日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

朝鮮江原道鉄原で迎えた60年前の8月15日

2005-08-15 13:20:31 | 在朝日本人
♪ざわわ ざわわ ざわわ
 広いさとうきび畑は
 ざわわ ざわわ ざわわ
 風が通りぬけるだけ
 今日も見渡すかぎりに
 みどりの波がうねる
 夏の陽ざしのなかで

寺島尚彦作詞作曲のこの「さとうきび畑」を聴いて私が思い出すのが自分の背よりも高いトウモロコシがぎっしりと植わった畑である。その中に友達と入っていくとジャングルを進軍する皇軍兵士のような気分になるのだった。もぎ取ったトウモロコシを湯がいてかぶりつくと黄金の粒から甘い汁が飛び出す。とても幸せだった。疎開先、鉄原での思い出である。

昭和20年の春、朝鮮京城府の三坂国民学校に在学していた私は疎開することになり、父を京城に残して母と四人の子供だけが江原道鉄原に引っ越しした。四月から五年生として通い出したのが鉄原国民学校であった。

学校では一学年に何人いたのだろう、もちろん一教室にゆったりと納まっていた。授業で飛行機雲のことを知っている人と先生に聞かれ、少年雑誌で仕入れたばかりの知識を披露したら「さすが都会の子供だ」と云われた覚えがある。面白かったのは畑仕事、草を刈って山積みにし、それに肥たごから小便をぶっかけて天日に曝しているうちに肥料に変わっていく。手で触るように云われて塊に手を突っ込むととても熱くなっているのに驚いた。

疎開してから間もなく京城に残っていた父に赤紙がやってきて竜山の連隊に入営することになった。母は幼い弟妹を三人抱えて動けないので、私が父の入営を見送り私物を受け取って来ることになった。一人での汽車の旅、初めてのことであったが京元線で鉄原から京城駅を経て以前住んでいた永登浦まで行ったことと思う。片道3時間ぐらいかかったのであろうか、途中の議政府という駅の名前を未だに記憶している。無事に大役を果たした帰ってきた。

鉄原には景勝の地金剛山を訪れる人が利用する金剛山電気鉄道の始発駅があった。『電車』が珍しく、駅にはよく出かけて電車の発着を見るのが楽しみであった。車両の屋根につけられた前照灯に精悍なイメージを感じた。でも乗ることは一度もなかった。
勉強をした記憶は殆どない。時間があれば外を飛び回っていた。探検するところが山ほどあった。工場の警備に配置された兵隊さんもよく相手になってくれた。疎開者には狭い寮の一室しか住まうところがなかったが、もともと工場に勤務している社員たちは一戸建ての社宅に住んでおり、そのうちの一軒、出征軍人の家に隊長さんが入り込んでいるのをよく目にした。

夏休みに入っていたある日、ソ連軍が朝鮮国境から攻め込んできたとのニュースが伝わってきた。羅津とか清津の地名を新聞で見たような気がするが、だからと云って日々の生活が変わったような記憶はない。そして国民学校の校庭に集合するよう連絡があった。8月15日である。お昼、玉音放送を聴いた(これを書いている今ちょうど正午になった。一分間黙祷)。校長先生が指揮台から何かを話された。私は全校生が整列した前から二列目に立っていたが、すこし離れた左側に目をやると当時2年生であった妹がしゃくり上げているのが目に入った。私は涙が出るどころか何が起こったのかすらはっきりと掴めていなかった。

今から思うと『神国日本の降伏』は『軍国少年』の私にとって理解不能の出来事であったのだろう。