日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

白髪三千丈の国 井波律子氏の二著

2005-03-05 14:33:18 | 読書
李白秋浦歌其の十五にあるのが「白髪 三千丈 愁いによりて かくの如く長し 知らず明鏡のうち 何れの処よりか 秋霜を得たる」

「白髪がなんと三千丈もある! 愁いがつもりかさなって、こんなに長くなったのだ。明るい鏡の中の頭へ、いったい何処から秋の霜がふってきたのか、わしにはさっぱりわからない」(中国詩人選集8 李白上 武部利男注 岩波書店)

この「白髪三千丈」が「新明解国語辞典」では「愁いのため伸びた白髪を極端に誇張した言い方」となる。

レトリックではあるがゆえに、『南京大虐殺』で日本軍が30万人もの中国人を殺したと彼が唱えれば、さすが李白の後裔のなせる誇張の技かと響くこともあれば、文化大革命で反動分子として処刑された犠牲者が数百万人から2000万人とも伝えられると、そこまでは誇張はいくらなんでもないだろうから、やっぱりこの数字は真実かと妙に納得したりする。とにかく虚実の詮議が意味を持たないぐらい何でもありの国が中国、だからこそ何かと気になる国なのである。

その気になる中国であるが、私は系統的な歴史の知識がない。学校で勉強したわけでもないので、もっぱら興のの赴くまま手にする「史伝」などから散発的に入ってくる知識を自分の頭の中の年代表に整理したものが、私のもてる全てである。最大の知識源が宮城谷昌光氏の中国歴史を題材にした作品で、最近の「三国志」第三巻までのほぼ全作品を通読した。昌光様々である。

この浩瀚な作品群と対照的に、最近刊行された井波律子氏の「奇人と異才の中国史」(岩波新書)は、帯に「-古代から近代まで-中国史を丸ごと楽しめる!」とあるように、「春秋時代の孔子から近代の魯迅に至るまで、約2500年にわたる中国史の流れのなかで、さまざまな分野において活躍した五十六人の異色の人材を時代順にとりあげ、彼らの生の軌跡をたどったものである」。

全体が I 古代帝国の盛衰、II 統一王朝の興亡 III 近代への跳躍と三つの時代に分類されている。取り上げられた人物の内、私が何らかの知識をもつ人物はI では 19人中14人、次は20人中9人、最後では17人中2人と、内容的に著しく偏っていることが分かる。古代にその名を知る人物が多いのは明らかに宮城谷氏のお陰を被っている。それに引き替えて近代では林則徐と魯迅に限られているのには忸怩たる思いがする。

よく日本人には近代史、現代史の知識が欠けていると云われるが、私の中国史に関してはまさにその通りである。私はたまたま歴史に興味があるので、自分でも欠けたところを読書ででも補おうとするが、若い人達はどうなんだろう。少なくとも学校で国の内外を問わず近代史、現代史の知識が極端に欠けているのでは、と気がかりではある。

私が新しく知って面白く思った人物の一人が馮道(ふうどう)。後唐から後周までの五王朝で十一人の皇帝に仕えて、しかも二十年余り宰相の地位を占めたというから、並大抵の政治家でないことが分かる。ふつうなら王朝が変わると「節を屈するは士人にあらず」とかなんとか云って下野するのが普通の身の処し方なのであろうが、馮道は次々に王朝が変わっても常に行政のプロとして重用されてきたのである。重用した王朝も偉いが、一般には無節操だとか破廉恥だと云われる生き方を選んだ根底にあるのが「家に孝、国に忠」という彼の信念である。

彼は自叙伝の中で《目まぐるしく交代する「君」に忠義立てをするのではなく、「国」すなわち国家を構成する基礎である民衆のために尽くしてきた》と明言している。

私は目を開かれた。「愛国心」、国を守るというと、戦時中への記憶に連想が働くこともあって、くどくどとその意味するところをえてして弁じるのであるが、国を守るとは「国を構成する基礎である民衆」を守ることである、といえば何も付け加える必要はない。千年以上も前に没した先人に今あらためて学んだのである。

明末の異端の思想家、李卓吾もその生涯を追ってみたい人物である。《「童心(虚偽をはぎ取った純真そのものの心)」を重視して、修身・斉家・治国:平天下といった儒教の伝統的な価値観を、虚偽だときっぱり否定した》のである。《儒教の聖典と目される『論語』や『孟子』については、「永遠の真理などではない。これを絶対視するのはひからびた人間だけだ」》と容赦しない。

《一つの時代には一つの時代の基準があり、歴史上の人物を固定した儒教的基準で一律に評価できない》とも主張している。この李卓吾あってこそ、上に記した馮道も世に出たのである。しかもあらゆる面で既存の権威や価値観を否定した李卓吾の根底に、自ら信じるものの為に命を差し出す覚悟のあったことを粛然と知らされるのである。

井波律子氏が取り上げた人物の中に、必ずや一人は自分の生き方の範としたい人物に行き当たるではなかろうか。中国史を学びつつ自分探しができる一挙両得の本。一人について3ページの記述であるから気楽に読んでいける。マンガ大好きな方にも、時にはこういう本を読んで頂きたいものである。

井波律子氏の近著に「故事成句でたどる楽しい中国史」(岩波ジュニア新書)がある。『童心』をお持ちの方はもちろん、ひからびたとお嘆きの方にも心よりお薦めする。