虹色教室通信

遊びや工作を通して 子どもを伸ばす方法を紹介します。

「言葉の遅れ、人と関わる力の弱さ、叱られると笑うところが気になります」の続き 1

2016-08-25 09:23:52 | 自閉症スペクトラム・学習が気がかりな子

言葉の遅れ、人と関わる力の弱さ、叱られると笑うところが気になりますの記事の続きは、

別のタイトルで書いています。

 

怖いものしらずで聞き分けのない2歳児。強く叱った方がいい? 1

 

怖いものしらずで聞き分けのない2歳児。強く叱った方がいい? 2

 

 

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連絡事項【Mail連絡について】

2016-08-24 22:47:52 | 連絡事項

こんばんは、虹色教室事務担当の【事務K】です。

 

夜分遅くですが、勝手ながら記事を書かせて頂いております。

私のミスなのですが、新しいPCに変えた7月初旬よりYahoo!メールをメールソフトでサブの保存用に使っておりました。

 

 

この頃、頂いたメールがYahoo!メールの検索に引っかからないことが多発したため、先ほど調べたところ、メールソフトの設定をミスしており削除されておりました。

 

 

そのため、ご連絡が滞っている方がおります。

 

現在、メールソフトの方からご連絡(返信)待ちの方をピックアップしており、お時間を頂戴しています。加えて、私事なのですが、もう暫くバタバタとしております。

出来る限り早く態勢を立て直す予定です。

 

 

お待たせしております方々には大変ご迷惑をお掛けし申し訳御座いません。

ご連絡の内容(日程等)に応じて、このような時間では御座いますが、ご連絡を進めさせて頂くことが御座いますこと、ご了承下さいませ。

 

誠に申し訳御座いません。

 

 

事務K

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学びの原動力は『謎』

2016-08-24 07:41:04 | 日々思うこと 雑感

『小さな友へ』という詩は、10年ほど前に、子どもたちに向けて書いた詩です。
もし何でも子どもたちにプレゼントできるとすれば、何を贈ればいいだろう?
私が子ども時代に手にしたもので、最高にすばらしかったものって何だろう?
今も宝物となっているものは何だろう?
そんな考えをめぐらせながら書いた詩です。

当時、私が、「子どもがもらって、心がときめくのはこれしかない」と考えたのは、『答えのない問い』でした。
つまり、『謎』であり、『不思議』であり、自分独自の『知りたい思い』『まだ答えが与えられていない未知の課題』です。
この思いは、10年経った今も、少しも変わっていません。

先日、『おせっかい教育論』 著者 鷲田清一 釈徹宗 内田樹 平松邦夫  
(株式会社140B)という著書のもくじ欄で、
『子供が育つには「謎」が必要』というタイトルを目にし、思わず、即、購入して帰りました。


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この著書の中で、内田樹氏は、
子どもにとって、成長の一番の契機になるのは「謎」だと断言しておられます。
子ども自身が自分の知的な枠組みを壊してブレイクスルーを
果たすためには、「なんでこの人はこんなことをやっているんだろう」というミステリアスな大人が絶対不可欠なのだそうです。
学校では、文部省は一貫して教員たちの規格化・標準化を進めてきているので、一定の価値観の枠内の人しか教壇に立てなくなってきている問題を指摘しています。


鷲田清一氏は、大人が言うことが一色なのも問題で、いろんな考えがありうるという、複数の可能性のフィールドを提示するのが大人の責任だとおっしゃっています。
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この著書で書かれているミステリアスな『謎』は、私が詩で表現した『謎』とは少し意味がちがっていたのですが、
とても共感できるすばらしい本でした。

勝手に拡大解釈させていただいて……
「子どもが育つには『謎』が必要」という言葉は、いろんな意味で、今子育ての場に最も足りないもので、最も重要なもののひとつでもあると感じました。

教室でもワークショップでも、
子どもの目が輝き出し、一生懸命課題に取り組み出すきっかけとなるのは、「どうしてだろう?」「おかしいな」「不思議!」と感じた瞬間です。

