日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

在朝日本人の回想 私は変な日本人?

2005-03-07 11:22:48 | 在朝日本人
朝鮮から引き揚げてきた翌年の昭和21年春、神戸に引っ越して漁師町にある国民学校に通うことになった。ところが5年の3学期だけを過ごした高砂国民学校でも今度の学校でも、私はどうも溶け込みにくかった。まわりがダサイのである。

私が教室の机に座っていると突然男子が一人机の上に腰をかけた。『どす』を机の上にガンと突き刺して「おい、チョーセン」と語尾上がりに云うのである。朝鮮からの引き揚げ者というのが何らかの形で伝わったのであろうが、私は自分が『朝鮮人』と云われたのだと受け取った。もちろん自分は紛れもなく日本人であるので、そんな見分けがつかないこいつは馬鹿か、と思った。

『どす』なんて少しも怖いとは思わなかった。「宮本武蔵」の読後感も生々しいし、それよりなにより、戦のためとはいえ、『人を殺す』公教育を国民学校で受けてきている筋金入りである。咄嗟に相手がこうでたらああでよう、と心に決めた。その後のやりとりはもう記憶に残っていないが、二度と同じ仕打ちに会うことはなかった。

振り返ってみるとその頃の子供は今の大人以上の分別を備えていたと思う。『どす』はあくまでも脅し、それを実際に使って人を傷つけることの愚をちゃんと悟っていたのである。私にもそれが暗黙の認識としてあったから冷静に対応できたのだろう。

それはともかく、『朝鮮人』を蔑視する日本人の存在をこのことで始めて実感した。その後歴史を学ぶことから、例えば関東大震災時の社会主義者、朝鮮人、中国人の殺害に示されるように、『朝鮮人蔑視』が日本社会の底部に定着していることを知っていくのである。

私は朝鮮に暮らしていた全期間を通じて、子供の目に触れさせなかったと云われればそれまでだが、日本人が朝鮮人をひどく扱う場面に遭遇したことは幸か不幸か一度もない。私自身においても『蔑視』はほんの一欠片もなかった。学校での教育でも家での躾でも、日本人と朝鮮人は一視同仁が徹底していた。敢えて両者の『違い』を取り上げると、日本人は朝鮮人に対しては『兄』であり『姉』として振る舞うことを躾けられた。

戦後の朝鮮半島における凄まじい『反日感情』の高まりは、私の『朝鮮』への『屈折した思い』を凍結してしまった。清水の舞台から飛び降りる思いで大韓航空に搭乗したのは戦後30年も過ぎてからのことである。海外出張に格安のチケットが魅力だったのである。伊丹空港から一旦ソウルの金浦空港に飛び、アメリカ行きに乗り換える待ち合わせの時間が落ち着かなかった。一歩外に出たらあの『京城』に行けるのにと、でも昔の記憶が大きく塗り替えられるのが怖かった。

大韓航空を利用するようになって何回目か、アメリカからの帰途、遂に決心してソウルにストップオーバーすることにした。金浦空港から乗り合いバスで市内に向かい、ロッテホテルに到着した。アメリカでの滞在が長く、髪の毛の伸びが気になっていたので、地下の理容室で散髪をして貰うことにした。戦後始めての『朝鮮人』との接触である。いやこの時点では『韓国人』と云わないといけない。私は英語で話しかけた。最初は英語で戻ってきたが、そのうちに日本語に変わっていった。しかし私は何故か英語で押し通し、韓国人が使う日本語と私の英語で意を交わしたのである。

調髪の最中、何としたことか日本でも目を引くであろうこの高級ホテルで電気が消えて真っ暗になった。停電なのである。懐かしさがこみ上げてきた。戦時中京城の家で当たり前だった灯火管制を連想したからである。それと同時に『いじらしさ』を覚えた。かっての支配国日本に追いつけ追い越せを合い言葉に頑張っている(であろう)、韓国のこの代表的なホテルでのまさかの停電、元に戻るまでの長い時間に、「まだまだ頑張らなくちゃね」と言葉をかけたくなったのである。

翌日、地下鉄でかって住んでいた永登浦に行こうと思った。ソウルオリンピックを目前に控えて、ソウルの中心部の改造が大がかりに進められていた頃で、地下鉄駅に向かう通路もまだ完全に整備はされていなかった。しかし東京や大阪の地下鉄に決して見劣りのしない立派な近代的な建造物である。そう思った瞬間、鼻の奥がつんときた。と涙が滂沱の流れとなり歩けなくなった。全身が感動で充ち満ちたのである。理由づけるとしたら、あの『弟』がここまで大きく逞しく成長したんだ、という私だけの思いが心を大きく揺すったとでも言えるのだろうか。

かっての『一視同仁』の頃に私が舞い戻っていたのである。