイナミックな創造も生まれる。
自分自身の凹は謙虚に改善に取り組みつつ、
補っていただけることに感謝しつつ。
他者に向けてはそんな眼差しを、忘れないこと。
何かを言えば、何かが抜け落ちている。
それでも何かを言うから、
動きが生まれる。
超えられるために言葉を発しているという自覚。
静止地点でなく、連なる過程にあれる喜び。