報恩坊の怪しい偽作家!

 自作の小説がメインのブログです。
 尚、ブログ内全ての作品がフィクションです。
 実際のものとは異なります。

厳虎独白に思う事

2014-12-09 02:25:06 | 日記
 資格取得の為の勉強が進んでいる。
 合宿形式で行われるので、その期間はさすがに更新ができそうも無い。
 コメントでのボヤきつぶやきはもしかしたら……と思うが、何ぶん初めての参加なので、何とも言えない。

 さて、先日、顕正会員・厳虎氏のブログに、恐らくは宗門関係者と思われる書き込みがあった。
 日達上人のくだりなど、多くは管理者である厳虎氏に向けられていたものだが、一部は私に向けてのものと思われる内容があった。
 どこかの武闘派さんらしく、沖浦さんが反応しそうな内容だが、恐らく意外と沖浦さんはスルーするかもしれない。
 私は私で、どこ吹く風。
 確かに、仰ってることは正しい。
 だけれど、あくまで正論。
「この信心をしていて良かった」
 と思える何かが無ければ、盲信・狂信の類でもなければモチベーションが長続きしないのもまた事実。
 世の中、正論だけで動いているわけではないのだ。
 ただ、

>人と生まれるのが爪上の土、人の上に生まれて正法に遇うのが爪の上、さらには正法に遇って成仏できるのも爪上の土。ここでようやく魚の子多くとも魚になるは少なしの意がわかる。しかし、それはごくわずかな人

 これを見て、私は違和感を覚えた。
 これでは信心していても一部の人しか救われないという感じにしか捉えることができず、まるで小乗仏教のようだと思った。
 それとも私が五重相対や広宣流布の意味を履き違えているのだろうか?
 確かに私は(というか信徒の全員であるが)御本尊の前で誓いはした。
 誓いはしたが、信仰の姿勢は人それぞれであり、中には御僧侶方が苦笑したりする人もいるだろう。
 はっきり言って、ブログ運営が信心の糧になるとは微塵にも思っていない。
 だからはっきりとここでは、
「全て趣味でやってるだけで、信徒募集の広告ではない」
 と述べている。
 それとも、信徒の個人的な趣味にまで指導が入る宗派だったのか。

 まあ、殆どが厳虎氏に対してのコメントなので静観すべきと思うが、一部私にも言ってるように捉えられる内容があったので、ここで反論させて頂いた。
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6 コメント

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捕捉 (作者)
2014-12-09 06:30:13
件の人物も面倒くさそうだが、私もまた面倒な人間だろう。
ただ、画一的な信仰姿勢の枠に押し込もうという態度が気に入らなかっただけさ。
「何をか言わんや。そんなんだから、いつまで経っても功徳が無いのだよ」
そうかもしれない。
しかし世の中、既製の枠にピッタリはまれる人間ばかりではない。
そんな人間は成仏できないと冷たく言い放たれるのならば、そもそも誓願など必要無い。
適性試験でも受けさせて、枠にはまれる適性の者だけ入信させれば良い。
……ということになると思うが、よろしいか。
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Unknown (権兵衛)
2014-12-09 08:59:01
私にまた挑発している老人がいますが、こちらの管理人さんも触れてますので、ご利益という現象を少し書きましょう。

儒教的徳の修養と違って、因果の道という事が言われるのが、仏教です。しかしご利益という因果は善因善果という何らかの過去の因行が縁を得て発揮されることが前提になっています。
それは罰というか、よくない出来事も仏教的にはそうです。ところが、こういう法則が生きている間に発揮されない人がたまにいます。日本では戦国期の武将がこれに気がついた人達です。

悪を為しても今生に報いを得ない人がいることは、少し社会を広く見れる立場の人であれば誰でも気がつくことです。仏教の世界でも外道からこれを突かれました。

善業をなしても少しも報われないまま信仰の有無にかかわらず、一生を終わる人もいます。こういうことをどう考えるのかが問題です。部派仏教の時代にかかれた説一切有部の倶舎論という書物にこういうことの考え方が書いてあります。

