マイコー雑記

行き来するもの書き留め場

朝日デジタルの記事に思う、多様な学習スタイルを選べる教育システムでは「不登校」なんて存在しない

2016年01月31日 | 子育て全般

昨日の朝日デジタル記事:

「新たに不登校になる小中学生が増えています。2014年度は6万5千人で、1日平均で180人。特に中学に入ると急増します。大人たちはどうすればいいのでしょう。」

 

年々新規の不登校児が増えているとのこと。特に中学で急増と。

そして、不登校児を何とか登校できるようにする取り組みが取り上げられている。

 

 

 

思うことざっとふたつ:

 

1.「学校に戻るため」に、本人や周りが頑張るよりも、

学校以外にその子が伸びていける場を充実させることに、

労力や時間やお金が費やせられていけばなあと。

 

学校へ行けないことで、

自分はだめだと落ち込み、

罪の意識にさいなまれるという女の子の事例が紹介されているけれど、

「私、

そっちの学校スタイル全然合わないから、

こっちのスタイルでいくわ。」

そうさくっと前向きに歩き出せる選択が当たり前になっていけば。

 

罪悪感を抱え何とかフィットしよう/させよう、とか、

心の傷が癒えるまでゆっくりと待ってやりましょう、というよりも、

合わないと感じる感性を大切に、

学校以外に学力や様々な能力をマイペースにどんどん伸ばせる場が充実していけば。 

 

ホームスクールや、

モンテッソーリ・シュタイナー・フリースクールなど、

多様な学習スタイルの選択肢がある教育システムには、

そもそも「不登校」なんて存在しないのだから。

「これは合わないから、あっちにしよう」だけのこと。

 

不登校児の急増は、

「みんな一斉に同じことをしましょう!」といったスタイルでは、

もう無理だという表れに過ぎないのではないか。

 

 

 

2.もうひとつ、

「頑張り過ぎたり、敏感な子が不登校になりやすい」とあるけれど、

認知行動療法に詳しい臨床心理士によるカウンセリングを受けられる環境があるといい。

心理的な「敏感さ」は、「曝露療法」などの認知行動療法やマインドフルネスを組み合わせることでかなり緩和する。

学力や能力を伸ばしつつ、より楽になれるライフスキルも身につけさせていくこと。

 

 

 

 

オーソドックスな学校に合わない感性を大切に、

さくっと前向きに学力や様々な能力を伸ばせる場、

心理カウンセリングを受けられる環境、

それらの充実を願う。

 

異国の地から日本を応援しつつ。


学ぶ場・時・スタイルをフレキシブルに選べる教育システムが「当たり前」になる日

2016年01月30日 | 子育て全般

長男を見ていて、

今回の出来事のひとつひとつをとってもそうなのだけれど、

高校ドロップアウトとか、落ちこぼれとか、もう本当に紙一重なのだと思う。

 

それがたまたま長男の場合は、

偏った特性を持ち、

マジョリティーの波の中でそれなりに困難を重ねてきた両親と話し合う機会があったり、

たまたま、

NPOやロボティックスやスポーツなどパッションを向けられる環境にあったりして、

今のところ、

「マジョリティーから認められるような道」を歩いているというだけのことであって。

 

実際、彼のお友達で、

「もうやめた」と「降りていった子」を、どれほど見てきただろう。

 

長男と接していると、

その後ろに、膨大に連なる群れを感じることがある。

なぜ「降りて行ってしまったのか」「降りて行かざるを得なかったのか」

私なりに痛いほど分かる。

 

それは、

「このシステムでできないなら、どんな環境でもできないよ」、とか、

「そんな弱弱しいことでは、何やってもだめだよ」、とか、

そんな言葉でくくられるよりも、

はるかに大きく深い問題を根に持っているのだと思う。

 

今の表舞台で一生懸命頑張れる人々、

その周りに、

「降りてしまった」子達が、

力を存分に発揮できる「オールタナティブな道筋」がいくつも築かれていけばなと思う。

 

今のシステムの中で「ちゃんとする」ためのメソッドは、

ちまたに溢れているわけだけれど。

 

