goo blog サービス終了のお知らせ 

マイコー雑記

行き来するもの書き留め場

「遊びを欠いた文化は凡庸」に納得!同時に覚えておきたいこと

2016年02月14日 | 遊び

過コントロール過プッシュな「タイガー親」を否定し、

プレイフルで自主性に基づいた子育てを目指す「イルカ親」を掲げた精神科医Shimi Kangの

著者"The Self-Motivated Kids"(以前の記事「21世紀に求められる子育てスタイル?タイガー親、クラゲ親、イルカ親のバランス」で紹介)

にこんな話が紹介されている。

 

1920年代、

文化人類学者のGregory Baeton 氏が、

パプアニューギニアのバイニン人と14か月間暮らしたときのこと。

神話、ストーリー、祭り、宗教的伝統、儀礼もほとんどなく、

例えば、ダンスも厳格に決められたルールに従うなど高度に構造化され、

「なんて凡庸で退屈な文化」であろうかと、フラストレーション溢れて英国に戻ったと。

 

またその後、文化人類学専攻の大学院生Gail Pool 氏が、

バイニン人の間で暮らした際、

その退屈さに文化人類学自体嫌になって、

コンピューターサイエンスに専門を変えたと。

 

後にバイニン人と共に暮らしたもう一人の文化人類学者Jane Fajans氏は、

こう結論付けている。

バイニン人は、「遊び」を動物じみた子供っぽい行為と捉え、

人間は遊びのような行為をとるべきではないとし、

子供や大人の遊び的な行為を、できる限り止めさせようとする。

こうしたことが、「単調で色彩を欠いたとても凡庸な文化」を生み出しているのだろう、と。

 

 

 

「遊びこそが、その文化に色彩を与え、豊かにする!」ということですね。

 

メッセージとしては全く同意確かに!なるほど!と受け取りつつ、

同時に、文化人類学を専攻した身としては、

こうして「遊びを欠いたために凡庸でつまらない文化」になってしまったとされる

バイニン文化の扱いについてちょっと待ったー、

とも言いたくなり、少しだけ書いてみます。

 

 

まず76歳で亡くなるまで、文化人類学や社会学者として活躍されたBaeton 氏にとって、

このフィールドワークは全くの初めての体験だったということ。

当時彼は、自分が何をしているのか目的が定かでなかった。バイニン人は、排他的で彼を一員として受け入れなかった。

(https://en.wikipedia.org/wiki/Gregory_Bateson)とWikiにもあります。

また自らも、

「バイニン人は怪獣並みにフィールドワークの対象として難しく、ひどくシャイで、恐れている」

(https://books.google.com/books?id=16NvCQAAQBAJ&pg=PA11&lpg=PA11&dq=gregory+bateson+lost+in+baining+shy&source=bl&ots=bXGnwlr_SQ&sig=Q8tuR8jGcmvnMzk2Tv05LXyGB5M&hl=en&sa=X&ved=0ahUKEwjF7v3WsffKAhWLbj4KHRqbA9MQ6AEILDAC#v=onepage&q=gregory%20bateson%20lost%20in%20baining%20shy&f=false)

と記している。

つまり、とてもその文化のコアまで踏み込んで何かをつかむなんてことは、

不可能な状況だったといえるのでしょう。

 

 

次にPool 氏。

元々、文化人類学が合ってなかったのかもしれませんね。

大学院時代の最初のフィールドワークの後、

コンピューターサイエンスに転向したわけですし。

 

 

最後のFajans氏は、その後も

バイニン人の間での、「文化的社会的な過程での食物の役割に、強く惹きつけられ」

宗教的儀礼や社会性と共に、

パプアニューギニアの研究を今も続けられているよう。

(http://anthropology.cornell.edu/people/detail.cfm?netid=jf20)

退屈で凡庸で、何も掘り下げるものなし、というわけじゃないんですね。

 

 

 

ということで、

「遊びが、文化を豊かにする!」という考え方には、大いに同意しつつも、

バイニン人の文化が必ずしも、

「遊びを欠いた凡庸な文化の一例」というわけじゃないのかもしれない、

ということも覚えておきたいなと思います!

 

バイニン人が儀礼に用いる仮面!