この世の出来事というのは単一の因で単一の果報が現れるのではなく、多くの過去の様々な行為の要素(異熟因)が縁を得て、影響されて、多くの関連要素の結果をもたらす(異熟果)ということになっています。これが発展して華厳の重々帝網という思想が出来ました。

つまり今世で悪いことをしても結果のでない人もいるし、何ら善行を成していないのにアレよという間に成功する人もいます。これは今世で縁を得て、多くの過去の因行が熟して出た結果ということに他ならず、本人の自覚行為によるものと言えないものが殆どのようですね。

つまり人は一人で存在しているのではなく、多くの何らかの行為の集積とつながっているということです。言い換えればインターネットですね。

誰かの悪さが偶発的に地球のウラの誰か達に影響するという具合ですが、今世の善行は自分に帰ってくる場合もありますが、殆どが誰かに影響して還って来世かその次かに戻る場合もあります。

蒔いたタネは必ず生えますが、その結果の現れ方に二通りあること「等流因等流果(とうるいんとうるか)」と、「異熟因異熟果(いじゅくいんいじゅくか)」です。ご参考までに

http://homepage3.nifty.com/junsoyo/yuisiki/nukigaki/nukigaki13.htm
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Unknown (権兵衛)
2014-12-09 09:07:52
つまり、ご利益信仰というのは、現在の自分の行為が実を結んだというのは今の因行の何%かで、実は過去の誰か(自分の業の誰か)の善行が自分に還ってきている場合が殆どだということですね。

ということは、現在の自分が善行をなしてなければ、誰かに跳ね返っていくという事になります。だから今の自分がどうなのか、は未来の誰かのためにやる事も大事なことになるわけです。

つまり唯我独尊的生き方は今世でもやがて破綻しますが、来世はもっとヒドイことになる、そういう人は苦海を舐めますので、地道になことをやっていても報われないまま人生終わるという繰り返しになるわけです。六道輪廻ですね。
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権兵衛さんへ (作者)
2014-12-09 11:17:59
こんにちは。コメントありがとうございます。

御本尊信仰は、あまり関係の無い内容になってますね。
私の過去世に問題があったが故の功徳なしですか。
一体何やらかしたのやら……。
それでは今生は過去世の罰ゲームに終止し、諦めて来世に期待せよということですね。
何だか、現当二世が綺麗事に見えますな。
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Unknown (権兵衛)
2014-12-09 12:35:53
>御本尊信仰は、あまり関係の無い内容になってますね。

あ、あの。私そういう信仰はやってませんので・・すいません。

>今生は過去世の罰ゲームに終止し、諦めて来世に期待せよということですね。

そうも言っておりません、一言で言えば縁を変えることです。よく有りますよね起死回生とかどん底からの復帰とか。
これらを縁として、過去の因行が熟して発揮される場合もあります。それから繁栄のピークから落ちるのも縁が尽きるからですね。

>何だか、現当二世が綺麗事に見えますな。

ネットで見れば、それは現在から未来という意味らしいですが、インド仏教では、今何をやっているか。ですね。大体ご利益を謳う信仰は大昔から低次元なものとなっています。
畜生神のキツネや蛇、鬼・羅刹に願いを乞う明王信仰など、仏教と関係ないんですね。

自分の徳分にないものを他所から引っ張ってくると、何かがそれと相殺されます。
さて、それはなんでしょうね・・・(=o=;)?

お釈迦さんは、今生の態度は、悪いことをせず、努力精進のみを勧奨されました。諸悪莫作・衆善奉行ですね。お互い頑張りましょう。
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権兵衛さんへ (作者)
2014-12-09 13:17:46
めんどくさい人間ですいません。

教学がどれだけ大事なのかは分かりませんが、難信難解とはいえ、どうも取っ付き難くてしょうがない。
そういった意味では釈尊の教えは分かりやすくていいですね。
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