働き方も多様化する中で、

今のマジョリティーの「学校」のようなシステムのみが有効なわけじゃないという認識が、

いつか「普通」になる日も来るのだろう。

あのアンカレッジの教育システムのように。

 

学ぶ場、時、スタイルをもっとフレキシブルに選べる教育システムが、

いつか「当たり前」になる日を願いつつ、

身近な周りから、できることをしていこう。


時と場合によって興味関心エネルギーを集約させるイメージで

2016年01月30日 | 中学・高校

長男と来学期の計画について話し合い。

 

あなたの普段の興味好奇心エネルギーの向き具合は

こんな感じじゃないかな。

 

時と場合によって、

これぐらい集約させたら、

目の前に形を生み出しやすいよね。

 

図にすると、

互いにイメージを共有でき話しやすい。

 

本人、

具体的計画を立てる際や日々のワークに向き合う時など、

イメージしていくとのこと。


今セメスターを振り返り、「成績自体」より「成績」を通して学ぶことにフォーカス

2016年01月29日 | 中学・高校

昨日で高校の1セメスターが終わった!

 

「フレキシブルなシステム」から、通常の高校生活へ移った長男

以前少し書いたけれど、長男にとって普通に毎日学校に通いつつ「いい成績」をおさめるというのは、かなりのチャレンジ。

彼にとってのベストは、「大学の授業やオンライン授業や課外活動を組み合わせたスタイル」というのは、去年実行してみて、とてもよく分かった。レンジャーやパイロットトレーニングやロボティックスやスポーツなどに走り回りつつ、授業を組み込んでいくというスタイル。

とはいえ、新地でこうした「フレキシブルなスタイル」を実行するのは、かなり難しいことが判明。アンカレッジのチャータースクールのように学区の制度に沿ったカリキュラムを一緒に練るアドバイザーもいなければ、経済的援助も皆無(アンカレッジでは約40万円近く州から援助があり、そこから大学やオンラインの授業料が出る)、また彼はスポーツが大好きなのだけれど、アンカレッジだとこうした「フレキシブルなスタイル」でも公立高校のチームに入ることができるのに対し、こちらでは「部外者」とみなされ、公立の学校システムとは一切関わることができなくなる。

ということで、本人のたっての希望で、今年度通常の高校に通うことに。

 

今回のセメスター、ホント色々あったなあと思う。

 


今セメスターのエピソード1

こちらの大学入学審査では、「日頃の成績」がとても重視される。彼が進学したいという大学も高校4年間「オールA」を取る子がかなりいる。

成績は頻繁にネットでチェックすることができるのだけれど、セメスターが始まってしばらくして、何とある教科が「D」なんてことに! 

ちなみにこれは、こちらで大学を目指す子を持つ親御さんなら、多分卒倒するレベルの評価。

 

実際私自身、分かった、一度社会に出てよーく揉まれてから、大学進学目指しー、と腹を据えた。

 

「この教科」の先生について、彼がちょこちょこ文句を言うのを聞いていた。全国統一のプログラムで、大学の単位も取れるという大学レベルの授業なのだけれど、この先生、とにかく座ってスライドショーを見せるだけ、それで、誰かが質問しようものなら、「スライドにあっただろう!」と不機嫌に怒鳴ると。

周りの親御さん方に聞いてみると、実際これまでも生徒や親からかなり「文句の出ている」先生のよう。とはいえ、「テニュアー(終身雇用資格)」を取ってしまえば、組織的にもどうともできない部分がある。

長男が提出したにも関わらず「不提出」と記された課題について質問し、e-mailで提出した日時の記載を見せ説明すると 「そういった人を非難するような態度でなければ、もっと協力してやるのに」と言われ。「自分の教材は貸さない」というので、手持ちのもので何とか仕上げると、「きちんと頼めば貸してやったのに」と言い放たれ。

 

まあそんなこんなで、徐々にやる気が底を這い、提出物に穴があくようになっていき。

出さなければ「ゼロ」なわけで。「ゼロ」が重なっていく。

 

それで何度かこんな話をした。

私:やってられないと怒って、やるせないと悔しくて。でもさ、それで提出物出さなかったり、いい加減にテスト受けたりして、誰か何か得るものあるのかな?

