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日々是好日

身辺雑記です。今昔あれこれ思い出の記も。ご用とお急ぎでない方はどうぞ・・・。

台北故宮博物院にて

2007-02-27 00:26:19 | 海外旅行・海外生活

思い立って台湾を始めて訪れた。台北故宮博物院がお目当てである。旧正月後、2月下旬の一日市内観光と一日自由行動を含むツアーだと2席だけ空いているというので、即決で申し込んだ。

関空の売店では週刊新潮3月1日号を買った。福田和也さんの見聞記「台湾で観た、食べた(上)「眼福」の故宮博物院」が載っていたからである。汝官窯の青磁と北宋山水画の傑作として范の「谿山行旅圖」、郭熙の『早春圖』、李唐の『萬壑松風圖』を口を極めて賞めておられる。それなら是非観てみようと思った。

故宮博物院は三年かけてリニューアルされ、その終了を記念して昨年暮れから特別記念展が開催されている。「大観」と看板に大きく出ているので日本画家の横山大観を思ったが勿論無関係、英語でGrand Viewとあったので意味は分かった。その「大観」は北宋書画特別展、北宋汝窯特別展、宋版図書特別展の三部で構成されている。

二日目の市内観光では午前中に故宮博物院に立ち寄り、NHKテレビでも紹介された翠玉白菜の細工物など目立った展示品を、ガイドにつれられて見てまわった。そのあとの自由時間に三階の各部屋を順番に訪れた。青銅器工芸の謎、文明の曙光―新石器時代、古典文明―銅器時代、古典から伝統へ―秦・漢の時代順に展示品が陳列されている。秦・漢といえば私の好きな宮城谷昌光の数々の歴史小説の時代でもある。各時代の器具などを目にして、その時代に舞い込んだような感じを覚えた。

翌日は9時の開館に間に合うようホテルからタクシーで駆けつけた。入場券は160圓、日本円にすると約600円である。土曜日のことで人が多かったのだろうが、それでも開場を待つ人は200人以下だったと思う。直ちに北宋汝窯特別展の105号室に向う。人はほとんどいない。日本人らしき熟年の紳士、地元の母と娘の二人連れの後に続いた。

説明によると汝窯の青磁で現存しているのは65点とか、そのうち20数点が展示されていたと思う(数えたわけではなかったので)。日本紳士が実に丹念に鑑賞されている。真正面から、斜め横から、しゃがみ込んでは上を見上げる。すぐ前のお母さんは音声ガイドを聞きながら中学生ぐらいだろうか、女の子に一つ一つ丁寧に説明している。女の子もいろいろお母さんに尋ねたり意見を述べているようだ。日本であまり見かけたことのない光景で、母娘のやり取りはとても心温まるものだった。前の二組が実にスローペースなので、後から来た人がどんどんと前に割り込んでいく。お蔭で私もゆっくりと青磁を鑑賞することが出来た。

福田和也氏は無紋水仙盆をこのように表現している。《この盆は、汝窯のなかでも、まったく貫入(細かなひび割れ)のない、特異な肌をしていて、色調も淡いのですが、鮮烈な印象を与えて、観るものを離そうとしない神品です。その澄明さには、憂愁と喜悦が同時に香りたってくる。モーツアルトのもっとも雅やかな旋律を蒸留した結晶みたいな》と。

確かに青磁は美しい。けれども道具は手に取ってみるもの、使ってなんぼのものである。とくに焼き物などは肌触りに持ち重り感などを味わいたいものである。眺めるだけでは絵に描いた餅ならぬ容器にすぎない。なんてひねくれた云い方になったのも、福田氏が『神品』だなんて持ち上げるからである。『鈍感力』に恵まれた私はそこまでは感じなかった。その『神品』無紋水仙盆を清の乾隆帝が猫の餌入れに使っていたそうだが、私の感覚にぴったりとくる。猫と対でいい画材になったことだろう。

私が興味を持ったのは、裏に「奉華」と紅色の文字が刻まれた小皿で、直径が12.8cmで糸底の径が10.1cmとのことである。奉華堂というのは南宋徳寿宮にあって高宗の寵姫劉貴妃の住んでいたところであることから、この小皿が彼女の生活に拘わりのあったことが考えられる。このように使われた場所が特定できるというのが凄い。日本流なら取り皿のような使われ方が想像できるが、中国ではどうだったのだろう。上品な和菓子ならぴったりだなと想像してしまうところが日本人なのである。

