伊藤ハム「シアン問題」調査対策委員会の報告書は出たもののの続きである。
伊藤ハムが公開した「シアン問題」調査対策委員会の報告書の第一ページに《調査対策委員会の最終的な報告書は、別途作成し後日報告する》とあるので、一昨日(12月9日)私がこの報告書に目を通して感じたいくつかの問題点が最終報告書で解き明かされることを期待している。従ってこれから述べるように、シアンの異常値が検出されてからの状況にあれこれと想像を巡らすのは、私の頭の体操のようなものだとお心得頂きたい。ここで伊藤ハムの公表したシアン異常値の全てを再掲する。
9月18日 2号井戸処理水 0.022 mg-CN/L
9月25日 2号井戸処理水 0.034 mg-CN/L
10月3日 3号井戸処理水 0.014 mg-CN/L
10月7日 2号井戸原水 0.037 mg-CN/L
分析は一昨日も述べたように外部の分析機関に外注したもとして話を進めるが、この日時は採水時のものだろうから結果が判明するのは早くても数日後であろう。かって私どもの教室が医学部構内排水の水質検査を全面的に引き受けていたが、その日の内に結果を出していたものである。
9月18日の異常値が伊藤ハムに通知された時に、伊藤ハムの担当者はまずどのように反応したのだろう。この時点で分析機関、伊藤ハムともどもこれが異常値であると認識していたのだろうか。もし異常値と認識したのであれば、40年この方初めてのことなので、慌てふためいたのではなかろうか。分析機関に「絶対に間違いはないのか?」と念を押したであろうし、当然再検査を考えるであろう。しかし異常との認識がなかったのかも知れないし、また異常ではあるけれど何かの間違いかも知れない、もう少し様子を見ようと静観したかも知れない。最終報告書はこの辺の事情も報じるべきであろう。
9月25日にも異常値が出た。おかしいけれど原水は大丈夫である。とすると原水の処理過程に問題があったのかもしれないとは思いつつも、「治にいて乱を忘れ」、なかなか迅速な対応に移れない。しかし10月7日には、9月18日時点では問題のなかった2号井戸の原水にこれまで最高の異常値が検出されたのだから、いくら腰が重くとも何らかの動きが欲しいところである。現実には2号井戸を原水とした水道施設の運転を停止したのは報告書では10月下旬となっている。最初に異常が観測されてからほぼ1ヶ月もの間、異常値に対応する積極的な処置が取られていなかったことになる。しかしまったく何もしなかったとは私には思われない。現場の技術者の技術者魂を信頼するからである。いずれかの段階で必ずや再検査を行ったとのではないかと私は思いたい。
ここで私は想像を逞しくするのであるが、再検査でちぐはぐの結果が出て新たな混乱が生じたのではなかろうか。極端な場合として再検査では異常値が再現されずにすべてが正常であった可能性もありうる。そうだとすると伊藤ハム側でも対応に苦慮することになる。再検査の結果では井戸水原水、処理水ともに正常なんだから、以前の異常値の方がおかしいのであって、わざわざその疑わしい異常値を公表することもないのではないか、との意見が当然出てくるだろう。一方、結果的には異常ではなかったものの、異常値が報告されたのは事実であるし、なぜ異常値が出たのかその原因がはっきりしない限り、それを押し隠して万が一バレた時は、世間に実害を及ぼさなくても報告を怠ったと言うだけでも直ぐに袋叩きされるご時世だから、やはり公表すべきだとの意見がせめぎ合ったのではなかろうか。最終報告がこのような微妙な問題にまで触れるとは考えにくいので、あえて私の想像力を働かせたまでのことである。
では私がなぜ極端な場合として再検査では異常値が再現されずにすべてが正常であった可能性もありうると想像したかというと、私のある個人的な経験があったからで、そのお話をしなければならなくなる。やや専門めいた事柄なのであるが、できるだけかみ砕いて話を進めることにするが、ややこしいのはまっぴらご免と仰る方は、下の両手に花の写真だけをご覧あれ。