(by Taro Taylor
 from Sydney, Australia)

 ああ、とてつもない「遊び」に溢れてますね。


遊びの本質とは?「遊びの時空」へ飛び立つために

2016年02月12日 | 遊び

「遊び」の本質とは、「ズレる」ことにある。

日常的な決まりごとから、外に踏み出すことで、

普段自ら埋め込まれているシステムから、

ちょっと「ズレる」時空、それが「遊び」。

 

「遊び」の時空では、

子供が親になってみたり、人形が空を飛んでみたり。

木々が小川をせき止めるダムになる。

積み木はお城に、段ボール箱が秘密の基地に、

トイレットペーパーの芯が望遠鏡に変身する。

暴れん坊になってみたり、ヒーローになってみたりと、

日常生活での「動き」とは、また違った動きをする身体。

 

「遊び」を通し、

社会的役割、自然の法則などの日常的「決まりごと」から「ズレ」る。

 

こうした「ズレ」を体験することで、

日常のシステムを、また違った視点から眺める力を手に入れる。

日常のシステムに、がんじがらめにはまりこむよりも、

その付き合い方に、ちょっと余裕のようなものが生まれる。

 

猫の首輪に怯え、隠れ穴から二度と出てこなかったネズミとは違い、

「ちょっと待てよ」と穴から顔を出し、辺りを探索したくもなる。

遊びについての示唆に富んだ研究紹介、遊びか死か&遊びとADHD

 

 

 

「遊び不足の弊害」のひとつに、

既存のシステムにがんじがらめになってしまう子供や大人を生み出す、

ということがあるのだろう。

それは、既存のシステムの中で、「上」に昇ったり、「勝つ」ことだけに関心があったり、

周りの情報を短絡的に鵜呑みにしてしまうという形で現れもする。

 

 

「遊び」の空間から見るのなら、

日常のシステムとは、「ひとつのゲーム」のようなもの。

手持ちのカードに「とほほ」となりながらも、

工夫をこらし、まあ何とかやってみようじゃないと立ち上がることもできる。

 

そうした遊びの時空から流れ込む動きが、

日常システムに、変化の流れを生み出すのかもしれない。

 

 

 

 

大人が横から、こうしたほうがいい、ああしたほうがいいと口を出し、

日常のシステムの決まりごとをあれこれ投げ込んでしまっては、

せっかくの遊びも台無しになってしまう。

日常的なシステムでの「大事」や「大切さ」を当てはめただけの「遊び」ならば、

一見遊んでいるように見え、実は全然遊んでいないようなもの。

 

「ほおっておく」、

「一緒に遊びの時空の一員になる」、

もしくは、「遊びの本質を分かりつつ、架け橋となる働きかけ」ができるといい。

 

ふわりと「遊びの時空」へと飛び立てるような環境を整えていけたら、

そう思いつつ!


遊びについての示唆に富んだ研究紹介、遊びか死か&遊びとADHD

2016年02月11日 | 遊び

動物を用いた実験というのは、

そのまま人間に当てはめることはできないわけだけれど、

様々な示唆を与えてくれる。

 


遊ばなかったネズミは死んでしまった・・・という実験

 

 ネズミを「ふたつのグループ」に分ける:

1.遊ばせない

2.ふんだんに遊ばせる。

(ネズミの「遊び」:キーキー鳴いたり、レスリングや揉み合ったり)

 

遊ばせなかった1のグループのネズミは、

刻々と変わる「社会的な合図」のようなものを読み取ることができず、

互いに攻撃的過ぎるか、消極的過ぎるかのどちらかだったそう。

また新しく有益なものを与えても、理解し使いこなすのにより時間がかかったと。

そしてショッキングなことに、

猫の匂いのする首輪など「危険なもの」を与えたところ、

隠れ穴に閉じこもったまま、二度と出てくることがなく、穴の中で死んでしまったのだそう!

 

対して、遊ばせた2のグループのネズミは、

猫の首輪を与えると、同じように隠れ穴に逃げ込んだものの、

しばらくすると穴から出てきて、注意深く辺りを探索し、

身に危険のないことを確認すると、そのまま元気に生きたのだそう。

(精神科医Stuart Brown氏のTEDスピーチより)

 

ああ、示唆に富んでますね。

 

 

 

 ADHDと「格闘ごっこのような荒々しい遊び」の関係


前頭葉に損傷を持つネズミ(人のADHDの脳に似せた状態の脳)を用いた研究では、

「格闘ごっこのような荒々しい遊びは、軽度のADHDの子が、衝動性を抑えるのを助ける」

と結論づけられている。

 

そしてこの研究者チームは、

昨今ADHDと診断される子やグレーゾーンの子が急増する中で、

「荒々しい遊び」の欠如の影響を、示唆している。

http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pmc/articles/PMC2242642/より)

 

 

我が家にも、「ボーダーの子」がいるのだけれど、とても納得。

走ったりレスリングしたりととにかく体を動かしていると、

「通常の生活」が送れるよう。

 

家の中でも、ちょっと時間が空くと、次男と取っ組み合いの遊び。

三女も隣からやんややんやと加勢。

 

私は、「うるさいなあ。ちょっとお、怪我だけはやめてね」といいながら、

ほったらかしにしていることが多い。

「乱暴遊びって重要!」というより、正直、

単に他ごとで忙しくて手が回らないという理由でなのだけれど。

それでも、夫がいる場合は、「もっと穏やかな遊びをしろ!」と叱られることも。

これを書きながら、改めて話しておこうかなと思う。

 