子どもはすでにわかっていることを「覚えなさい」「練習しなさい」と言われるときではなく、「どうして?不思議!」と大人でも首をかしげるような疑問にぶつかったときに、全力で問題を解決しようとします。
そうして考えることの面白さに気づいた子は、普段の勉強もまじめにこなすようになっていきます。

『謎』は、上で紹介したような好奇心をくすぐる不思議との出会いや、価値観の異なる人々との出会いとは別に、『未知』であるという意味で、
学ぶ意欲と深いところでつながっています。
↓は過去記事ですが、よかったら読んでくださいね。
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『明後日(あさって)』の感覚って聞いたことがありますか?
アーティストの日比野克彦氏が、哲学者で大阪大学総長の鷲田精一氏との
対談中に使っておられた言葉なんですが、
目にしたとたん、
「良い言葉だな~」という感動を通り越して、
自分の生きてきた方法とか、やってきたこととか、考えてきたこととか、
そうしたもの全てに太い一本の芯が通って、
「あ~、私はこうした感覚を大事にしてきたんだ」
と納得したような気持ちになりました。


日比野氏が、

明日のことはある程度はっきりわかる。1ヶ月後のことは全然わからない。自分の絵の描き方やワークショップなどの共同作業は、
ちょうど、「明後日」のように、ぼんやりと大まかなところだけわかっている感じなんです。
……(中略)ある一つのアクションが次のアクションを生み、この人と出会ったから、このアクションにつながっていく。
いつもその連続です。
絵も同じで、大まかな方向性はありますが、「黒い線を描いた、この次はどうしよう」と、まず一手を描かないと次の一手を思いつかないものです。……(略)

と、アーティスト自身が先行きを正確に把握しないまま進んでいくプロジェクト
について、「明後日」の感覚という言葉で言い表したところ、

鷲田氏が、

そういうプロセスには、「新しい社会性」とでもいうものを模索していくヒントがあるような気がします……(続く)

といったこと答えておられるんです。

以前、教育現場に必要な 『ブラックボックス』 という言葉 
という一連の記事を書いて、教育の場に、『ブラックボックス』という言葉が必要なのでは?……といったことを書いたことがあります。
子どもたちが、ブラックボックス化する世界に生きていることを無視したまま、、パソコンや携帯ゲームや、○○○計算や○○時間といったよさげ~な方法だけ取り入れても、子どもたちが主体的に勉強していく方向には、
機能しないんじゃないかな?
という疑問を言葉にしたものです。
(多くの方が、同じようなことを考えていたそうでした)


日比野氏の『明後日(あさって)』の感覚という言葉に出会ったとき、村上陽一郎氏の『ブラックボックス』という言葉を目にしたときと同じような強い衝撃を受けました。
そして、この『明後日(あさって)』の感覚という言葉もまた、
「教育現場に必要な言葉じゃないかな?」
「子どもが意欲ややる気を取り戻すキーワードじゃないかな?」という
思いにかられました。

虹色教室で子どもたちに学ばせているとき、私には、
どうすれば子どもたちのやる気や意欲が盛り上がってきて、知りたい!調べてみたい!もっとがんばりたい!という気持ちになるのか、
だいたいのところ勘でわかっているんです。

それは、「自分は既存のきまったコースをなぞってるだけじゃないんだ」という感覚……というか、
「ある方向性はあるけれど、進んでいく先はガチガチに固まったもんじゃないんだ」
「自分のアイデアや考えや発言が、未来を変えてく影響力を持っているんだ」
という感覚でレッスンを受けているということです。

