日々の暮らしに輝きを!

since 2011
俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~紫陽花の句~ (12)

2015年08月17日 | 俳人杉田久女(考)

大正9(1920)夏に父の納骨のため信州松本に行き、そこで病を得しばらく療養、その後東京の実家に戻り入退院を繰り返し、その間に離婚問題がおきるという成り行きですが、信州では珠玉の句がこぼれ落ちました。

        「紫陽花に 秋冷いたる 信濃かな」

この句は久女の代表作と言われているものの一つです。普通は梅雨の頃に咲くアジサイですが、春の訪れが遅く夏も短い信州では、咲いたあとの花が立ち枯れず、長くその風情を保つのだそうです。そんな情景を詠った句だと思います。

秋の冷気の中でそんなアジサイに出会った久女は感動したことでしょう。ゆるみがなく骨格のしっかりした名吟だと言われています。切れ字の「かな」が全体を引き締めていますね。

私はこの紫陽花の句が、数ある久女の句の中で一番好きです。何故か〈久女伝説〉などというおかしな噂や話題が残る久女ですが、彼女本来の自信に満ちた落ち着きと
凛とした風情が感じられ、信州の秋の冷気が伝わって来る気がします。

松本市の城山公園に、この句の句碑が建っているそうです。残念ながら私はまだ目にしていませんが、いつの日か必ずこの句碑の前に立ちたいと思います。
<城山公園の句碑>

(上の写真はネットよりお借りしました)

にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)







 


俳人杉田久女(考) ~離婚問題~ (11)

2015年08月16日 | 俳人杉田久女(考)

大正9(1920)8月には、前々年に亡くなった実父(赤堀廉蔵)の墓碑建立納骨式の為、父の故郷信州松本に兄弟縁者が集まり、久女夫婦も行事に参加しました。この時久女は松本で腎臓病を発病、そこでしばらく療養その後東京に戻り入院治療になりました。この頃こんな句を詠んでいます。まだ夫婦の間柄は最悪とまではいっていないように思われます。
      
      「言葉少なく 別れし夫婦 秋の宵」

      「栗むくや 夜行にて発つ 夫淋し」

久女の長女昌子さんは、年譜に〈大正8、9年頃は句作好調だったが、父の納骨に行き病を得、実家に帰ったのを機に離婚問題がおきた。小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えていた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、自分にはおとなしい静かな印象しか残っていない。〉と書いておられます。

病を得、東京の実家で入退院を繰り返す間に小倉での日常を距離をおいて眺めれば、その日々は耐えがたいものに思われたのでしょう。久女の母は、宇内が俳句まで気に入らないことや娘の小倉での実生活を知り、宇内に離婚を申し入れたようです。

これに対し、夫、宇内は教職にある身にとって離婚は繕いがきかない大きな破綻であると思ったようで、どうしても別れないという強硬な意思を示し、「帰らねば家に火を付けて死んでしまう」と伝えたようです。

久女が実家で療養していた時期、宇内も小倉で痔のため入院していたらしく、長女昌子さんは宇内の実家に預けられ、次女光子さんは久女と共に久女の実家に、家族が三か所に別れ住むことになりました。

      「虫鳴くや 三とこに別れ 病む親子」

入院時を詠んだ句は多いのですが、二つほどあげてみましょう。

      「面痩せて 束ね巻く髪 秋袷」

      「病める手の 爪美しや 秋海棠」

この時の久女の療養の費用は宇内の収入からはねん出できず、結局久女の実家に面倒をみてもらうことになったようです。この時のことでしょうか、久女はこんな句も作っています。

              「山茶花や 病みつゝ思う 金のこと」

これが発端で久女の実家と杉田家が感情の行き違いをみたのかもしれません。周りに可愛がられて豊かに成長し結婚させた娘が、生活に疲れ果てたというかたちで病んでいるのを見て、親兄姉は久女を不憫に思ったでしょうし、宇内が俳句修行を快く思わない、許さないという事も腹立たしく映ったでしょう。
 


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)




 

 


俳人杉田久女(考) ~俳句づけの日々~ (10) 

2015年08月13日 | 俳人杉田久女(考)

大正8、9年の杉田久女は夫との齟齬に悩みながらも俳句に心を奪われ作句に没頭し、また文章も書き、合間に手短かに家事をするという日常だったのではと思われます。

そして『ホトトギス』雑詠欄でも毎月数句が掲載されるまでになっていて、それらの句は俳句を初めて4、5年の人の作品とは思えない位、完成度が高いと言われています。〈東の長谷川かな女、西の杉田久女〉と言われる様になったのもこの頃で、久女の名は中央でも知られる様になりました。

