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俳人杉田久女(考)、旅行記&つれづれ記、お出かけ記など。

俳人杉田久女(考) ~離婚問題~ (11)

2015年08月16日 | 俳人杉田久女(考)

大正9(1920)8月には、前々年に亡くなった実父(赤堀廉蔵)の墓碑建立納骨式の為、父の故郷信州松本に兄弟縁者が集まり、久女夫婦も行事に参加しました。この時久女は松本で腎臓病を発病、そこでしばらく療養その後東京に戻り入院治療になりました。この頃こんな句を詠んでいます。まだ夫婦の間柄は最悪とまではいっていないように思われます。
      
      「言葉少なく 別れし夫婦 秋の宵」

      「栗むくや 夜行にて発つ 夫淋し」

久女の長女昌子さんは、年譜に〈大正8、9年頃は句作好調だったが、父の納骨に行き病を得、実家に帰ったのを機に離婚問題がおきた。小倉での生活が痛ましすぎると実家では考えていた。旅暮らしの家庭生活に波風が多く、二十代は泣いて暮らしたと久女はよく言ったが、自分にはおとなしい静かな印象しか残っていない。〉と書いておられます。

病を得、東京の実家で入退院を繰り返す間に小倉での日常を距離をおいて眺めれば、その日々は耐えがたいものに思われたのでしょう。久女の母は、宇内が俳句まで気に入らないことや娘の小倉での実生活を知り、宇内に離婚を申し入れたようです。

これに対し、夫、宇内は教職にある身にとって離婚は繕いがきかない大きな破綻であると思ったようで、どうしても別れないという強硬な意思を示し、「帰らねば家に火を付けて死んでしまう」と伝えたようです。

久女が実家で療養していた時期、宇内も小倉で痔のため入院していたらしく、長女昌子さんは宇内の実家に預けられ、次女光子さんは久女と共に久女の実家に、家族が三か所に別れ住むことになりました。

      「虫鳴くや 三とこに別れ 病む親子」

入院時を詠んだ句は多いのですが、二つほどあげてみましょう。

      「面痩せて 束ね巻く髪 秋袷」

      「病める手の 爪美しや 秋海棠」

この時の久女の療養の費用は宇内の収入からはねん出できず、結局久女の実家に面倒をみてもらうことになったようです。この時のことでしょうか、久女はこんな句も作っています。

              「山茶花や 病みつゝ思う 金のこと」

これが発端で久女の実家と杉田家が感情の行き違いをみたのかもしれません。周りに可愛がられて豊かに成長し結婚させた娘が、生活に疲れ果てたというかたちで病んでいるのを見て、親兄姉は久女を不憫に思ったでしょうし、宇内が俳句修行を快く思わない、許さないという事も腹立たしく映ったでしょう。
 


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