その先生、あなたがそうしたからって痛くもかゆくもないだろうし、あなたは自分が何年もかけてたどり着きたいと思っているゴールから遠ざかる。

その先生の先にある「あなたの目標」にフォーカスしなよ。

 

 

その後、彼なりに様々思い、頑張ったよう。

これだけ下げてしまうと、取り戻すのもかなり難しいのだけれど、少しずつ少しずつ彼なりに必死で積み重ね。

昨日の最終評価では「B+」。期末テスト98点(100点絶対取るつもりだったそうだけれど一問ケアレスミスしたよう)。

 

これなら、これからの頑張りしだいで、まだ何とかなりそうと、来期に向けて燃えている。

 

*ちなみに、高校時代の私だったら、そんな先生と毎日顔を合わせるぐらいなら、高校ドロップアウトしてたかも。本人には言ってないけれど。(笑)

 

 


今セメスターのエピソード2

これも大学の単位が取れる全国共通の大学レベルの授業なのだけれど、彼が大好きな得意分野。

授業中、他の授業の宿題をしていたのが見つかり、その数日間に提出したプロジェクト、宿題、授業中の課題全て「0」に!

ということで、期末の一か月ほど前にこの得意科目の成績が「B」に。これはもう取り返す期間も限られている。

 

彼的には、もう分かってるし、今日もレスリングの試合で忙しいから、今のうちに他の宿題済ませとこ、ということだったよう。

とはいえ、先生にはそんなこと通用しない。

 

 

ちなみにこのとき私は、本音では、先生に忠実であるためより、学ぶために学校に通ってるのだから、もっとフレキシブルにさせればいいんじゃないのかなあ、とも思ったのだけれど、

同時に、厳しい処置をしてくださってありがたかったなと感謝している。

 

本人には、

「これで、先生が何をいいとし、よくないとするか、よく分かったよね。

一生懸命教えてるのに、他ごとされてたら、やっぱりいい気持しないと思わない?」と。

 

そしてその後必死で頑張り、一昨日の期末テストでは100点(全国的には上位4パーセントが満点だったよう)を取り、最終評価「A」に。

 

 

 

 

 

「成績自体」よりも「成績」を通して学ぶことにフォーカス

親のできることとは、「成績自体」よりも、成績を通して何を学んでいるのかにフォーカスし、サポートしていくことなのだろう。

たとえゴールから遠ざかって見えたとしても、長い目で見て、「糧」にしていくために。

 

まあ、試験試験評価評価で育った私自身、これが時に難しく、子供の成績と共に奈落の底に落ちていく感を味わうわけだけれど。

それでも本当に、一つ一つの落ち込みに、親として、「何が大切なのかにフォーカスする」訓練になっている。

 

こちらの「成績」は、毎日の宿題、授業中の課題、プロジェクト、テストなどから成っている。

「成績」を通して学べることとは:

・コンスタントにワークするアップビートさ

・今何が大切かの優先順位を整理し、他にやりたいことを自制する力(興味範囲が広がり「過ぎ」傾向にある長男にとって、かなりのチャレンジ)

・スケジュールを組む力(スケジュールはやりたいことを「よりするため」にある!)

・整理整頓スキル(プリントや課題の整理、忘れ物対策)

・自分が理不尽に感じることも「その先の目標」にフォーカスすることで突き抜ける姿勢

 

などなどだろう。

 

 

 

色々あったこのセメスター。

週明けからは新しい学期が始まる! チャレンジングなAPコースも含まれている。

(以前、この学校は11年生からしかAPが取れないとしたのだけれど、10月に受けたPSATがそれなりに取れた子はAPを取るようにと通知を受け取ることが分かった。)

 

さて、腹を据え、これからのチャレンジに学び、共に乗り越えていこうと思う。


「パッションを向けるものがあること」の強み、能力を伸ばしていくということ

2016年01月28日 | 子育て全般

我が家や周りの子供達を見てきて、

「パッションを向けるものがあること」の強さを思う。

 


大きな変化の中で「パッションを持つものがある」ということ

 