この問題では「シアン」と世間に報道されているので私もそれに倣ったが、化学的には「シアン化物」とか「シアンイオン」と言うのが正しい。また「シアンイオン」を含む物質の総称として「シアン化合物」も使われる。「シアン化物」の代表的なものが劇薬として知られるシアン化カリウムで、世間によく知られている青酸カリはその俗称である。致死量は0.15gで数秒間で死ぬと言われている。なお青酸とはシアン化水素のことである。Yahoo百科事典は「青酸中毒」を《青酸および青酸塩は体内吸収が速く、皮膚からの侵入については汗で吸収が助長され、傷口があればいっそう危険性が高まる。生体内での作用は、シアンイオンが細胞呼吸酵素のチトクロムオキシダーゼを抑制して組織呼吸を阻害するため、組織は動脈血から酸素を摂取できなくなり窒息状態に陥る。》(強調は引用者)と説明している(ちなみに、私の手元にある平凡社発行「世界百科大事典」(初版)の「青酸中毒」についての説明は正しくない)。
推理小説などに出てくる青酸中毒死の死体は皮膚が紅潮しているようだが、私は実見したことがない。思うにオキシヘモグロビンと言って、酸素を結合したヘモグロビンのなせる技なのであろうか。オキシヘモグロビンは鮮紅色なのである。ふつうなら心臓から出て動脈を通り身体の隅々まで運ばれたオキシヘモグロビンは、毛細血管を通っている間に酸素を離して同時に淡い赤色になり、静脈を通って心臓に戻る。この遊離された酸素が呼吸酵素に使われて水になる間に、私どもが生きていく上に欠かせないATPと言うエネルギーの源が作られるのである。ところが青酸中毒ではシアンイオンがこの呼吸酵素と強く結合するものだからこの酵素がもはや酸素を利用できなくなり、オキシヘモグロビンが酸素を離す必要がなくなる。そうすると身体中で鮮紅色のオキシヘモグロビンが充満するものだから、当然外見の色合いが変わって見えることになる。このように青酸は呼吸酵素を失活させてしまう猛毒なのである。
実を申せばこの呼吸酵素は私にはお馴染みの酵素なのであって、青酸がどのようにこの酵素と結合してその働きを止めてしまうのかについて先駆的な説を出したと思っている。多分今でも生き残っている筈である。そのような仕事をしている時に、米国の研究仲間の一人である女性教授から面白い話を聞いたのである。この分野では私より遙かに先輩である彼女が、もう半世紀も前のことになるが、この酵素の基質濃度と活性の関係が酵素反応一般に知られている関係に従わない新しいタイプであることを発見して、そのプロットを論文に発表したことがる。その頃は名前を知るだけであったが、私が自分の論文でそのユニークなプロットを彼女とその共同研究者の名前を取りS-C Plotと名づけて紹介したことがきっかけとなり、その後顔を合わせるとあれやこれや気楽に話し合う間柄になっていたのである。下の写真の向かって右が米国Dartmouth Medical School生化学教授(当時)の彼女で、左がそのお弟子さんで件の共同研究者、これはおよそ30年前の写真である。

閑話休題、その彼女がある内輪話をしてくれたのである。研究室で何人かのポスドクが呼吸酵素の活性を日常的に測定しているのだが、あるポスドクが活性を測定すると他のポスドクにくらべてその値がいつもかなり低い。同じ酵素標品を使っているにもかかわらず、である。どうも解せないので彼女が原因を調べたところ、思いがけないことが分かった、何だと思う?と聞く。私は首を横に振った。そのポスドクがヘビースモーカーで、ところかまわず煙をふかす。その煙に青酸が含まれていて、どういう経緯かこの青酸が反応溶液に溶け込み、酵素活性を阻害していたと言うのである。今でこそたばこの煙に青酸ガスが含まれていることを、たとえばカナダ政府などは大々的に宣伝に努めている。しかしその当時は私にとっても新知識であった。
われわれが消費する酸素の90%以上が呼吸酵素に使われる。口から体内に入った食物は消化されてだんだんと小さな分子になり、最後には二酸化炭素と水になってしまうが、その水を作るのが呼吸酵素なのである。酸素が水に還元されるのには電子が必要であるが、その電子を供給するのが食物由来の小分子である。細胞内では還元型のチトクロムCが呼吸酵素に直接電子を渡す。
