高等学校の学習指導要領案が発表されたが,
なかでも,外国語に関する内容が話題を呼んでいる。
英語の授業は英語で行うことを基本とするというのである。
生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,
授業を実際のコミュニケーション場面とすることが目的のようである。
学習指導要領を作っている人というのは,
どういう思考の構造をしているのか,
理解に苦しむ。
実際のコミュニケーション場面で,
日本人同士が英語で話すことなどあるはずがないのである。
日本人の英語教師がいくら英語で授業をしたとしても
(もしそれが可能であったとして),
それは,外国語コミュニケーションとは似て非なるものである。
少なくとも,
今回の英語の授業を英語で行うということが
本当に実効あるものにするためには,
英語教師は,
英語のネイティブスピーカーに限るとでもせねばなるまい。
たかだか中高あわせて3000語の単語で,
意味のあるコミュニケーションを行なわせるというのであれば,
それこそネイティブスピーカーの実力ある教師でなければ
どだい無理な話であろう。
このようになにやら不確かな
コミュニカティブイングリッシュ一辺倒への転換では,
英語の力はますます落ちていくであろう。
日本人教師が英語を教えている意味を
もう一度考え直してみるべきであろう。
幼児期から英語に触れていない者が,
英語を日本語に直す,日本語を英語に直すという訓練以外に,
いったいどのような方法で英語を理解できるようになるというのか。
欧米人であっても,自国語と外国語の間で,
同じように翻訳の訓練をするのである。
ましてや,言語体系の全く異なる日本語話者にとっては,
英語を本当に理解するためには,日本語と英語の言語体系を
相対的に把握できる力を身につける以外にないのである。
もちろん,コミュニケーション英語というものの目的が,
たまの海外旅行でちょっと使える程度とか,
挨拶できる程度でよいというのであれば,
話は別であるが。
もっとも,そもそもそれならば,
とりたてて高等学校の教科として教えるまでもないであろう。
なかでも,外国語に関する内容が話題を呼んでいる。
英語の授業は英語で行うことを基本とするというのである。
生徒が英語に触れる機会を充実するとともに,
授業を実際のコミュニケーション場面とすることが目的のようである。
学習指導要領を作っている人というのは,
どういう思考の構造をしているのか,
理解に苦しむ。
実際のコミュニケーション場面で,
日本人同士が英語で話すことなどあるはずがないのである。
日本人の英語教師がいくら英語で授業をしたとしても
(もしそれが可能であったとして),
それは,外国語コミュニケーションとは似て非なるものである。
少なくとも,
今回の英語の授業を英語で行うということが
本当に実効あるものにするためには,
英語教師は,
英語のネイティブスピーカーに限るとでもせねばなるまい。
たかだか中高あわせて3000語の単語で,
意味のあるコミュニケーションを行なわせるというのであれば,
それこそネイティブスピーカーの実力ある教師でなければ
どだい無理な話であろう。
このようになにやら不確かな
コミュニカティブイングリッシュ一辺倒への転換では,
英語の力はますます落ちていくであろう。
日本人教師が英語を教えている意味を
もう一度考え直してみるべきであろう。
幼児期から英語に触れていない者が,
英語を日本語に直す,日本語を英語に直すという訓練以外に,
いったいどのような方法で英語を理解できるようになるというのか。
欧米人であっても,自国語と外国語の間で,
同じように翻訳の訓練をするのである。
ましてや,言語体系の全く異なる日本語話者にとっては,
英語を本当に理解するためには,日本語と英語の言語体系を
相対的に把握できる力を身につける以外にないのである。
もちろん,コミュニケーション英語というものの目的が,
たまの海外旅行でちょっと使える程度とか,
挨拶できる程度でよいというのであれば,
話は別であるが。
もっとも,そもそもそれならば,
とりたてて高等学校の教科として教えるまでもないであろう。
madographosさんがお書きになる記事は、
この記事もそうですが、
現職教員の標準的な考えを代弁しているようにつねづね感じています。
私は、madographosさんがお書きになる記事の、
全部が全部に賛成というわけではありませんが、
このような、現場に腰を据えた、落ち着いた声が、
行政や、メディアや、一般の人々に、
ゆっくりではあるけれども、着実に届くように、
そして、現職教員である人とそうでない人との間に交わされる対話が、
現状よりも少しでもマシなものとなることを、願ってやみません。
英語で数学をアラブ人に教えている分際ですが、一言言わせてください。
必要は発明の母であって、日本で日本語を使っていれば会話が出来る、という状況において、英語は必要ない気がしてなりません。「英語」を必修化にする、しかもコミュニケーション重視、というのはどうも納得がいきません。会話がしたければ、英語だけの文化の国に行って生活すれば、それだけでコミュニケーションできるようになると思います。
僕は高校卒業までの段階では、英文法、英文読解、英作文と単語、熟語と、日本の伝統的な授業で結構だと思うし、現に今、役に立っています。普段日本語で考えているのだから、日本語に訳して英文を理解するのは当たり前のことだと思うし、僕はそれはそれで、「筆者の考えを理解する」ということにおいては必要だと思います。
「英語を英語で」、なんて、外国に9年住んでも、しっくりこないのに、それを日本でやろう、というのに無理があると思うのは、僕だけではないと思います。(でも、英語を使って仕事はできるものですよ。)
確かに英語が出来た方が、これからの学生の将来に選択肢を広げてくれると思うけど、全員が全員必要というわけではないと思います。会話は選択にでもして、やりたい人だけ勉強する、というのがいい気がするのですが・・・。
「英語」という教科/教材を使って、学生が「論理的に考える力」を育てるものだ、と思います。将来「役に立つ」「役に立たない」でカリキュラムを編成しているような気がして、ちょっと残念な感じがします。役に立つ勉強をしたいならば、駅前留学がよっぽどましだと思います。
まだ初任者気分が抜けない僕が意見してしまいました。すみません。
また、下手な発音の生徒同士でロールプレイング練習やデイカッションなど、皆で学び合うといった学校でした。
自分は、英語を使う機会が増えて良かった
と、思います。
日本の英語教育でも
現場の先生や子供の声に耳を傾け、世界に通ずる英語の習得システムを
確立して欲しいです。
日本人は日本語教育をという声も強いが、社会の現場の本音じゃ、結局「敬語」を身につかせろってことでしょ?結局上下関係。子供たちはそれに気づいているし、嫌がってると思う。
だから水平的な言語である英語の浸透を、子供は歓迎するが、実際の世間は嫌がってるし、政府だって本気じゃないに決まってます。今回だって標語だけで、具体的には何もしてないし。
・・・なんか愚痴めいて来た。すみませんね、先生嫌いで生きてきて、結局世間飛び出して、海外で生活してる負け犬です。でも言わしてもらうと、先生はどうしても世間の波風にさらされてしまいますから、役に立つ、立たないを問われる当然だが、それは私としても残念。しかしそれを見通してさらに先を見れば、英語の魅力と可能性を生徒に見せられるはず。その上で、先生がまだ権威を保てるかは、先生次第。そこら辺は、覚悟すべきでないでしょうか?今まで一度だって「dead poet society」のキンバリー先生みたいな人に出会えなかったが、彼こそ、私が唯一、師と呼べる人です。架空の人だけど。