青磁ではないが私の注意を惹いた参考出品があった。親指の爪ほどの大きさで中央に小さな丸穴が空いた薄い陶片である。これを保持する台には二行五列に細長い溝が刻まれていて、陶片をその溝に差し込んで立てるのである。窯に入れて炉の温度と磁器の出来上がり具合の関係をモニターするのに使われていたようだが、使用法は考えてみたものの想像できない。いずれにせよこのような物までが見つかっているとは大したものである。青磁を見てまわるだけで一時間は過ぎてしまった。

北宋山水画の名品に向かい合うと感動を覚え、また重厚さには圧倒された。しかし展示室が暗くまた絵画自体がくすんでいて、残念ながらじっくりと観ることが出来なかった。絵そのものが分からなくても、醸し出される雰囲気に煽られて気分の高揚することがいい。福田氏は《北宋という時代にしかありえない、純度の高い、狂気とも思われるような、気韻がみなぎっていて、およそ紙と筆だけで作り出されたとは思えない空間が口を開けている》と評しているが、ふだん東洋絵画に縁の薄い私にはそこまでの鑑賞力は欠けているというのが本音だった。

私が心を打たれて時間を一番費やしたのが書法の部屋である。徽宗詩帳の几帳面で力のある筆の運びに思わずわが手を動かした。痩金体という独特の書風を作ったこの皇帝は絵画にも秀でていたが、政治的には無能であったというから、天は二物を与えずということになるのだろうか。ところで徽宗で有名なのが「桃鳩図」であるが、これには大観丁亥御筆と文字が書かれていて大観元年(1107)の作であることがはっきりしている。この年号の大観と今回の大観特展との合致が偶然なのかどうか、因縁を私は感じた。

黄庭堅には端正な書があるかと思えば、いたずらっ子がのびのびと筆を走らせたような書のあるのも面白かった。蘇軾の赤壁賦などお手本にして習字をしたくなったりした。書をよくする私の恩師から宋の四大書家の1人とかねて聞き及んでいた米●(草冠に鍋蓋、そして巾、べいふつ)の書の豊富なのに驚いた。筆の運びが流れるようで自然と字体が決まっていくように感じられる。年賀状の宛名書きすら筆でままならないのに、物真似をしたくなるような不遜な気分にさせられた。

彼の蜀素帖の一部ではあるが、印鑑がべたべた押されているのが目に付く。この書が人から人への手に移り、その時の持ち主が押印したのだろうか。蔵書判のようなものかも知れないが、少々無神経のように感じた。それにしても千年の隔たりを感じさせない書に書家の息吹を感じられるのが書の最大の魅力である。



観客は多目であったが、十分ゆとりを持って展示品を鑑賞できた。それにしても蒋介石は中国本土から故宮の数十万点に及ぶ名品をよくぞ台湾まで持ち込んだものである。今の中国政府にとってみれば略奪されたように感じているのかも知れない。でももし全てが中国本土に残されていたとしたら、あの文化大革命の時代にこれらの宝物が破壊・廃棄されてしまったかも知れない。戦火をくぐり抜けてこの貴重な文物が生き残ったことを私は素直に喜びたい。台湾には簡単に行けることが分かったので、いずれ故宮博物院を再訪するような予感がする。

三族協和でタングルウッドへ

2007-02-19 18:51:22 | 海外旅行・海外生活

2月11日と12日の連夜放映されたテレビドラマ「李香蘭」を観ていると、五族協和なんて古めかしいスローガンが目に止まった。中華民国の建国に際して、孫文らが中国の漢・満・蒙・回(ウイグル)・蔵(チベット)の五民族が共同して共和国を建設することを主張した。これが「五族共和」であるが、それが後に日本による満州国建国にあたって、日・漢・満・朝・蒙の五民族による「五族協和」に化けたのである。そして私はもう36年前になるある出来事を連想したのである。

1971年の夏、アメリカ・テネシー州メンフィスで開かれるある国際学会に招待された。主催者とやりとりしている間に、夏の3、4ヶ月ほど一緒に仕事をしないか、と云う話になり、顎足先方持ちでニューヨーク州立大学オールバニ校に滞在して、共同研究を始めることになった。