かっての生化学者は酵素を精製するのが得意で、私も牛心臓の筋肉から呼吸酵素やチトクロムCを自分で精製していた。それぞれ単独の成分としてきれいにするのである。そうすると元来は生体内の反応を試験管の中で起こさせることが出来るようになる。チトクロムCを化学的還元剤で還元して余分の還元剤を除き、これにほんの微量の呼吸酵素を加えると還元型チトクロムCが酸化されて酸素が水になる。還元型チトクロムCはある特定の波長に強い吸収帯を持つが、それが酸化されるにつれて弱くなる。だからその吸収帯の強さの時間変化を分光光度計を使って自動測定してこの酵素の活性を決めるのである。
分光光度計には試料室と言って、反応を起こさせる容器をセットする狭い空間がある。容器とは普通石英ガラスで出来た底面が1センチ四方で高さが4センチほどのキュベットと呼ぶ柱状の容れ物である。これにあらかじめ還元型チトクロムCの溶液を入れておき、そのたとえば400分の1容量の酵素液を素早く加えて反応を開始させる。そのキュベットには吸収帯の強度変化をモニターする観測光が当たっており、測定の最中に外光が入らないよう試料室には蓋が付いている。必要な操作をする時だけ蓋を開閉するのである。青酸が酵素活性をどのように阻害するのかを知りたければ、濃度が分かるように青酸を反応溶液に加えて、吸収帯の強度変化がどの程度遅くなるのかを測定する。
青酸がきわめて扱いにくい物質であることはすでに知っていた。白色結晶の青酸カリは水に簡単に溶けて強いアルカリ性の溶液になる。時にはこれを塩酸で中和するが、この操作はかならず排気の良いドラフト内で行った。酸を少しでも過剰に加えると直ちに揮発性の高い青酸ガスが溶液から飛び出して、それを吸うと危険だからである。青酸ガスは揮発性が高いから空気中を飛び回る一方、また水にも、とくにpHが高いとよく溶け込む。「たばこの煙事件」の話を聞いた後では、青酸を用いる実験ではキュベットには必ず蓋をして青酸の予期せざる出入りを防ぐようになった。
ところで青酸がどの程度猛毒なのかは、ふつう酵素活性が半分になる時の青酸濃度で表す。私どもの測定ではそれがおおよそ0.026 mg-CN/Lであった。と言うことはたばこの煙が原因でこのレベルの青酸が活性測定の反応溶液に、キュベットに蓋をしていなければ、溶け込む可能性があり得ることになる。そしてこれは偶然にも上のシアン異常値と同じレベルなのである。ここまで来れば私が伊藤ハム「シアン問題」の一連の経緯から、どのようなことを想像したかはもうお分かり頂けるであろう。一番簡単に考えやすいのは分析機関でたまたま「ヘビースモーカー」が分析を行い異常値を得たのではないか、と言うことである。限られた空間で「ヘビースモーカー」と分析にかけられる直前のサンプルが共存する場合を想像すればよい。この場合、再実験したとしてその時はたばこの煙がもうもうということは先ずあるまい。いかに「ヘビースモーカー」であっても人の目を気にするだろうからである。またノンスモーカーの別人が分析したかも知れない。となると異常値はもう出てこない。
別に「ヘビースモーカー」でなくても良い。青酸ガスとの接触を疑わせるような状況に分析直前のサンプルが置かれた可能性があったのかなかったのか、それを明らかにすることが必要なのである。このたびの報告書は一昨日にも指摘したように《井戸水などの地下水は良質の水資源であるが、いったん汚染されるとなかなか水質が回復しないことを鑑みると、シアンが井戸水や水道施設から連続的に検出されていないことは不可解である。また、水道の水質基準を越えるシアンが検出された場合、ただちに給水を停止すべきであったことは自明のことであるが、前述のことを考えると単純なシアン汚染とは考えにくい。》ときわめて正しい結論に至っている。だからこそ異常値の出てきた状況を完璧に調べ上げなければならないのである。
最終報告書でこの調査がなおざりにされているようでは、科学的には無価値と言わないまでも評価はきわめて低いと言わざるを得ない。関係者の奮起を期待したい。
