知り合いが近々ベルリン、ドレスデン、プラハ、ウイーンなどに出かけるという。その話に刺激されて、昨日は三年前の東欧旅行の写真を眺めていた。台風4号の前触れに出足をくじかれての時間つぶしでもあった。ホテルに戻ると、NikonD70で撮った画像をDATA STATIONII(IO DATA)で640MBのMOに移した。今ならiPodに画像を移せば済む。たった3年の間にえらい様変わりである。
旧東ドイツとプラハを中心に廻りたいと思った。調べてみると大韓航空が便利だった。往きはフランクフルトまで飛び、プラハから帰ってこられる。ドイツ国内はGERMAN RAIL PASSを使って移動することにした。「5 Days in 1 Month Twin 1st Class 2Adults」だと二人目は料金が半分になる利点がある。利用する日だけ記入すればよいので、使い勝手が極めてよい。全行程はフランクフルト→ハイデルベルヒ→ベルリン→ドレスデン(→←ライプチィヒ)→プラハで、国境のSchonaからプラハまでの料金は、ドレスデン駅で列車を予約する際に別途に支払った。
ベルリンでは妻が路上で転倒し、救急車で病院に運ばれるというハプニングがあったが、今から思うとまたとない経験だった。重力には逆らわない素直な妻は、その後も私の知る限り二回転倒したが、とても転け方が上手になってか、かすり傷も負わなくなった。転倒の翌日かに撮った写真ではお岩さんにになりかけだった。こういう記念写真は珍しかろうと特別公開をする。

旅行中妻はサングラスをかけたし、私は不審な目を向ける人に、wife-beaterだとは思われないよう、転んでそうなったんだ、と状況を何回かにこやかに説明した。
ドレスデンに滞在中、ライプツィヒへ日帰りの旅をした。汽車で片道1時間少しかかる。何はともあれバッハが1723年から1750年の終生まで、トーマス教会合唱団の音楽監督を勤めていたその教会を訪れてみたかったからである。
ライプツィヒ中央駅を出てまっすぐ道を歩いていくと右手にニコライ教会が見え、やがて通りにぶつかる。右に折れると通りの左側はライプツィヒ大学である。尿意を催したのでちょうど都合がいいとばかり校舎に足を踏み入れた。建物の入り口が通りに面しているのですっと入れる。廊下を学生が大勢行き交うが、私に目を向けるものはいない。教室もあるので覗き込んだりして何年かぶりに大学の雰囲気を味わったりした。しかし考えてみると、これはお上りさんの振る舞いそのもの、恥ずかしくならないうちに足が勝手に見付けてくれたトイレで用を足しては辞去した。ゲーテに鴎外、ハイゼンベルグにオストワルドやワーグナー、ライプニッツにあやかり、この大学にささやかな足跡を残せた。
先方左手に尖塔が見えてきたので、それを目当てにトーマス教会に辿り着いた。その前面にバッハの像がある。

建物の始まりは13世紀初頭に遡るが、その後幾多の変遷を経て現在の建物は1991年から始まる総合大修理により2000年6月に完成したものである。2000年7月28日にここでバッハ没後250年祭典が催されたとのことである。1789年5月12日にモーツアルトがトーマス教会のオルガンで演奏したとか、また1806年にはナポレオン軍がトーマス教会を弾薬庫として使ったとの記録があるが、その頃の面影はどの程度残されているのだろう。教会内にバッハの墓所があったが、設けられたのが1950年というから、これも何かそれなりの謂われがあるのだろう。

教会正面を出ると右手前方にThomas-shopなる土産店がある。440ヘルツの音叉を買った。30秒近く音が持続する。この店への入り口近くにWCの表示があった。ただのWCではない、「WC an der Thomas-kirche」とやんごとないのである。覗いてみたところ、用をたすのにつま先立つ必要がない高さの便器がやさしく迎えてくれた。


このあと、近くにあったアワーバッハス・ケラーで遅めの昼食を摂った。時間がずれていたせいか広いホールに客の姿がまばらであった。

実は今、ヴォイストレーニングの相方とメンデルスゾーンの二重唱曲に取り組んでいる。

このメンデルスゾーンもライプツィヒと関係がある。1835年にライプツィヒ管弦楽団の指揮者に就任し、37年には結婚、そして1843年にライプツィヒ音楽院を創設している。その住居が今はメンデルスゾーン・ハウスという博物館になっている。食事を終えてから、インフォーメーションで貰った観光地図を頼りに探し歩いたが、30分過ぎても1時間近くなっても見つからない。たまたま通りがかったヴァイオリンのケースを抱えた若い女性に場所を尋ねると、すぐ近くだという。ついそこまでは来ていたのだ。自分もそちらの方に行くから一緒に行きましょうと云ってくれる。音楽を勉強している学生だったのだ。ここです、と教えられたところに、メンデルスゾーン・ハウスを示す飾り板があり、その下の飾り板にはライプツィヒ大学音楽分室と記されていた。