教室で、時々、にんじゃブームとか、日本全国のゆるきゃらを覚えようブームとか、宇宙の実験ブームとかが巻き起こるのですが、
最初の火付け役の子たちの時期には、
黒い布切れにもぐって宇宙気分を味わうことから、宇宙への興味が膨らんでいくような、教材は整ってないし、やることは見えてないしで、
言わばレッスンとしたら、「レベル低い!」状態なんです。
でも、そんなカオスな時期こそ、子どもたちは、「こうしたら?」「これしたい!」「なんでだろ?」と主体的に自分で動いて、それは熱心に学びたがるんです。
そのブームが飛び火して、他の子たちの興味も加わるにつれ、
私は子どもたちがワクワクして熱中していた学習課題を扱いやすい教材にして、
「宇宙」といったタイトルのついた箱の中に溜めていきます。

すると、大人の目には、箱を開けるだけでワクワクするような
教材パックができあがるんです。
もたつかずに、「わ~」っという感動や、
「そういうことだったのか」という知識を得るのも手っ取りばやくて、
大人は満足。
でも、最初の子たちに比べたら、ものすごく良い教育環境……のはずが、
後の子たちほど、しら~っとやる気がない状態に陥ってしまいがちなのです。
そこから、発展させて自分で調べてみようという気持ちになりにくく、
「見て、不思議でしょ?」と、笛吹けど踊らずという状態です。

同じように見えるけど、
むしろ、後の方がよっぽど魅力的なのに、
何がどうやる気や意欲を半減させるのでしょう……?

大人が何日も前から事前に準備していた魅力的なプロジェクトよりも、
下の記事のような3歳の子のふとした発見の方が、どうして子どもたちの探求心に火をつける場合があるのでしょう?
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 1
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 2
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 3
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 4
★3歳の子の発見から、発明、研究、工作の輪 5
子どもの意欲ややる気の盛り上がりって、ランダムでその日のお天気で決まっているように見えて、
やっぱり言葉にして整理できる一定のルールが存在する気がしています。

うちの息子が、小学3,4年生の頃、
ビデオカメラ片手に友だちと映画を撮ることに熱中していたことがありました。
上映会というのに、引っ張っていかれて見たら、
期待以上の面白さで、
「今度、もっと良いのができたら、公募に応募したらどう?
映像作品の募集がないか調べてあげるわ」と言ったことがあります。
すると、息子は呆れたように、
「お母さんは、遊びってものがわかっていないな~。
何かのためとか、結果とか気にせず、自由にやるから遊びで、
だから面白いんだよ」
と言い返されたことがあります。

子どもって、もともと功利的じゃないんですよね。
「遊び心」が汚されていない場や時間の中ではじめて、
いきいきと自分を発揮できるし、
思いきりがんばれるし、頭をしぼりきって考えられるのでしょう。
それと、遊んでいる途中で、映画作りが、探偵ごっこに変わるかもしれないし、
まったく別の興味へと流れていくかもしれない
という未来が固定されていない感じが、
今の集中や全力投球を支えているのでしょう。

そういえば、昔、私が通ってた小学校や高校(中学は荒れてました)は、きちんと学校としての秩序は保たれていたけれど、日比野氏の言った
『明後日(あさって)』の感覚というものが、いろんな場の底流に流れていて、
私たちの好奇心を持続するのに役立っていたな~と思いあたりました。

虹色教室では、子どもたちと小さなものから大きなものまで、
さまざまな創作活動をすることがよくあります。
子どもの興味に引っかかったものを、先行きについては『あいまい』なまま
気の向くままに、
その都度、学べそうな要素をいろいろ盛り込みながら作っていきます。
こうした制作活動は、たいていの場合、
いつも最初に期待していたよりも何倍も良い結果を得て終わります。

はじめ結果が読めないのは、その子その子の個性が混じるからです。
子どもによって、作ってるうちに、歴史や地理に強い興味を抱くようになったり、緻密に計算された作品を作るようになったり、根気が伸びたり、
自己肯定感が上って、何ごとにも積極的になったり、
算数や理科が得意になったりとさまざまです。

そんな風にそれぞれが得るものは異なるけれど、
手でする作業と、自分のなかの美を感じる気持ちと接触した後って、
必ずといっていいほど、
期待以上の結果を手にすることになるのです。