先日「様々な国々を移動する職につく家族向けの子供のケア」をテーマにした政府主催のパネルディスカッションを録画したものを見る機会があったのだけれど、そこでも、「パッションを持つものがあることの強み」が取りあげられていた。

例えば、フルートを続けている子の場合、どこの国へ行っても、フルートを習ったり演奏したりとコミュニティーと繋がることができ、また環境ががらりと変わってしまっても、フルートを吹くという変わらぬ習慣により、情緒的にもより安定しやすいと。

 

今回の引っ越しでも、

長男16歳の「NPO活動」や次女12歳の「サッカー」など、

この「パッションを持つものがあることの強み」についてとても納得している。

 

 

 

日常生活で「パッションを持つものがある」ということ

 

そしてこうした「パッションを持つものがあるということ」とは、

たとえ海外移動や引っ越して新地に暮らすという状況になくても、

日常生活に次から次へと起こる変化の中で、

「エネルギーの源」や「安定する場」になってくれたりと、

「ひとつの軸」のような働きをしてくれるのだなあとも、

子供達を見て、日々感じている。

 

三女8歳と次男6歳は、まだまだ「これだ!」というわけではないけれど、

こちらに来てからの縁で「チェス」にはまっている。

私も二人と共に初めて習い、実はかなりはまっていて。

 

ここ数か月、三人とも、毎日「少なくとも」一度はチェス盤に向かっている状態。

ビギナーズでヨワヨワだけれど、これがもう毎日はっとさせられる学びに溢れていて!

何よりも、三人一緒にあーだこーだと作戦や戦略を学び試すのが楽しい。

(ちなみに、チェスマスターから薦めていただいたウェブサイト「chesskids.com」いいですよ。

ビデオなどで分かりやすく様々な手やコツを教えてくれます。)

 

 


で、長女はどうなんだろう?

 

長男、次女、三女、次男ときて、

そこで、長女14歳。

何だか、これといったものがなく。

 

長男のNPOに何度か参加したもののその後頑なに拒否、

サッカーも違うようで、

チェスもちょこちょこと誘うのだけれど、ときどき遊ぶ程度。

私達三人が戦略なんかを興奮して話す横で、シラー。

 

何となくしていたバレーボール部も、シーズンが終わり。

そんな中、やりたい!とパッションを持っていた彼女が目指す分野でのボランティアも、

あちらこちら問い合わせてきたのだけれど、通える範囲では、

15歳からしかポジションがないことが分かり。

ひとまずこの先一年は、無理。

 

 

 

長女の、あ、そうだ、これだった!

 

と、先日、大きな転機があった。

そうだった、ずっとこれがしたかったんじゃない、

そう本人も周りも、「あっ!」とクリックする瞬間というか。

 

私って/この子って、アクロバティックダンスが好きだった!

 

小さな頃少しバレーをして、小学校高学年にはアクロバティックなダンスにはまり、中学校では学校の部活で色々なスポーツを試す中で、ダンスも続けたいと何度か口にしていたのだけれど、時間的にも難しく遠ざかり。

そしてアラスカを離れる夏には、行く予定になっていた高校の「チアリーディング」のトレーニングに通っていた。私自身「チアリーディング」というものに無知で、これまで全くピンとこなかったのだけれど、最近長女といくつかの映像を見て、初めて、チアリーディングというのは「アクロバティックダンス」そのものなんだと分かった。ポンポン振って「チア」するだけなのだと思っていた。

ところがこちらに引っ越してくると、高校のチアリーディング部は、既に入部審査も終わり、夏の間に練習が始まっていた。人気のある部で、チームに入るにはかなりのスキルも要求され、遅れてきた初心者の彼女には、入部できる可能性なし。ということで、何となく以前もしたことのあるバレーボール部へ。そしてチアリーディングもバレーボール部もシーズンが終わり、今に至る。

 

 


したいしたい!という子もいれば、分かりにくい子もいる

 

