日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

名張毒ぶどう酒事件と農薬鑑定に使われたペーパー分配クロマトグラフィー

2010-04-07 14:20:07 | 学問・教育・研究

今日の朝日朝刊第一面の見出しである。そういえば昔そんな事件があったな、という程度の認識であるが、第三面にも関連記事が出ており、この事件でもブドウ酒に混入したとされる農薬の鑑定結果を巡り問題点のあることが指摘されている。ところがこの朝日の記事ではその問題点がもうひとつはっきりと浮かび上がってこない。


「名張毒ブドウ酒事件の毒物をめぐる鑑定の情況」として問題となる鑑定結果が図示されている。②が『犯行現場に残されたブドウ酒(鑑定は事件の2日後)』で①が『「ニッカリンT」を入れたばかりのブドウ酒(事件時を想定)』である。記事ではさらに『1961年の捜査側鑑定では、ブドウ酒に農薬「ニッカリンT」を混ぜて再現したもの』とあるが、この農薬「ニッカリンT」の出所がこれでは分からない。いずれにせよ、両者が見かけ上異なるものであることはこの図で分かる。ところがこのように見かけ上、明らかに異なる結果が得られたにもかかわらず、検察側は両者は同じ物質であるが、実験条件によりあたかも異なるもののように現れた、と主張したようである。

このように朝日の記事を読んだだけでは、①と②が仮に同じ農薬に由来するとして、なぜそれが奥西勝さんの犯罪行為の実証になるのかが分からない。その点、夕べのNHKニュースでは、①の農薬が奥西さんの家から発見されたと言っていた(所持していた?)ようなので、この前提があって農薬の同定が重要な意味を持つことが分かる。さらに朝日は農薬の分析手段については触れていないが、NHKニュースではペーパークロマトグラフィーと伝えていた。調べてみると名張毒ぶどう酒事件 奥西さんを守る東京の会に、三重県衛生研究所が行ったとされるペーパークロマトグラフィーの検査結果を掲載している。どのような情況でなされたのかは分からないが、少なくとも捜査当局側が行ったのではないように思われる。この図の(1)(2)が朝日図解の②と①に対応すると見てよいだろう。


ところでペーパークロマトグラフィーは正しくはペーパー分配クロマトグラフィーと呼ばれるが、濾(ロ)紙を用いた分配クロマトグラフィーで、やり方としては短冊状の濾紙の一端近くに試料溶液をスポット状もしくは線状につけ、密閉容器内で濾紙を上から吊して試料側の下端を適当な展開液に浸す。すると毛管現象の原理で展開液が上昇していき、試料が複数成分の場合、試料も溶液とともに上昇するが、それぞれの物理化学的性質に応じて分離するものは分離していく。溶液の先端が濾紙の上端に近づいたところで展開を止め、適当な手段でそれぞれの成分を検出して原点と先端の間隔100に対してどの位置に出るかで成分の同定をする。

奥西さんが所有していたとされる農薬と『犯行現場に残されたブドウ酒(鑑定は事件の2日後)』に含まれていた農薬が図解のように異なったクロマトグラム(クロマトグラフィーの結果、濾紙上に現れた一連の着色スポットのこと)を与えるのであれば、明らかに両者は異なると言える。同じ筈であったものが異なったクロマトグラムを与えたというのであれば、科学的にその違いを説明できなければならず、説明できないのであれば同一との主張に科学的根拠がないことになる。形勢としては同一との主張の根拠が薄弱のように私には思われるが、差し戻し審での審議を注目したいと思う。願わくば科学的な素養にも富む裁判官の審議を期待したい。

ところでこのペーパー分配クロマトグラフィーという分析手段を私もかった用いたことがある。膜蛋白と水溶性蛋白が複合体を作ることを証明するためにこの手段を導入したのである。それもこのと起こりは高校のクラブ活動で化学研究部に入っていて、文化祭でのデモンストレーションにようやく日本でも注目されるようになったこの手法を取り入れて、色素の分離に用いたことにあった。濾紙一枚あれば出来たのである。その直後だったか、「分配クロマトグラフィーの開発と物質の分離、分析への応用」でJ.P.MartinとR.L.M.Syngeが1952年のノーベル化学賞を受賞したのである。高校時代に経験したその手法をタンパク分子同士の相互作用の分析に導入したものだから、その当時、世界で最初の適用例と自負したものであった。この実験結果などを論文にまとめて学会英文誌に投稿したのが1961年11月27日。名張毒ぶどう酒事件が発生したのが1961年3月28日というから、多分ほぼ同じ頃に警察と私がペーパー分配クロマトグラフィーに取り組んでいたのであろう。不思議な因縁話である。ちなみに、この論文は私がはじめて筆頭著者となったもので、大学院博士課程在学中であった。ごそごそと探したらその論文が出てきたので、そのクロマトグラムをご覧に入れることにする。