報恩坊の怪しい偽作家!

 自作の小説がメインのブログです。
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 実際のものとは異なります。

非戦主義

2012-10-29 20:30:17 | 日記
 今回はイデオロギーから外れて、信仰に目を向けてみよう。何度も申し上げてる通り、私はかつて顕正会男子部に足掛け10年所属し、日蓮正宗法華講には1年ほど所属した。今は無所属である。再び信心を取り戻して、どこかのお寺に所属し直すことを“勧誡”というのだが、今の私にはそれほどの信心は持ち合わせていない。
 世間一般の日本人から見て、宗教とは心の拠り所の1つと考えている人が多いだろう。日蓮正宗や顕正会以外の宗教なら、それでいいかもしれない。私の母方の家が曹洞宗、父方が真言宗、そこに神道が混じる神仏習合だが、どれも心の拠り所としての宗教としての良さを持っている。特に私の場合は、お寺よりも神社の方に慣れ親しんでいたことから、國學院大學への進学すら考えたことがある。結局は断念したが、もし決断していたら、顕正会に縁することはなかっただろう。ここで1つ、人生の道をミスリードされたようなものだ。
 私は創価学会畑は歩いたことはないので言及できないが、日蓮正宗と顕正会では“誓願”という数字が付いて回る。特に顕正会に至っては法戦と称し、上を下への大騒ぎするほどの信者獲得キャンペーンが繰り広げられている。私も尻を叩き、叩かれしていた。それだから、顕正会は往々にして日蓮正宗宗門を「折伏精神が無い」とバカにしたような言い方をするが、何をか言わんやと。そっちもそっちで、それなりに凄いものがある。確かに激戦を潜り抜けた顕正会の精鋭は、宗門のやり方が緩くて楽に思う者もいるかもしれないが、私の場合は、ようやく戦いから逃げ出せたかと思ったら、また誓願という数字が付いて回ってきて、うんざりであった。見方を変えれば、それで脱落したかのように言えるかもしれない。ま、私の場合は他に理由があるのだが。
 宗門は平成27年度と33年度に向けて、大きな誓願を掲げている。信心興盛の信徒達は、気合いを入れて誓願達成に向けて活発に動いているようだ。信心のカケラでもあれば、どことなく微笑ましく感じるものだが、私には重荷に感じている。ここで勧誡して、誓願の数字に組み込まれるのが物凄く嫌である。何故、心の拠り所としての安穏とした信仰ができないのだろう?顕正会の浅井会長は旧・妙信講時代、他の法華講員達を「墓檀家程度の信心しか無い者達」と揶揄していたが、墓檀家程度の信心ではダメなのか。
 こんな状態では、とても勧誡できないね。自分のことだけで精一杯なのに、とてもとても、「元顕正会員なんだから、現役顕正会員を救っていこう!」なんてムリムリ。まず自分の信仰を固めることが先。それをせずにその言葉に踊らされたもんだから、失敗したとも言える。何年かかっても、確固たる信心を築いてから。折伏はそれから。今の宗門や顕正会では、この考えは受け入れられないだろう。
コメント
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