伊藤ハムが公開した「シアン問題」調査対策委員会の報告書の第一ページに《調査対策委員会の最終的な報告書は、別途作成し後日報告する》とあるので、一昨日(12月9日)私がこの報告書に目を通して感じたいくつかの問題点が最終報告書で解き明かされることを期待している。従ってこれから述べるように、シアンの異常値が検出されてからの状況にあれこれと想像を巡らすのは、私の頭の体操のようなものだとお心得頂きたい。ここで伊藤ハムの公表したシアン異常値の全てを再掲する。
9月18日 2号井戸処理水 0.022 mg-CN/L
9月25日 2号井戸処理水 0.034 mg-CN/L
10月3日 3号井戸処理水 0.014 mg-CN/L
10月7日 2号井戸原水 0.037 mg-CN/L
分析は一昨日も述べたように外部の分析機関に外注したもとして話を進めるが、この日時は採水時のものだろうから結果が判明するのは早くても数日後であろう。かって私どもの教室が医学部構内排水の水質検査を全面的に引き受けていたが、その日の内に結果を出していたものである。
9月18日の異常値が伊藤ハムに通知された時に、伊藤ハムの担当者はまずどのように反応したのだろう。この時点で分析機関、伊藤ハムともどもこれが異常値であると認識していたのだろうか。もし異常値と認識したのであれば、40年この方初めてのことなので、慌てふためいたのではなかろうか。分析機関に「絶対に間違いはないのか?」と念を押したであろうし、当然再検査を考えるであろう。しかし異常との認識がなかったのかも知れないし、また異常ではあるけれど何かの間違いかも知れない、もう少し様子を見ようと静観したかも知れない。最終報告書はこの辺の事情も報じるべきであろう。
9月25日にも異常値が出た。おかしいけれど原水は大丈夫である。とすると原水の処理過程に問題があったのかもしれないとは思いつつも、「治にいて乱を忘れ」、なかなか迅速な対応に移れない。しかし10月7日には、9月18日時点では問題のなかった2号井戸の原水にこれまで最高の異常値が検出されたのだから、いくら腰が重くとも何らかの動きが欲しいところである。現実には2号井戸を原水とした水道施設の運転を停止したのは報告書では10月下旬となっている。最初に異常が観測されてからほぼ1ヶ月もの間、異常値に対応する積極的な処置が取られていなかったことになる。しかしまったく何もしなかったとは私には思われない。現場の技術者の技術者魂を信頼するからである。いずれかの段階で必ずや再検査を行ったとのではないかと私は思いたい。
ここで私は想像を逞しくするのであるが、再検査でちぐはぐの結果が出て新たな混乱が生じたのではなかろうか。極端な場合として再検査では異常値が再現されずにすべてが正常であった可能性もありうる。そうだとすると伊藤ハム側でも対応に苦慮することになる。再検査の結果では井戸水原水、処理水ともに正常なんだから、以前の異常値の方がおかしいのであって、わざわざその疑わしい異常値を公表することもないのではないか、との意見が当然出てくるだろう。一方、結果的には異常ではなかったものの、異常値が報告されたのは事実であるし、なぜ異常値が出たのかその原因がはっきりしない限り、それを押し隠して万が一バレた時は、世間に実害を及ぼさなくても報告を怠ったと言うだけでも直ぐに袋叩きされるご時世だから、やはり公表すべきだとの意見がせめぎ合ったのではなかろうか。最終報告がこのような微妙な問題にまで触れるとは考えにくいので、あえて私の想像力を働かせたまでのことである。
では私がなぜ極端な場合として再検査では異常値が再現されずにすべてが正常であった可能性もありうると想像したかというと、私のある個人的な経験があったからで、そのお話をしなければならなくなる。やや専門めいた事柄なのであるが、できるだけかみ砕いて話を進めることにするが、ややこしいのはまっぴらご免と仰る方は、下の両手に花の写真だけをご覧あれ。
