大正8、9年の杉田久女は夫との齟齬に悩みながらも俳句に心を奪われ作句に没頭し、また文章も書き、合間に手短かに家事をするという日常だったのではと思われます。
そして『ホトトギス』雑詠欄でも毎月数句が掲載されるまでになっていて、それらの句は俳句を初めて4、5年の人の作品とは思えない位、完成度が高いと言われています。〈東の長谷川かな女、西の杉田久女〉と言われる様になったのもこの頃で、久女の名は中央でも知られる様になりました。
多くの男性俳人をしのいで毎月『ホトトギス』雑詠欄に自分の俳句が掲載される事は、久女の自尊心を満足させ自信を深めるに十分で彼女は一層努力し、ますます俳句にのめり込んで行ったのでしょう。
大正9年も忙しく、俳誌『天の川』の新しい企画「九州婦人俳句十句集」の幹事をしていたのですが、次に書くように信州で病を得、彼女ほど面倒見のよい幹事が他にいなかったらしく、この企画は立ち消えになった様です。
この辺の事情を、〈久女はこうした縁の下の力持ち的な仕事を嫌がらずにやっている。ここにも俗説の久女像とは違った誠実味のある久女の実像が現れてくるのである〉としている研究書も多々あるようです。とにかく久女は頼まれて引き受けたら最後、自分が納得するまで頑張るというまじめ一途の人であったらしく思われます。
この年(大正9年)には随筆「竜眼の樹に棲む人々」「私の知っている楠目さん」などを書き、病床で「病院の秋」を書きました。