左側の建物が目指すところ、扉には「メンデルスゾーン・ハウスの博物館」の飾り板があった。訪問者は私たちだけ、こころゆくまで部屋の佇まいに展示品などを見てまわった。


まったく偶然にもたった今(11時58分)、教育テレビの名曲アルバムでシューマンの交響曲「ライン」を演奏しており、作曲当時シューマンがクララと住んでいたライプツィヒの旧居が映し出されていた。時間がなくこのシューマン・ハウスを訪ねることが出来なかったのが心残りである。
旧東ドイツとプラハを中心に廻りたいと思った。調べてみると大韓航空が便利だった。往きはフランクフルトまで飛び、プラハから帰ってこられる。ドイツ国内はGERMAN RAIL PASSを使って移動することにした。「5 Days in 1 Month Twin 1st Class 2Adults」だと二人目は料金が半分になる利点がある。利用する日だけ記入すればよいので、使い勝手が極めてよい。全行程はフランクフルト→ハイデルベルヒ→ベルリン→ドレスデン(→←ライプチィヒ)→プラハで、国境のSchonaからプラハまでの料金は、ドレスデン駅で列車を予約する際に別途に支払った。
ベルリンでは妻が路上で転倒し、救急車で病院に運ばれるというハプニングがあったが、今から思うとまたとない経験だった。重力には逆らわない素直な妻は、その後も私の知る限り二回転倒したが、とても転け方が上手になってか、かすり傷も負わなくなった。転倒の翌日かに撮った写真ではお岩さんにになりかけだった。こういう記念写真は珍しかろうと特別公開をする。

旅行中妻はサングラスをかけたし、私は不審な目を向ける人に、wife-beaterだとは思われないよう、転んでそうなったんだ、と状況を何回かにこやかに説明した。
ドレスデンに滞在中、ライプツィヒへ日帰りの旅をした。汽車で片道1時間少しかかる。何はともあれバッハが1723年から1750年の終生まで、トーマス教会合唱団の音楽監督を勤めていたその教会を訪れてみたかったからである。
ライプツィヒ中央駅を出てまっすぐ道を歩いていくと右手にニコライ教会が見え、やがて通りにぶつかる。右に折れると通りの左側はライプツィヒ大学である。尿意を催したのでちょうど都合がいいとばかり校舎に足を踏み入れた。建物の入り口が通りに面しているのですっと入れる。廊下を学生が大勢行き交うが、私に目を向けるものはいない。教室もあるので覗き込んだりして何年かぶりに大学の雰囲気を味わったりした。しかし考えてみると、これはお上りさんの振る舞いそのもの、恥ずかしくならないうちに足が勝手に見付けてくれたトイレで用を足しては辞去した。ゲーテに鴎外、ハイゼンベルグにオストワルドやワーグナー、ライプニッツにあやかり、この大学にささやかな足跡を残せた。
先方左手に尖塔が見えてきたので、それを目当てにトーマス教会に辿り着いた。その前面にバッハの像がある。

建物の始まりは13世紀初頭に遡るが、その後幾多の変遷を経て現在の建物は1991年から始まる総合大修理により2000年6月に完成したものである。2000年7月28日にここでバッハ没後250年祭典が催されたとのことである。1789年5月12日にモーツアルトがトーマス教会のオルガンで演奏したとか、また1806年にはナポレオン軍がトーマス教会を弾薬庫として使ったとの記録があるが、その頃の面影はどの程度残されているのだろう。教会内にバッハの墓所があったが、設けられたのが1950年というから、これも何かそれなりの謂われがあるのだろう。

教会正面を出ると右手前方にThomas-shopなる土産店がある。440ヘルツの音叉を買った。30秒近く音が持続する。この店への入り口近くにWCの表示があった。ただのWCではない、「WC an der Thomas-kirche」とやんごとないのである。覗いてみたところ、用をたすのにつま先立つ必要がない高さの便器がやさしく迎えてくれた。


このあと、近くにあったアワーバッハス・ケラーで遅めの昼食を摂った。時間がずれていたせいか広いホールに客の姿がまばらであった。

実は今、ヴォイストレーニングの相方とメンデルスゾーンの二重唱曲に取り組んでいる。

このメンデルスゾーンもライプツィヒと関係がある。1835年にライプツィヒ管弦楽団の指揮者に就任し、37年には結婚、そして1843年にライプツィヒ音楽院を創設している。その住居が今はメンデルスゾーン・ハウスという博物館になっている。食事を終えてから、インフォーメーションで貰った観光地図を頼りに探し歩いたが、30分過ぎても1時間近くなっても見つからない。たまたま通りがかったヴァイオリンのケースを抱えた若い女性に場所を尋ねると、すぐ近くだという。ついそこまでは来ていたのだ。自分もそちらの方に行くから一緒に行きましょうと云ってくれる。音楽を勉強している学生だったのだ。ここです、と教えられたところに、メンデルスゾーン・ハウスを示す飾り板があり、その下の飾り板にはライプツィヒ大学音楽分室と記されていた。


左側の建物が目指すところ、扉には「メンデルスゾーン・ハウスの博物館」の飾り板があった。訪問者は私たちだけ、こころゆくまで部屋の佇まいに展示品などを見てまわった。


まったく偶然にもたった今(11時58分)、教育テレビの名曲アルバムでシューマンの交響曲「ライン」を演奏しており、作曲当時シューマンがクララと住んでいたライプツィヒの旧居が映し出されていた。時間がなくこのシューマン・ハウスを訪ねることが出来なかったのが心残りである。