この問題では「シアン」と世間に報道されているので私もそれに倣ったが、化学的には「シアン化物」とか「シアンイオン」と言うのが正しい。また「シアンイオン」を含む物質の総称として「シアン化合物」も使われる。「シアン化物」の代表的なものが劇薬として知られるシアン化カリウムで、世間によく知られている青酸カリはその俗称である。致死量は0.15gで数秒間で死ぬと言われている。なお青酸とはシアン化水素のことである。Yahoo百科事典は「青酸中毒」を《青酸および青酸塩は体内吸収が速く、皮膚からの侵入については汗で吸収が助長され、傷口があればいっそう危険性が高まる。生体内での作用は、シアンイオンが細胞呼吸酵素のチトクロムオキシダーゼを抑制して組織呼吸を阻害するため、組織は動脈血から酸素を摂取できなくなり窒息状態に陥る。》(強調は引用者)と説明している(ちなみに、私の手元にある平凡社発行「世界百科大事典」(初版)の「青酸中毒」についての説明は正しくない)。
推理小説などに出てくる青酸中毒死の死体は皮膚が紅潮しているようだが、私は実見したことがない。思うにオキシヘモグロビンと言って、酸素を結合したヘモグロビンのなせる技なのであろうか。オキシヘモグロビンは鮮紅色なのである。ふつうなら心臓から出て動脈を通り身体の隅々まで運ばれたオキシヘモグロビンは、毛細血管を通っている間に酸素を離して同時に淡い赤色になり、静脈を通って心臓に戻る。この遊離された酸素が呼吸酵素に使われて水になる間に、私どもが生きていく上に欠かせないATPと言うエネルギーの源が作られるのである。ところが青酸中毒ではシアンイオンがこの呼吸酵素と強く結合するものだからこの酵素がもはや酸素を利用できなくなり、オキシヘモグロビンが酸素を離す必要がなくなる。そうすると身体中で鮮紅色のオキシヘモグロビンが充満するものだから、当然外見の色合いが変わって見えることになる。このように青酸は呼吸酵素を失活させてしまう猛毒なのである。
実を申せばこの呼吸酵素は私にはお馴染みの酵素なのであって、青酸がどのようにこの酵素と結合してその働きを止めてしまうのかについて先駆的な説を出したと思っている。多分今でも生き残っている筈である。そのような仕事をしている時に、米国の研究仲間の一人である女性教授から面白い話を聞いたのである。この分野では私より遙かに先輩である彼女が、もう半世紀も前のことになるが、この酵素の基質濃度と活性の関係が酵素反応一般に知られている関係に従わない新しいタイプであることを発見して、そのプロットを論文に発表したことがる。その頃は名前を知るだけであったが、私が自分の論文でそのユニークなプロットを彼女とその共同研究者の名前を取りS-C Plotと名づけて紹介したことがきっかけとなり、その後顔を合わせるとあれやこれや気楽に話し合う間柄になっていたのである。下の写真の向かって右が米国Dartmouth Medical School生化学教授(当時)の彼女で、左がそのお弟子さんで件の共同研究者、これはおよそ30年前の写真である。

閑話休題、その彼女がある内輪話をしてくれたのである。研究室で何人かのポスドクが呼吸酵素の活性を日常的に測定しているのだが、あるポスドクが活性を測定すると他のポスドクにくらべてその値がいつもかなり低い。同じ酵素標品を使っているにもかかわらず、である。どうも解せないので彼女が原因を調べたところ、思いがけないことが分かった、何だと思う?と聞く。私は首を横に振った。そのポスドクがヘビースモーカーで、ところかまわず煙をふかす。その煙に青酸が含まれていて、どういう経緯かこの青酸が反応溶液に溶け込み、酵素活性を阻害していたと言うのである。今でこそたばこの煙に青酸ガスが含まれていることを、たとえばカナダ政府などは大々的に宣伝に努めている。しかしその当時は私にとっても新知識であった。
われわれが消費する酸素の90%以上が呼吸酵素に使われる。口から体内に入った食物は消化されてだんだんと小さな分子になり、最後には二酸化炭素と水になってしまうが、その水を作るのが呼吸酵素なのである。酸素が水に還元されるのには電子が必要であるが、その電子を供給するのが食物由来の小分子である。細胞内では還元型のチトクロムCが呼吸酵素に直接電子を渡す。