「怪我」と言えば、こうして遊びで暴れるからこそ、

どれくらい力を入れたら本当に傷つけてしまうかなどの「手加減」も

分かってくるもんなんでしょうね。

 

外で転げまわってくれるのが一番なのでしょうが、

そうはいかない環境の場合、

ジムや思いっきり身体を動かせる場があるといいですね。

 

 

あと、身近な例では、夫の義弟も、とにかくじっとしてなかったそうで。

小学校時代ADHDのテストを受けるよう学校から通知を受け、

結果「ボーダー」だったと。

幼少期から成人するまでホッケーやラクビーやとスポーツ人生、

今は大学教授で日夜研究に励む。

 

 

我が家の場合や、周りを見ても、

男の子の方が荒々しい遊びをしたがるのだけれど、

とはいえ、男の子でも、穏やかな遊びを好んだり、

女の子でも、取っ組み合いしたいといった子もいるでしょうね。

私も、知り合いのお兄さんなんかにつかみかかって転げまわるような遊びって、大好きだったなあと。

 

こちらの学校で時々見られるのだけれど、

「落ち着きがない! こんなこともまだできてない! 

休憩時間に外で遊ぶ時間返上して終わらせなさい!」

というような「罰」は、こうした子たちにとって、とてつもない逆効果ですね。


「『遊び』こそが創造力の土台」と元精神科医、入学審査競争が熾烈化する中で

2016年02月08日 | 遊び

「The National Institute for Play(遊びのための国立施設)」というNPO団体の創設者で元精神科医のBrown Stuart氏は、

12年間スタンフォード大学の二年生に「遊び」についての研究を講義し、リーダーシッププログラムを率いる中で、気づいた変化をこう表している:

 

「学生達が皆本当に聡明だという気持ちは変わらない。それでも最近スタンフォード大学へ入学するための競争が熾烈化する中で、彼らの『自主性』が減退しつつあるのに気づく。

少なくとも私にとっては、率先する力や、自発的なジョイというものが、以前より少なく見える。彼らは一貫して、教授をどう喜ばせるを目指し、自らを磨き続けているようだ。

わずかな例外を除き、彼らは、私の意見では、慢性的な遊び剥奪状態に苦しんでいるように見える。

彼らは超多忙、ハイプレッシャー、ハイパフォーマンスなライフにあまりにも慣れてしまい、アカデミックな優秀さや成功を追う中で、失ってきたものに気づいていない。」

 

また、「Caltech's Jet Propulsion Laboratory (JPL)」のマネージャー達曰く:

「若い世代のエンジニアの方が、トップの大学でより高い成績をおさめているわけだけれど、年代が上のエンジニアよりも、問題解決能力や創造力を欠いている。

そしてそれは、年代が上のエンジニアの方が、子供時代により遊び、探索したためじゃないかという結論に達したんです。

年代が上のエンジニアは、子供時代、時計を解体して戻してみたり、石鹸の箱でレーシングカーを創って遊んだり、日用品を直したりしてきたもの。

それでも新しい年代の人々は、こうした遊びをしてきてないんです」

そこで、JPLでは、就職面接で、「遊びの背景」について聞くようになったとのこと。そうして、タフなエンジニアデザインの問題と取っ組み合い解決するための従業員能力を改善したと。

("The Self-Motivated Kid" by Shimi Kangより)

 

テストの点や、入学審査やということはさておき、長い目で見るならば、現実社会で力を発揮していくためには、子供時代の「遊び」が大切と。

 

 

 

「問題」というものには「ふたつのタイプ」があるとされている:

1.「convergent(収斂的)」

答えはひとつ。正しい答えを学ぶことで解決できる。

2.「divergent(散開的)」。

答えはひとつではない。解くためには探索する力や創造力が必要。

 

現実社会で大切になるのは、もちろん2の「散開的問題」を解決する力。

そして「遊び」こそが、こうした「散開的問題」を解決する力を鍛えるというんですね。

 

 

「遊び」について、改めてまとめ中なのだけれど、これまで出会ってきた子供達を思い、

調べて考えてとすればするほど、「遊び」の大切さが迫ってくる。

 

 

 

精神科医として多くの患者を診つつ、

「遊び」の大切さを痛感しNPO団体を立ち上げたBrown Stuart氏は、

「大人が遊ぶ」ことの大切さも訴えている。

 

子育てする上でよい影響をもたらしたり、メンタルヘルス面でもより健やかに、ということもあるけれど、

私自身、魅力的だなーと思う人って、「遊び心」のある人なのじゃないかなと思う。

 

 

 

点と点とを一直線にいかに効率よく結ぶか、と走り続ける中で、

時に、曲線だったりジグザグ線を取り入れてみる。

すると、味わいが生まれる。

 

目先の結果からは「寄り道」に見えるかもしれない。

それでも結局そうした寄り道が、長い目でみるならば「急がば回れ」となり、より大きなゴールへと繋がっていく、そう心に留め、子供達に接していきたい。