何かすごい作品を作ろうと力むのでなくて、
面白そうだ~というアンテナにかかった作業にモクモクと熱中してみることで、
子どもは素直になり、落ち着き、個性的な「自分」という感覚や、
自由な生命力を取り戻すように見えます。

積み木で、幼稚園や小学生の子たちと、
海上のピラミッド モン・サン・ミシェルやパルセノン神殿を作ったことがあります。
そうした製作はたった一日の出来事ですが、
その後、教室では、
古代のカレンダー ストーンヘンジや
ピサの斜塔、コロッセオなど遺跡を作る子たちが続出し、
学習への集中力や海外の文化に対する興味が高まりました。
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日比野克彦氏と鷲田清一氏は、アートの

『絵でも工作でも何かをつくることで、気持ちを共有したり、
コミュニケーションの輪が広がったり、新しい発見ができたりする』

という機能に着目しています。

「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」の3つは、
虹色教室でも、製作活動中やその後で起こりやすいことです。

子どもが作品を作ったとき、時折、それを教室に飾っておいてあげると、
「私も飾って!」と言い出す子がいて、
描いたものを「誰か」が見てくれることがうれしくてたまらないという気持ちが、他の子の作品にも興味を持ち、
自分の中にその良さを取り込んでいこうする態度に変わるときがあります。

また、ひとりの子の作品が、たくさんの子の心を揺さぶって、電子工作や歴史的な建造物を作るといったことが流行することがあります。

だれかが発見した科学的な仕組みを、
別の子たちが別の作品で利用することが流行るときもあります。
「新しい発見を発表しなくちゃ!」というワクワクする気持ちと、小さなアイデアが広範囲に影響を及ぼす力に子どもひとりひとりが感動する気もちを持っています。

教室では、自然に遊びが共同制作へと流れていくことがよくあって、
ピタゴラスイッチのような装置ややどかりハウス(だんだん巨大化して屋根つきを作ります)などを、
「ぼくは、ここするから、そっちたのむよ」「これどう?いいでしょ?」「うん、すごいすごい!」といったやりとりをしながら、
熱中する姿がみられます。
完成の喜びが、「磁石について、くわしく調べたい」「恐竜の時代について研究したい」など、強い知的好奇心に結びつくこともよくあります。

製作の場で、
「気持ちの共有」「コミュニケーション」「新しい発見」が活性化されることと、
日比野氏の『明後日』の感覚といったものはつながりがあると感じています。

「こういうものを作りなさい」「それぞれ個人で」
など、ルールや先行きがかっちり決まりすぎていると、
ただ作った~で終わっちゃいがちなんですね。
子どもを見ていると、人って個人的に何か上達することよりも、人とコミュニケーションを取ることや、互いに響きあうとき、誰かの役に立ったとき、
認め合ったときに、
一番いきいきするんだなと感じています。良い作品ができたとき、高い点数をつけてあげるより、
「みんなに、どうやったら
こんな風にできるのか教えてあげてちょうだい。
みんなに、どこを工夫したか説明してあげてね!」
と言った方が誇らしげな顔をしているのです。


日比野氏の言葉に、次のようなものがあります。
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そう展覧会でも、「この絵いいよね」という人もいれば、無言で通りすぎていく人もいる。
絵は同じでも、判断は百人百様です。
絵はダンボールに絵の具がのっているだけのものですが、人によっては、見た瞬間に時空を超えることもできる。
それって、芸術の力としては、絵描きの力よりも見る力のほうがすごいんじゃないか。
それで、だんだん、見る力のほうに興味が移ってきました。
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子どもに創作させるとき、「わが子が何を作ったか?」「他の子より上手か?」という点だけ気にかける親御さんはいるのです。
でも、本当は何も作っていなくても、他の子の作品を「見る」だけでも、
見る力が高まっているんですよね。