オールバニはニューヨーク州の州都で、ニューヨーク市からハドソン川に沿って200kmほど北にある。さらにハドソン川を300kmほど遡ると、Lake GeorgeにLake Champlainを経て、カナダのモントリオールに至る。ハドソン川を境に東側は南からConnecticut、Massachusetts、Vermontの各州とそれぞれ接しており、これらの州はいわゆるNew Englandの中核となっている。至る所に道路が張り巡らされていて、どの道をドライブしていても自然の風景に町の佇まいが魅力的である。

ドライブを楽しむには車がいる。研究室で中古車を買う話をしていると、大学院の女子学生も買うことを考えているという。Joyceと呼ぶことにするが、シンガポールからの留学生で中国系人である。その彼女と相談がまとまった。全ての費用を折半して彼女の希望する車を購入する。名義は最初から彼女のものにするが、私が滞在している期間は私の専用とするという取り決めである。お互いにメリットになる。そして1000ドルほどで赤いフォルクスワーゲンを手に入れた。

独り者の気安さで、時には金曜の夕方からドライブに出かけ、モーテルを泊まり歩いて日曜の夜帰ってくることもあった。そしてちょくちょく気軽に出かけたのが、ボストン交響楽団の夏の本拠地、Tanglewoodである。車で2時間少しの所にる。夏はタングルウッド音楽祭のシーズンで、大学の生協でチケットを購入して行くのである。そういう話を研究室でしていると、Joyceが友だちと一緒に連れて行って欲しいという。そこである日5人で出かけることになった。私がアッシー君を務める代わりに、彼女たちが夕食を準備してくれるというのである。

友だちというのは中国人、日本人それに韓国人がそれぞれ1人ずつで、彼女たちは4人で一軒家を借りていた。各人が寝室を私室としてあとは全て共有で使うというスタイルで、アメリカでは普通である。全員が留学生で専攻はそれぞれ違っていたようだ。Joyceを除いて皆初対面であったが、1人で外国へ平気でやってくるような女性なので、私と打ち解けるのも早かった。36年も前のことなので、名前も覚えていないし何を話したのかも忘れてしまった。ただもう1人の中国人のお父さんが、私も名前を知っているもと軍閥の大物将軍だったことは記憶に残っている。

記憶がおぼろげになったなかで何が切っ掛けになったのやら、その道中、車の中であれやこれやの歌を大声で歌ったことははっきりと覚えている。車にはエアコンなんて気の利いたものは付いていないので、窓は全開である。誰かが歌い出した歌を知っていると皆が唱和する。言葉は中国語、日本語、韓国語に英語とバラバラ、それがほとんど英国起源の歌だったように思う。Home Sweet Homeなどは、英語で綺麗にハモることが出来た。三族協和の歌声を沿道に響かせながら車はひたすらTanglewoodのあるBerkshiresを目指して走ったのである。

Tanglewoodに1人で来るときは建物の中の椅子席に収まり、バーンスタインやオザワの音楽などを楽しんだ。しかしこの時は建物の外の芝生に敷物を広げ、彼女たちが作ってくれたサンドイッチなどを食べ、コーヒを飲んで開演を待った。芝生の思い思いの所に観客が腰を下ろしたり寝そべったりしている。風が心地よくて、思いがけない遠いところから話声を運んできたりした。このときにグループの写真を撮ったはずであるが、行方不明になってしまった。辛うじて見つかった上の写真には、たまたま日本人女子学生の立ち姿が入っているが、これ以外に思い出すよすがはない。この日のプログラムが何であったのだろうか。ただ帰りの車では皆さん大人しくなってしまい、ヘッドライトだけが暗闇の中の田舎道を照らしていた。

5年後の夏、私は再びオールバニに戻ってきた。Joyceは目出度く学位を得て研究室を離れるところだった。その直前に彼女は赤いフォルクスワーゲンを車にぶつけられて、動かなくなってしまった。しかし相手に全面的に非があったことから、これまでに費やした費用以上の補償金が出たとかで嬉しかったのか、私にえらく感謝してくれた。

アメリカの旧居を40年ぶりに空から訪問

2006-08-27 15:48:18 | 海外旅行・海外生活

New Havenのスーパーで買い物カートから転倒し、頭を強打した2歳の娘が担ぎ込まれたのは、Hospital of St. Rachaelの救急であった。この病院はわれわれが住んでいたGeroge Streetにその一郭が面していて、しかも708番地のわが家のすぐ近くにあった。その旧居がどうなっているのか、ふと気になったので様子を窺うことにした。わざわざアメリカまで身を運ぶのではない。今や手軽に利用できる衛星写真で確認しようというのである。

