「ふるさとの四季」に出てくる唱歌を歌って、私が思い浮かべる風景はみな朝鮮の風景である。幼稚園から国民学校5年生までを朝鮮で過ごし、それより幼かった頃は風景の記憶なんてないから、当然のことといえる。
「春の小川」で浮かんでくる光景には学校からの遠足で出会った。遙かかなたまで広がる草原一面にレンゲが咲いている。そして岸辺のスミレ。水の流れに水草が揺れ動き光がキラキラ動く。よく目をこらすと小さな魚が流れに逆らうかのように動かずに立ち止まっている。静寂の中、チャラチャラと音が拡がる。
夢かうつつか、しかしこれが私の心象風景なのである。
京城を流れる大きな河は漢江。その支流であろうか船に分乗して川遊びをした記憶がある。父の勤務する会社の催すいろいろな行事に、私はよく連れて行って貰った。大きな鍋で豚汁を作って鱈腹食べたこと。砂糖代わりに蜂蜜を使ったおぜんざいの美味しかったこと。今も思い出すと父の温もりを感じる。。
その時だったかどうか、記念写真がある。父が趣味のカメラで三脚を使ってで撮ったのであろう。向かって一番右端の立っている国民服姿が父でその反対側、左端の制帽姿が私である。国民学校2年か3年ではなかっただろうか。女性は最前列に、朝鮮服姿も一緒に並んでいる。朝鮮人に和服までを押し付けたのではないことが分かって嬉しい。
「春の小川」で連想するのが飛行場。遙か彼方まで広がる草原が飛行場の延長であったのかもしれない。その飛行場で催された戦闘機の献納式に父に連れられて行ったことがある。父の勤務する会社が戦闘機「鍾馗」を献納したのであった。天幕の下の椅子にちょこんと座っていた記憶がある。
戦前・戦中の日本では、企業や国民の国防献金により製造され、軍隊に献納された軍用機を献納機と呼んでいた。戦後生まれの方であるが、奇特にも献納機の実体を調査されて、ウエブサイトに「陸軍愛国号献納機調査報告」を掲載されている。奇しくもその中に番号が1704、機体名「鐘紡朝鮮」なる一式戦が献納された記録がある。日時の記載はないが、その前後の記録から推測するに昭和18年秋頃のようである。私は国民学校3年生。一式戦といえばかの有名な戦闘機「隼」で、「鍾馗」だと思いこんでいた私の記憶とは異なる。献納式では何機か飛行機が並んでいたが、この記録には収録されていないので、「鍾馗」はその中に含まれるのかもしれない。
ついでながらこの記録によると、昔も愛国心鼓舞の権化であった「朝日新聞」が率先して献納機への献金を呼びかけて、多大なる実績を残したことがよく分かる。それにしても、このように地道な資料を収集されている方へ心からの敬意を捧げたい。
話が逸れてしまったが、ことほどさように、私の子供の頃の思いではすべて『朝鮮』にある。その意味では『朝鮮』が私の「故郷」なのである。私にとってこれが歴史的事実であるので、この思いは私の心の中で微動だにしない。
だからこそ、私には長年にわたり心に葛藤があった。
「春の小川」で浮かんでくる光景には学校からの遠足で出会った。遙かかなたまで広がる草原一面にレンゲが咲いている。そして岸辺のスミレ。水の流れに水草が揺れ動き光がキラキラ動く。よく目をこらすと小さな魚が流れに逆らうかのように動かずに立ち止まっている。静寂の中、チャラチャラと音が拡がる。
夢かうつつか、しかしこれが私の心象風景なのである。
京城を流れる大きな河は漢江。その支流であろうか船に分乗して川遊びをした記憶がある。父の勤務する会社の催すいろいろな行事に、私はよく連れて行って貰った。大きな鍋で豚汁を作って鱈腹食べたこと。砂糖代わりに蜂蜜を使ったおぜんざいの美味しかったこと。今も思い出すと父の温もりを感じる。。
その時だったかどうか、記念写真がある。父が趣味のカメラで三脚を使ってで撮ったのであろう。向かって一番右端の立っている国民服姿が父でその反対側、左端の制帽姿が私である。国民学校2年か3年ではなかっただろうか。女性は最前列に、朝鮮服姿も一緒に並んでいる。朝鮮人に和服までを押し付けたのではないことが分かって嬉しい。
「春の小川」で連想するのが飛行場。遙か彼方まで広がる草原が飛行場の延長であったのかもしれない。その飛行場で催された戦闘機の献納式に父に連れられて行ったことがある。父の勤務する会社が戦闘機「鍾馗」を献納したのであった。天幕の下の椅子にちょこんと座っていた記憶がある。
戦前・戦中の日本では、企業や国民の国防献金により製造され、軍隊に献納された軍用機を献納機と呼んでいた。戦後生まれの方であるが、奇特にも献納機の実体を調査されて、ウエブサイトに「陸軍愛国号献納機調査報告」を掲載されている。奇しくもその中に番号が1704、機体名「鐘紡朝鮮」なる一式戦が献納された記録がある。日時の記載はないが、その前後の記録から推測するに昭和18年秋頃のようである。私は国民学校3年生。一式戦といえばかの有名な戦闘機「隼」で、「鍾馗」だと思いこんでいた私の記憶とは異なる。献納式では何機か飛行機が並んでいたが、この記録には収録されていないので、「鍾馗」はその中に含まれるのかもしれない。
ついでながらこの記録によると、昔も愛国心鼓舞の権化であった「朝日新聞」が率先して献納機への献金を呼びかけて、多大なる実績を残したことがよく分かる。それにしても、このように地道な資料を収集されている方へ心からの敬意を捧げたい。
話が逸れてしまったが、ことほどさように、私の子供の頃の思いではすべて『朝鮮』にある。その意味では『朝鮮』が私の「故郷」なのである。私にとってこれが歴史的事実であるので、この思いは私の心の中で微動だにしない。
だからこそ、私には長年にわたり心に葛藤があった。