「見る」力だけでなく
★幼児が「よく考える」ようになるためのいくつかのステップ で取り上げた
さまざまな力が、製作をお友だちと共有しあう場では、向上するのだと思います。

脳への「入力」自体が変わる、と言っても過言ではないのでしょうね。

日比野氏は美術を日常のなかに機能させる機会を広げることを、
自分の役割と感じておられます。

美術を日常のなかに機能させる大切さって、すごく感じた出来事があります。
去年、母の死の後、
私は母への供養の意味もあって、曼荼羅風の絵を何枚も描きました。

どうして曼荼羅かというと、
母が末期癌におかされて入院中、「暇つぶしに」と、
色鉛筆のセットと分厚い曼荼羅塗り絵というのを持っていったことがあるのです。
母は、クリスチャンだったので、曼荼羅とかかわりがあるわけじゃないのです。ただパッチワークが好きだったので、
曼荼羅が母の縫うパッチワークのパターンのようにも見えて
買っていったのです。

数日後、入院先を訪れると、母のベッドに
向かいのベッドの人がやってきて、
「○さん、ありがとう。2枚も塗らせてもらっちゃったわ。心が落ち着くわ~ほんとに楽しいわね~」と言って、例の曼荼羅塗り絵を差し出しました。
母に塗り絵の進行状態を見せてもらうと、何十ページももう塗られていて、
メモの欄に、病室の人らしき名前や看護士さん、実習生の方などの
名前がつづられていました。

塗り絵の隙間には、○さん(母)に出会えて、私は感動しました。この塗り絵作業に(勝手にプロジェクト化していたのでしょうか?)
参加させていただけて、どんなにうれしかったか……といったメッセージが、
看護の実習生や看護士さん、病棟内の友人によって、いくつもいくつも書かれていました。

この曼荼羅塗り絵は母の形見としてもらおうかと思ったのですが、母が旅立つとき棺の母の顔の傍らに入れさせてもらうことにしました。

母のいた病棟は病が重い人が多くて、
暗い気が立ち込めているような感じがあったのに、
きゃっきゃっとはしゃぎあう高校生たちのような
雰囲気で、塗り絵をしてよろこんでいる病棟の人々の姿と、それぞれの個性が
あらわれる色遣い、タッチなどの面白さが
今も目に焼きついています。

私も、スケッチブック一冊分、曼荼羅の絵を描き続けて、
ようやく母の死を静かに受け入れられる心境へと移っていった
気がします。

アートの力すごいですね。

病棟の空気を一新したアートの力が、子どもたちの心に
変化を起してくれないかな?
とそんな夢を抱きました。
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言葉の遅れ、人と関わる力の弱さ、叱られると笑うところが気になります 5

2016-08-23 20:47:37 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

現在は、「子どもになりきる」まなざしが

なくなりやすい環境です。

情報が多すぎるし、携帯電話やテレビやベビーカーといった

大人と子どもの間に見えない壁を作ってしまいがちな道具があふれていますから。

 

また子どもの側に、生まれたときから、

大人を不安にさせたり、挑発したり、無関心にさせたりするような

素質があった場合、いくら親御さんが良い親になりたいと考えていても、心優しい性格だったとしても、

しだいに親御さんの自信がくじかれていって、そうしたまなざしになれなくなるのも

仕方がないことです。

 

ですから、「子どもになりきる」まなざしになれない自分は

悪い……と捉えるのではなしに、

ちょっと自分の心のチャンネルを子どもサイド見方に切り替えるくらいの

気楽な気持ちで、この状態を意識的に作るようにしていると、

子どもの言葉の遅れが劇的に回復することもよくあるのです。

 

 

言葉の遅れのある子のなかには、

一方的に単語を言ったり、要求を口にすることはできるけれど、

相手からたずねられたことに返事をすることがなかなかできない子がいます。

 

★ちゃんにしても、「これなあに?」とか「じいじいは?」とたずねても、

自分に向かって何かをたずねられているということがわかっていない

様子でした。

また、たずねられたことに自分から応じていこうという

意志が感じられませんでした。

 