その道具はあのGoogle Earthである。

まずGoogle Mapで旧居の位置を確かめて、それに衛星写真を重ね合わせて家を見つけ出そうという次第である。地図で位置を確かめるのに手がかりとなったのはトップの写真で、わが家から道路を隔てて斜め向かいを撮ったものである。そこに道路標識が写っていてGeorge St(reet)とBatter Ter(race)の街路名が見える。George Streetに面した2階の部屋を私の書斎と定め、窓近くに机を置いていたから、このコーナーは私にお馴染みの光景であった。

George Streetを西進すると34号線に入り、そのまま車を走らせると自然にNew Yorkに行ってしまう。だから地図の上でGeorge Streetはすぐに見つかった。そして手がかりになるのはHospital of St. Raphaelでこれも見つけやすい。ということでGeorge St.とBatter Ter.の交差点もすぐに見つかった。そこでGoogle Mapを「地図」から「航空写真」に切り替えると地図と同じ箇所の航空写真が現れる。このようにして旧居の場所に簡単に辿り着くことができた。





ところがどうも様子がおかしい。住んでいた家が見あたらないし、そのすぐ近くにアパートだろうか大きな建物が出来ている。Google Earthでその辺りを拡大した。George St.沿いのわが家から西側の家が全て無くなり、主な道路で囲まれた一区画の四分の一を大きな建物が占めているのである。



旧居の東隣は大家さんの住まいだった。どうもその建物は残っているようだ。屋根の白く光っているのが見える。影の出具合からすくなくとも二階建てであることが分かる。不動産業を営んでいたので、自分の家だけを残して他の持ち家を処分してしまったのかもしれない。わが家の裏庭に相当する場所が緑っぽく見える。その名残かもしれず、懐かしく感じた。

アメリカで「児童虐待」犯になりかけた話

2006-08-27 11:45:41 | 海外旅行・海外生活
昨日のブログで述べたように、アメリカでは子供に対する親の保護義務の意識が高く、住民も目を光らしている。これは実は私の実感で、私がその非難の視線に射すくめら攻撃の矢面に立たされたことがあるのだ。

娘をスーパーで買い物カートから転倒させたことで、私は二度と幼い子供から目を離すことはしないと心に堅く誓った。それなのに、それなのに・・・・、なのである。

1967年3月に次男がYale-New Haven Hospitalで誕生し、その8月には一家五人が愛車Ford Falcon Futuraで東海岸から西海岸まで大陸横断して新しい赴任地Santa Barbaraに赴いた。それからまもなくの出来事である。

週末恒例の食料仕入れにスーパーに出かけた。買い物を済ませて食料品など満載したカートを押して車に戻りかけたら、何だか人の輪ができている。近づくにつれてそれが私の車を取り巻いていることが分かった。車の中から次男の激しい泣き声が洩れてくる。それが人を呼び寄せていたのだと思った。

その日、スーパーの駐車場に車を駐めても次男はすやすや気持ちよさそうに眠っている。買い物は30分ぐらいで終わるし、そのぐらいなら寝かせておいても大丈夫だろうと思い、換気のために少し窓ガラスを下げて車を離れた。秋に入っていたので車内温度が上がることはないと判断したからだ。

私は次男に「ああ、ごめんね」と云いながら抱き上げ、別に人の輪を気にしなかったが、途端に物凄い剣幕でその人達に詰め寄られたのである。赤ん坊だけを車に残して買い物をするなんて考えられない、あんたそれでも親か、と云うわけである。「探していたんだぞ。アナウンスを聞いたか」と云う人もいる。すこし穏和な人は、赤ん坊はよく盗られるから絶対にこんなことをしたらいけない、と諄々と説いてくれる。そのうちにパトカーがサイレンを鳴らしてやって来た。赤ん坊を車中にほったらかしているのは犯罪行為であるからと誰かが通報したのである。

次男が確かに私の子供であることを警官が確認し、それにこちらの決まりを知らなかった外国人であるという事情を考慮されて、二度とこういうことをしないようにと厳しく言い渡されて私は無事解放された。パトカーが去った後も何人かの人が残って、驚いただろうと慰めてくれる人もいた。寝ている子供を車に残しておくだけで「児童虐待」になるなんて夢にも思わなかったので、その慰めが有難かった。