そんな好きなら、なんで分からなくなっちゃうわけ? とも思うのだけれど、

子供によって気質もそれぞれなんだなとしみじみ思う。

長男や次女は、自分でどんどん調べてこれをしたいと「勝手に」決めて、こちらが「ちょっと待って!」と止めることも必要なぐらいなのだけれど、長女の場合、「長女気質」というか、まあ何となく、与えられた環境でそれなりにハッピー、足下の花をそれなりに嬉しそうに摘んでいるというか。

 

ところが、この「チアリーディング」という言葉が最近我が家で行き交うようになってから、長女の様子がみるみると変わった。学業も含め、様々なことに向き合うやる気や覇気のようなものが全く違う。

 

長女の出来事からも、「パッションを向けるものがあること」の強さを改めて実感している。

そして、その子その子に、表れ方は違っても、あ、この子はこれかな、と感じる瞬間があるのだなあと。

 

 


直接にはその大きさが見えないかもしれないけれど

 

長女の「ダンス」や「チアリーディング」のように親が関心なかったり、この子の将来にそれが何か役に立つのだろうかと考えたりすることもあるだろう。実際、中学時にダンスから遠ざかったのも、そうした私達親の意識も背景にあったなと思う。

それでも、子供たちの変化を見ていると、確かに「直接」には見えないかもしれないけれど、あらゆる面で、この「パッションを持って向かうもの」が大きな力となっていると感じている。パッションを持って向き合う中で、自発的に少しずつスキルを磨き成長していく体験の貴さ。

 

 

ということで、一緒に調べてみたら、車で5分も行ったところに、ジムナスティック/ダンス/チアリーディングを教えるジム発見! 長女自らコンタクトを取り、レッスン開始。ひとまず来年度新しい高校での入部審査通過を目指して、スキルを磨いていく予定。

「一つの軸」にしていけるといいね、表情の輝く長女を眺めつつ。

 

 

 

追記:

先日、「子供の才能をどう引き出し伸ばしたらいいでしょうか」という相談をいただいた。

私は、この「本人のパッション」が鍵だと思う。

その子を観察して、

「どうしたらこの子の内面に炎が燃え上がるだろう?」そう問い続けていると、

あ、これかな、という瞬間が見えてくる。

その内に湧き上がる炎に、薪をくべるサポートをしていく。

外から鋳型で囲うのではなく、内から外へと湧き出るものへ、フォーカス。


公表される「科学的研究」が意味すること

2016年01月28日 | メモ

「科学的研究」とされるものが、

公のメディアに流されると、

あたかも「決定的に何かが分かった!」という扱いがされることが多い。

私自身もちょこちょこ記事に引用させていただいたりする。

 

それでも発表される「科学的研究」とは、

学者間では、

そこからどう深め、発展させるかのスタート地点、

という認識であることを覚えておきたい。

 

「絶対の事実」ではなく、あくまでも、「一つの到達地点」だと。


ドキュメンタリー映画ふたつ、「できる状況」にあるということ

2016年01月26日 | 中学・高校

ということで、雪のおかげで手にした思わぬ連休!

連日子供たちとどっぷり過ごしているのだけれど、

ドキュメンタリーなどを見る時間も。

 

 

以下の2つよかった:

 

”A place at the table" 

米国で5千万人近くが日常的に食糧不足という問題を扱ったもの。

 

 ”The dream is now"

不法移民の子供たちが、

様々な能力に恵まれ努力を重ねても、

正当な職や活躍の場が与えられないという問題を取り上げたもの。

 


一見「物溢れ豊かで平等」に見える米国の「側面」を分かり易く照らした作品。

両者とも、こうした状況の改善運動のプロパガンダでもある。

 

 

「ママってなんでそんなすぐに泣けるの」

と子供たちに呆れられるほど涙もろいのだけれど、泣けた。

 

「自らもっとよりよく!」と志向し具体的努力をするのと同時に、

それができる状況にあるというのは、

できない状況にある人の分も担っているということを覚えておきたいね。

少しでも状況を変えていけるよう、還元できるといいね。

そんな話を上の子達と。


米国東海岸の積雪による「機能停止」ぶりに驚く日々

2016年01月26日 | 風景・旅

Deadly Snow Strom paralyzed East Cost!