多くの男性俳人をしのいで毎月『ホトトギス』雑詠欄に自分の俳句が掲載される事は、久女の自尊心を満足させ自信を深めるに十分で彼女は一層努力し、ますます俳句にのめり込んで行ったのでしょう。

大正9年も忙しく、俳誌『天の川』の新しい企画「九州婦人俳句十句集」の幹事をしていたのですが、次に書くように信州で病を得、彼女ほど面倒見のよい幹事が他にいなかったらしく、この企画は立ち消えになった様です。

この辺の事情を、〈久女はこうした縁の下の力持ち的な仕事を嫌がらずにやっている。ここにも俗説の久女像とは違った誠実味のある久女の実像が現れてくるのである〉としている研究書も多々あるようです。とにかく久女は頼まれて引き受けたら最後、自分が納得するまで頑張るというまじめ一途の人であったらしく思われます。

この年(大正9年)には随筆「竜眼の樹に棲む人々」「私の知っている楠目さん」などを書き、病床で「病院の秋」を書きました。

 にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)

 

 

 
 


柳田選手、奇跡の逆転サヨナラ3ラン

2015年08月11日 | お出かけ

ヤフオクドームでソフトバンクvsオリックス戦を観戦

今日のゲームはすごかった

ソフトバンクの先発、スタンリッチは調子が悪く

5回までに5失点

ソフトバンクは5回裏までに松田、イデホのホームランの2点のみ

なので、5回が終わって5:2

更に8回にオリックスの岩崎にライトスタンドに運ばれて6:2

6:2になった時点で敗色濃厚に

観客もぞろぞろと帰りだした

ところが、9回表に登板した巽投手、3人でピシッと抑え

迎えた9回裏、中村の適時打で2点差に迫り

なおも、2アウトながら2死一、二塁のチャンス

打順が3番の柳田に回って来て、高めのボールを振りぬき

ライト観客席に入る3ランホーマー

土壇場の逆転劇に興奮さめやらぬドーム内はしばらく歓喜の渦に

<歓喜のライトスタンド>

柳田選手はあの場面で打てるとは本当に力が付いたのだと思う

<ギータのヒーローインタビュー>

巽投手は嬉しいプロ初勝利

優勝マジックは2つ減って33に

ホークスファンとしては笑いが止まらない


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)

 

 






 


俳人杉田久女(考) ~花衣の句~ (9)

2015年08月08日 | 俳人杉田久女(考)

杉田久女の俳句習作時代と呼べる期間は短く、俳句を始めてまだ4年目の大正8(1919)年に、初期の代表作と言われ人々によく知られた

      「花衣 ぬぐや纏わる 紐いろいろ」

が誕生しています。この句は大正8(1919)の『ホトトギス』6月号雑詠三席に入選した6句中の1句なのだそうです。8月号の「俳談会」の最初にこの句が取り上げられ、虚子や内藤鳴雪が句評をしています。

虚子の句評をみると、〈この句は女が花見に着た着物をぬぐ時の状態で、花を見る華やかな心持ちと一致して、まとわりつく色々の紐を興がり喜ぶのである〉〈こんな事実は女でなければ経験しがたいものでもあるし、観察しがたいところのものでもある。即ち此の句の如きは女の句として男子の模倣を許さぬ特別の位置に立っているものとして、
認める次第である〉として高い評価を与えています。

現在、この句の句碑が当時久女が住んでいた家にほど近い、小倉北区の堺町公園に建てられています。
<花衣の句碑>

この句が誕生した頃、夫宇内の勤務する(旧)小倉中学の生徒の間では〈バネさんは家庭的に不遇なんだそうだ〉という噂が流れていた(バネさんというのは杉田宇内のあだ名)。さらに尾ひれが付いて、〈杉田先生は子供を連れて夕方の買い物に行っているとの評判もたっていた。生徒達はバネ先生を気の毒に思い、夫人に強い義憤を感じた〉と、これは久女関連の書物によくみられる記述です。そして、そのほとんどの書物で、これはその後しばしば現れてくる、いわゆる〈久女伝説〉の一典型だとしています。


にほんブログ村 シニア日記ブログ 60歳代へ にほんブログ村 ポエムブログ 俳句へ⇐クリックよろしく~(^-^)