児童虐待を禁止する法律は多くの州で定められているが、その児童虐待は次のような定義されている。

「The Law defines child abuse as: (1) Physical abuse, (2) Neglect, both general and severe, (3) Sexual abuse (4) and Emotional abuse.」

二番目にあるgeneral neglectが私のケースに相当することになる。

「An example of general neglect includes inadequate supervision, such as parents leaving their children unsupervised during the hours when the children are out of school.」なのであるから、赤ん坊を車の中に放置するなんて普通のアメリカ人には全く考えられないことなのである。

私は車のまわりに居た人を、最初はなんて物見高いんだろうとしか思わなかった。それはひとえに私の認識不足によるものであった。今のように携帯電話のない時代だから、誰かがわざわざスーパーの事務所に足を運び、親を呼び出すアナウンスを依頼し、そして警察に通報するという労をとってくれたのである。その親切に感謝すべきなのであった。私に状況が分かってくるにつれて、『異常』に気付いた人たちが、直ちに行動に移るコミュニティの健全さが私に深い感銘を与えることになったのである。

「親(保護者)の児童保護義務を徹底化すること。その義務を怠った親には罰則を科してまでも徹底すべきである」という私の主張のルーツがここにある。アメリカに比べてわが日本社会は余りにも親の児童保護義務に鈍感である。

買い物カートから転倒した娘と後日談

2006-08-25 17:07:25 | 海外旅行・海外生活
シュレッダー事故のニュースに、「子供、とくに乳幼児をこのような危険から遠ざけることに万全の注意を払うのは親として最小限の義務であろう」と私は昨日のブログに書いた。実はそれは親としての私の反省の言葉でもある。私の不注意で子供を酷い目に遭わせたことがあるからだ。

若い頃アメリカでの生活が始まり、土曜日は食料品買い出しデーであった。車でスーパーに一家で出かけて大きなカートに食料品をどんどん投げ込む。ほぼ一杯になればお終い、なんとか一週間はもってくれる。

買い物用のカートは大きくてどっしりしていた。取っ手側には幼児用の椅子がついていて、子供は足を穴から外に垂らして親と向かい合うように座る。いつも2歳の長女をそこに座らせていた。

ある日のこと、私がカートから手を離して長女を残したまま何か品物を見ていたときだった。ふとカートの方を見ると長女が椅子の上に立ち上がっている。危ないと思った瞬間、バランスを崩したカートがひっくり返って長女は床に叩きつけられた。頭をもろにぶつけたようで、ギャッと言って泣き叫んでいたがだんだんと声が弱くなる。まわりの買い物客が集まってくるし、店長だったかどうか、店の人が走ってきてすぐに病院へ自分の車でわれわれを連れて行ってくれた。

長女はぐたっとしたままである。前額部にたんこぶがコブシほどの大きさに膨らんでいる。救急のセクションですぐに医師が診察してくれた。検査の詳細は覚えていないが、レントゲン写真は撮ったと思う。どのような診断が下されるのか気が気でならなかった。

この長女は小さいときからお転婆で、怖さを感じなかった子供のように思う。アメリカに渡る太平洋航路の船の中でも片時も目を離すことが出来なかった。梯子でも平気で高いところへ上っていく。「これっ!」と注意するとますます面白がってハッスル始末。万が一にも太平洋に落ちることだけはないようにと、目を覚ましている間は妻か私かどちらかが絶対に目を離すことが出来なかった子供である。

買い物カートの子供用椅子の上にまさか立ち上げるとは、わたしの念頭には全くなかった。しかしなぜ立ち上がったのだろうなんて考えても答えが出てくるはずがない。子供には突発的な行動がつきもの、だから私がカートから手と目を離したのが悪かったのだ。

やがて担当の医師から頭の骨には損傷がないし、容体も悪くはない。しばらく安静にしてから連れて帰ってもよろしい、と言われて安堵の胸をなで下ろした。もし変わったことがあればすぐに連絡するようにとの注意を受け帰宅の途についた。

私は自分でも割合よく気がつく方で、用心深い性質であると思っていた。それだけにこの思いがけない事故はショックであった。危険を意識していない場面で起こったからである。しかし考えてみると、危険意識はあくまでも自分の限られた体験と知識と想像力によるもので、幼児の行動はその理解可能な範囲をいとも易々と乗り越えてしまうのである。だからこそ自分が危険と思うものに近づけないようにすると同時に、何をするのか分からない子供から目を離してはいけなかったのである。