かっての生化学者は酵素を精製するのが得意で、私も牛心臓の筋肉から呼吸酵素やチトクロムCを自分で精製していた。それぞれ単独の成分としてきれいにするのである。そうすると元来は生体内の反応を試験管の中で起こさせることが出来るようになる。チトクロムCを化学的還元剤で還元して余分の還元剤を除き、これにほんの微量の呼吸酵素を加えると還元型チトクロムCが酸化されて酸素が水になる。還元型チトクロムCはある特定の波長に強い吸収帯を持つが、それが酸化されるにつれて弱くなる。だからその吸収帯の強さの時間変化を分光光度計を使って自動測定してこの酵素の活性を決めるのである。
分光光度計には試料室と言って、反応を起こさせる容器をセットする狭い空間がある。容器とは普通石英ガラスで出来た底面が1センチ四方で高さが4センチほどのキュベットと呼ぶ柱状の容れ物である。これにあらかじめ還元型チトクロムCの溶液を入れておき、そのたとえば400分の1容量の酵素液を素早く加えて反応を開始させる。そのキュベットには吸収帯の強度変化をモニターする観測光が当たっており、測定の最中に外光が入らないよう試料室には蓋が付いている。必要な操作をする時だけ蓋を開閉するのである。青酸が酵素活性をどのように阻害するのかを知りたければ、濃度が分かるように青酸を反応溶液に加えて、吸収帯の強度変化がどの程度遅くなるのかを測定する。
青酸がきわめて扱いにくい物質であることはすでに知っていた。白色結晶の青酸カリは水に簡単に溶けて強いアルカリ性の溶液になる。時にはこれを塩酸で中和するが、この操作はかならず排気の良いドラフト内で行った。酸を少しでも過剰に加えると直ちに揮発性の高い青酸ガスが溶液から飛び出して、それを吸うと危険だからである。青酸ガスは揮発性が高いから空気中を飛び回る一方、また水にも、とくにpHが高いとよく溶け込む。「たばこの煙事件」の話を聞いた後では、青酸を用いる実験ではキュベットには必ず蓋をして青酸の予期せざる出入りを防ぐようになった。
ところで青酸がどの程度猛毒なのかは、ふつう酵素活性が半分になる時の青酸濃度で表す。私どもの測定ではそれがおおよそ0.026 mg-CN/Lであった。と言うことはたばこの煙が原因でこのレベルの青酸が活性測定の反応溶液に、キュベットに蓋をしていなければ、溶け込む可能性があり得ることになる。そしてこれは偶然にも上のシアン異常値と同じレベルなのである。ここまで来れば私が伊藤ハム「シアン問題」の一連の経緯から、どのようなことを想像したかはもうお分かり頂けるであろう。一番簡単に考えやすいのは分析機関でたまたま「ヘビースモーカー」が分析を行い異常値を得たのではないか、と言うことである。限られた空間で「ヘビースモーカー」と分析にかけられる直前のサンプルが共存する場合を想像すればよい。この場合、再実験したとしてその時はたばこの煙がもうもうということは先ずあるまい。いかに「ヘビースモーカー」であっても人の目を気にするだろうからである。またノンスモーカーの別人が分析したかも知れない。となると異常値はもう出てこない。
別に「ヘビースモーカー」でなくても良い。青酸ガスとの接触を疑わせるような状況に分析直前のサンプルが置かれた可能性があったのかなかったのか、それを明らかにすることが必要なのである。このたびの報告書は一昨日にも指摘したように《井戸水などの地下水は良質の水資源であるが、いったん汚染されるとなかなか水質が回復しないことを鑑みると、シアンが井戸水や水道施設から連続的に検出されていないことは不可解である。また、水道の水質基準を越えるシアンが検出された場合、ただちに給水を停止すべきであったことは自明のことであるが、前述のことを考えると単純なシアン汚染とは考えにくい。》ときわめて正しい結論に至っている。だからこそ異常値の出てきた状況を完璧に調べ上げなければならないのである。
最終報告書でこの調査がなおざりにされているようでは、科学的には無価値と言わないまでも評価はきわめて低いと言わざるを得ない。関係者の奮起を期待したい。