「致命的な雪嵐(ブリザード)が東海岸を麻痺させた!」

 

こんなタイトルのニュースが流れるここ数日。

心配して連絡を下さった方もいるのですが、

ここら辺りは周りみな、きゃっきゃと雪を楽しんでいます!

 

30センチほど積もったんですが、

DCやニューヨークなど、70センチ程の降雪だったようです。

アラスカでは見慣れた雪景色が広がってます。

 

 

先週初めくらいから、

学校スタッフや親御さんから「いよいよくるよ~」と聞いてました。

スーパーではトイレットペーパやミルクが買占め!されていたりして、

「マイコはアラスカに暮らしてたからね、私達のこと笑ってるでしょ~」

なんて冗談も言われたり。

 

 

それでフタをあけてみて、

こちらの「機能停止」ぶりに、

家族一同とにかく驚く日々。

 

子供たちの学校も、木曜日から今日火曜日まで休みとなり。

DCの公機関で仕事をしている夫も、今日もオフィス閉鎖で通勤バスもストップ。

何気に買い物に出てみれば、ガソリンスタンド以外の店はほとんど閉まっている。

普段24時間開いている店も、買い物客ピーク時の夕方にも関わらず、

この通り。

 

 

 

雪嵐で風が強かったのも一晩ほど。

ところが嵐去った後、

まぶしい晴天続きにも関わらず、この状態が続いてるんですね。

 

何でも、除雪する機材やシステムが整っていないとのこと。

スクールバスも含めみなさん夏タイヤで、

少しでも道路に雪や氷が残っていると危険!ということのようです。

州知事なども「危ないですから家にいるようにしてください!」

と注意を呼びかけたりしていて。

 

アラスカでは日常生活を送ってる程度の、

雪氷状態なんですが。

 

 

 

このテクノロジー溢れる都会で、

限られた除雪機材に頼りつつ、

「雪が解ける」という自然のサイクルを待っているという。

 

経済的ダメージ何十億円とも報道されているんですが、

今年ほど大規模ではなかったものの、

毎年雪で何日間か麻痺するようなので、

雪対策をより整える方向へと向かないのがとても不思議です。

除雪や雪対策を整えるより、

積雪のたびに街の機能をストップさせるほうが、コストが低いのでしょうか。

 

 

 

ということで、思わぬ休日続きに、

子供たち大はしゃぎで、近所の子達と雪遊びの毎日。

近所の皆さんも、昼から庭で焚き火を囲んでわいわい集まっていたりと、

何だかタイムトリップしたようにほのぼのとしていい感じです。

 

明日からは、学校&仕事も始まるそう!


先生と生徒の関係が生徒のパフォーマンスにとっていかに大切かを示すいくつかの研究紹介。何ができる?

2016年01月24日 | メモ

生物人類学者グエン・デワー氏による、「先生と生徒の関係が生徒に与える影響」をまとめた記事'Student-teacher relationships'に、先生がサポーティブで生徒と良好な関係を築くことがいかに大切かが、幼児からティーンまで様々な年齢を対象にしたいくつかの研究から示されている(それぞれの研究の詳細については、以上の記事参照)。

 

・年長の子供達に、問題を解く前に先生の顔写真を見せる。先生と良好な関係を築けている子ほど、問題をより早く正確に解くことができた。それは同じ子供達が小学校にあがり、新しい先生に変わってから、年長時代の先生と小学校の先生両方の写真を見せた場合でも、年長時代の先生との関係の方がより大きな影響力を持っていたと。小さな頃の先生との関係の大きさ!

 

・学校へ上がる前に、先生とポジティブな関係を築けた子の方が、後に学業や情緒面で健やかであるという研究もある。そうなると、「やんちゃで手のかかる問題児でなかったからこそ、『良好な関係』が築くことができ、その後の学校生活で成功するのもそういった子供の性質上当たり前なんじゃない?」という疑問も生まれるわけだけれど、「より手のかかる子」でも、先生がサポーティブに世話をした場合の方が、後に問題行動の少ない健やかな子に育ったと報告されている。

 

・米国で高校生を対象に大々的に行われた研究では、数学でのアカデミックな成長を予測できる最も重要な要素が、「生徒が先生と繋がり(connectedness)を感じていること」だったと報告されている。