そんなときに、もし★ちゃんのお母さんが、完全に★ちゃんになり変わって返事をするのでもなく、

「じいじいはお外っていいなさい」と指示を出すのでもなく、

 

★ちゃんが主体であることをわかった上で、

★ちゃんになりきって、

そっと★ちゃんの身体をたずねた相手の方向に向けながら、身体そのもので言葉を受け入れる態勢を作ってあげながら、

「りーんーご」とか、

「じいじいは、えーと、どこかなどこかな、あっち」と身振りもまじえて

いっしょにお返事してあげると(最初のうちは大人だけの返事になるでしょうが)

★ちゃんが言葉を覚えていきやすいように思いました。

 

「子どもになりきる」というのは、絵本を読むシーンでも

大事です。

★ちゃんは、絵本を手にして「読んで」という素振りをします。

でも、ただ絵本の文字を読んであげるだけでは、

2ページ目に移る前にふらりとその場を去ってしまいます。

それを繰り返していると、★ちゃんのお母さんも拍子抜けして、

「~してよ」と能動的な★ちゃんの働きかけに対して、

「どうせちゃんと聞かないんでしょ」といういやいや

従うような態度で応じることになりがちです。

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言葉の遅れ、人と関わる力の弱さ、叱られると笑うところが気になります 4

2016-08-23 06:57:43 | 0~2歳児のレッスン ベビーの発達

子どもに言葉の遅れがあるとき、

その子のお母さんの子どもとの関わり方に

ちょっと気になる特徴を感じることがあります。

 

もちろん、言葉の遅れというのは

子どもの側に原因があるかもしれず、

まるで育て方が原因で言葉の遅れが起こるかのような

指摘はよくないのかもしれません。

でも、先に子どもの言葉の習得の遅れがあって、

それが原因で後から親御さんの態度が変化したものかもしれないけれど、

ひとつの共通する特徴のようなものがあるのです。

 

それはどのような特徴かというと、

「子どもになりきる」まなざしが少ないということです。

 

つまりいつも大人から、他者から……というまなざしで

子どもの動きを捉えているように見える

ということです。

 

それなら、「子どもになりきる」というのは、どのようなまなざしかというと、

たとえば、子どもが重たいものを引きずって運び始めたら、

見ている方も知らないうちにふんばって息を止めて、「よいしょ、よいしょ」と

心の中でつぶやくことってよくありますよね。

子どもがすっぱいものを口にすると、こっちまで肩をしぼめて、すっぱいときのキューッと顔の筋肉を縮めたような表情を

してしまうものです。

特に幼い子を育てている親御さんは、

本能的に子どもの姿を目で追いだけで、そうした「子どもになりきる」状態にしょっちゅう

なっていることと思います。

子どもに何かを教えるときも、

自分の身体までが勝手に動いて、言葉がただの言葉ではなくて、

「こーうしーて~こーうしーて~」と見聞きしている側のかもしだしているリズムに合わせて

提示しているのです。

それを真似ようとする幼児の動きを

今度は教えていた側が、真似ているような形で、

さまざまなことが伝えられます。

 

こうした大人の側が「子どもになりきる」形の伝達は、

幼い子が言葉や生活習慣を学んでいく上では、

必ずといっていいほど必要なものだと思います。

とても本能的で普遍的な活動だからです。

たいていの親御さんは、遊んでいるときも、

いつの間にか、子どもの目線で世界を見、子どもの感じるものを自分で感じているかのように

反応しながら、

遊びに興じています。

知らない間に、呼吸の速度まで子どもと同じになっているのです。

 

でも、言葉の遅れのある子の親御さんのなかには、

いつでも大人の立ち位置、大人のまなざし、大人の判断、大人の思考、大人の分析を

手放さないで、

とまどいながら子どもと接している方が

多々あるのです。

 

次回に続きます。

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