まぐれだってなんだって、
一度たどり着いたことがあるならば、
たとえ何度後退したって、
必ずまた、そこまでたどり着ける。
夫出張から帰る日はいつも子供達が、お帰りなさい!の手紙を書いたり絵を描いたり。
うん、こんな風景になるのも、もうすぐだね。
by 次女
山菜採りに、ベリー摘みに、きのこ狩りに。
年を経るにつれ、そういうことがもう楽しみでしょうがなくなっていく自分に、ちょっと驚く。
同じように変化している友人と、これ何なんだろうねえ、老い? そう笑い合って。
多分、「還る」ということを、より身近に感じているんだろう。
友人宅で手作り餃子ランチをご馳走になった。
手作りデザート、
持ち寄り。タグもいつも手作り。
みんなすごいなあ。
アラスカには大きな軍事基地があるのだけれど、軍人さんと結婚した沖縄からの女性も何人かいる。
軍人一家は3年程もすれば、他の基地のある土地へと移ってしまうので(そうして国内外基地のある地を移動し続ける)、限られた期間しか近くにはいられない。
これまで出会った沖縄出身の友人達、皆太陽のように明るくて元気で。
今日もその南国の青空のような笑顔にどれほど力をもらったか。
笑って笑って、心の内が、すかんと晴れ渡った午後。
今日はエイプリルフール。
さっき○○(長女)から電話があってサイエンスの宿題忘れたから持ってきてって。
ママ、弁当のサンドイッチ、レタス入れるの忘れてたよ。
ジャケットのジッパーが壊れて閉まらない。
トイレに紙がつまってる。
明日の部活動、明後日に延期だって。
そんな日常に溶け込んだあまりにもあり得そうな「嘘」目白押しで。
日の終わりには、子供達から何を聞いても右から左へと聞き流す母に。
パラレルワールドにいるような一日だった。
昨日はウォルドルフの学校に通う子供達と一緒に過ごす機会があった。
彼ら彼女達の「耳からストーリーを聞き取る力」に驚いた。
その場で話されたストーリーを、じっくりと聞き込んでいる。
ウォルドルフでは、幼少期から絵本の読み聞かせではなく、口頭のストーリーテリングをする。
「絵」がせっかくの想像力を狭めてしまうと。
ストーリーを何度も聞いた後、劇にしてみたりと、身体全体での表現を通し、内容を掘り下げていく。
頭でさらりでなく、身体全体にじっくりとストーリーをしみこませる。
子供時代にたくさんそんな時を体験できる子供達は幸せだなと思う。
「モノや言葉は忘れられるけれど、与えた感情は忘れられることがない。」
昨夜、そう小学校の体育館の壁に貼ってあった。
確かに、そうかもしれないな。
人を思い出すとき浮かぶのは、モノや言葉でなく、もやもやっとした印象や気持ち。
フランスに滞在したトーマス・ジェファーソンがアメリカに持ち帰り紹介した食べ物としては、
・フレンチフライ(フライドポテト)
・マカロニチーズ
・アイスクリーム
・トマト
などがある、と書かれた子供向けの本を昨夜次男と三女に読み聞かせ。
トマトはそれまで、アメリカでは「ラブアップル」と呼ばれ、
その愛らしい名前には似合わず「毒がある」と思われていたそう。
何で毒があると思われてたんだろうねえ。
やっぱりあのぐじゅぐじゅ部分がとっつきにくかったのかなあと子供達。
ふと、子供時代、虫か何かの生き物の糞が、あのトマトのぐじゅぐじゅ部分にあまりにもそっくりで衝撃を受けた瞬間を思い出す。
それで、その生き物が何だったのかを思い出そうとするのだけれど、どうしても出てこない。テントウ虫だった?
皆が寝静まり、コンピューターのスイッチオン。
「今はネットで調べたら何でも分かって便利」とはいえ、
色んな言葉バージョンを試してみたけれど、
「トマトのぐじゅぐじゅ部分に似た糞をする生物」、なかなか見つからない。
そんな中、テントウ虫が糞をする映像をユーチューブで見つけ、その瞬間を見守る。
あ、・・・、そっか、黒くて小さいんだ・・・。
トーマス・ジェファーソンのトマトから、
なぜ暗闇の中、
こうしてテントウ虫の排泄シーンに釘付けになっているんだろう。
ふと我に返り、星空を見上げた夜。
*今から生物学専攻の友人に会うので、真っ先に聞いてみようと思う。
何かを言えば、何かが抜け落ちている。
それでも何かを言うから、
動きが生まれる。
超えられるために言葉を発しているという自覚。
静止地点でなく、連なる過程にあれる喜び。
二つ前の記事に書いた、
「三毒、貪欲さ・怒り・愚かさ、を頭に上げない」
というの。
今日運転しながら、
ああ、そうか、
湧き上がる「貪欲さ」、「怒り」、「愚かさ」を、
何度も何度も言葉で反芻しないということかな、
と私なりにストンときた。
ああもう本当に腹が立つあの時あんなこと言うなんて相手の気持ちなんて全くお構いなしで自分のことばっかり考えてるんだよ嫌になるねえだいたいこの前もさ・・・、
言葉で延々と「怒り」をなぞるなら、
怒りも延々と続く。
あ、私怒ってる。
と思ったら、できるだけ言葉でなぞることを止めてみる。
すると、本当に怒りも続かないんですね。
そこで、より建設的な考え方もできるようになる。
認知科学に、感情は、もし言葉でなぞって反芻しないのならば90秒しか続かない、という説がありますが、これホントだなあと実感してます。
それはネガティブであっても、ポジティブであっても、悦楽的な感情であっても。
頭に上げない=言葉で反芻しない。
もっと背負うんじゃなくて、
背負ってるものをひととき下ろせてほっとできるような集まり。
それで明日からもまた頑張ろうかなと思えるような。
そんな場を求めている人が多いんだなと実感。