 

 

 

 

先生が生徒と良好な関係を築くためにできること:

 

先生に、手のかかる子を扱うスキル上達を目指すなどの、トレーニングの機会を与える。トレーニングにより、先生と生徒間の関係が改善すると報告されている。生徒の間違いに対し、「あなたに失望したわ」より「他に何かやり方があるかな?」といった言葉がけを心がけるだけでも、生徒との間により良好な関係が築けるもの(両者の言葉がけを比較したところ、前者は生徒との関係を損ねるだけでなく、生徒のパフォーマンを長期間にわたり下げることになったという研究報告あり)。

 

・教師の待遇を改善する。先生の給料がより多い場合も生徒と良好な関係を築きやすいという報告。確かに先生の待遇がよく仕事に満足しているほど、先生も余裕ができ、生徒一人一人に対してのやる気が増すででしょうね。

 

教師が文化的背景の違いに敏感になる。

米国には、女子や、ヨーロッパ系アメリカ人の生徒の方が、先生と良好な関係を築きやすいという調査結果もある。

また黒人の先生は、「そのペンをしまいなさい!」という指示を出しがちなのに対し、白人の先生は「このペンはどこにしまったらいい?」と話しかけるという研究がある。黒人の子供達にとっては、白人的対応があまりしっくりと来ない場合があるとのこと。

この「文化的な違い」というの、放課後スクールで日々肌で感じている。白人の先生(に交じりアジア人の私一人)ばかりに、生徒は黒人の子が多いという環境。これって、黒人の先生だったら、もっとうまくまとまるんじゃないかなと、たびたび思う。

オランダでは、ネイティブのオランダ人の先生は、ネイティブの生徒に比べ、モロッコ人の生徒と良好な関係を築きにくい。トルコ人の先生の方が、トルコ人の子供たちの感情面により繊細に気づくことができるという研究もある。

日本のように「より同質な文化」であっても、教師自らの価値観や生徒の特性や相性的なものに教師自身が気づき、より生徒の側に添った対応を心がけるのが大切ということが、これらの研究から学べるだろう。

 

・教師がだめなら、文化の違い(特性の違い)などに精通したカウンセラー的な存在を間に入れるといい。それでもだめなら、クラスや学校を変えることも考慮してみてはとデワー氏。

 

 

 

子供達をみてきても、先生と生徒の関係って大きいなあと思う。ちょっとあれはひどかったよね、と今でも話題になるような痛い思いもしてきたけれど、色々な意味で「鍛えられる機会」になったかなという気持ちもある。それでも一日の大半を学校で過ごす子供達、ポジティブな関係に囲まれていた方が、やはり健やかでしょうね。

 

高校生にもなると、もうどんな先生にあたろうが何とか生徒側から良好な関係を築こうとする場合が多いのかなとも感じている。社会へ出てからに向けての訓練をしているようなところがある。とはいえ小さな子ほど、こうした「反面教師にする」といったこともまだまだ難しいだろうし、できる範囲で健やかな環境を整えてやりたいですね。

 

先生側に、自身を磨き続けていく意志&環境があれば、確かに教育も随分とよくなっていく。以上のこと、親としてできることをしつつ、そして教える側に立つたびに、思い出していきたい。


結婚式に足でグラスをパリンと割るイメージに教えられること

2016年01月24日 | イメージ

ユダヤの結婚式に、

愛を誓いあう式のクライマックスに、

新郎が足でグラスを割るという儀式がある。

 

愛が溶け合う幸せの絶頂時に、パリン!と粉々に。

 

これは、全てが完全に見える中で、

世界はまだまだ不完全に溢れているということを、

思い出すためともされている。

 

 

 

内に広がる完全に見える世界。

その温もりに浸り、

もうここに一生暮らせばいいじゃないと微笑み。

 

そこへパリン!とグラスを割るイメージ。

 

外に目を向けるのならば、不完全さに溢れている。

内から外に向かう。

具体的形を、行為を、日々少しずつでも刻んでいく。

 

それがこうして肉体を持ち生きているということ。