今でもそうであるが、スーパーなどで幼児を買い物カートに乗せたままお母さんが離れて買い物をしていると、さりげなくその側に立ってお母さんが戻ってくるまで見守ることにしている。育て方がいいのか、大人しく待っている子供はほんとうに可愛い。

後日談がある。

私は転倒事故にもかかわらず娘はまともに成長してくれたと思っていた。ところが婿にいわすと時々おかしいというのである。その内容はさておき、婿が娘に「あんたがおかしい」と言うと、娘は「昔頭を打ったせい」と切り返すらしい。その話を婿が初めてしたときには私の不注意を責められているようで、なんとも申し訳のない気持ちになった。その跡が今でも残っている、と娘が婿に頭を触らせたそうである。そうすると、なるほど後頭部が火山の噴火口のように陥没していて、割れた頭蓋骨のくっつき方が悪いせいで大きな溝も残っているというのである。そんなことがあったのですかと婿が聞いても、頭が割れてくっつくなんて私は初耳だったので不思議に思っていたら、妻がそれは私の遺伝と言い切るのである。妻が婿に私の頭を触ってご覧、といって触らせたら、婿が「ほんと、一緒」と言い切る。私も知らなかったので妻の頭を触ってみた。なるほど、陥没もあるし大きな溝もある。髑髏杯にするとしっかりと糸底になるほど『外輪』があった。

これで婿も『陥没』が頭を打ったせいではないことを納得したし、また私も打った場所は後ろではなく前であることを改めて力説した。それにしても娘の頭の形をいつの間にか調べているとはさすが母親であると妙に感心したが、やはり頭の形が変わったのかと心配していたのかも知れない。

これも幸い無事に済んだから云える話である。

アメリカで乗っていたFord Falcon Futura

2006-06-19 12:22:36 | 海外旅行・海外生活

この写真の車は、40年前に渡米してNew Havenに住んでいた頃、中古で買ったFord Falcon Futuraという車である。2年間乗ったが実に手のかかる車で、それだけにペット並に愛情を注いだとも云える。なぜそんなに手のかかる車だったのか、それは車を選ぶ際の私の根拠のない思いこみにあった。

New Havenに着いてまもなく、同じ大学の同じ学部の先輩に出会った。勤務先の大手製薬会社の研究所からエール大学に派遣され家族ご一緒に住んでおられたのである。その方にお願いしてあちらこちらの中古車ディラーに連れて行っていただいた。

あるディーラーで今入ったばかりという車を勧められた。真っ赤な車でスタイルもいい。それだけで既に気持ちが動いたが、決め手となったのは女性が運転していたということであった。別に女性の残り香に惹かれたわけではなくて、女性だからマメに手入れをして丁寧に乗っていたのだろうと思ったのである。即決で買うことにした。

1000ドル以内と一応予算を決めていたので値段は確か900ドルぐらいだったと思う。しかし手持ちの現金はほとんどある事情で使い果たしていたので、給料が出るのを待っていくらかダウン・ペイメントを払い、残りは月賦にしたように思う。

ディーラーによると車は1963年モデルとのこと、まだ5年も経っていないからこれから2年間は安心して乗れるだろうと期待した。手続きが終わり車が届いたその週末はさっそく試乗に出かけた。しかし万が一トラブルがあってはいけないので、妻と二人の子供は家に残しての単独行である。

左ハンドルは初めてなので、まず慣れるために最初は家の周辺を往き来していた。しかし住宅街を少し離れるとなんと道路の走りやすいこと、それに緑が美しい。走らせているうちにだんだんと気が大きくなり、よし、いっそのことNew YorkのManhattanまで行ってやろうと思い立った。Rand McNally社のRoad Atlasは買い込んである。New Havenに来る途中にNew Yorkで汽車を乗り換える時間を利用して、既に摩天楼周辺は歩き回ったからまったく未知の場所ではない。

Manhattanでは当時「神風タクシー」の異名で知られていたイエロー・キャブにも臆せず立ち向かい、自信を身につけて意気揚々と帰宅した。片道は100マイル前後だっただろうか、家ではどこに行ったものやらと心配していたようだが、今のように携帯があるわけでもなし、連絡をとることすら考えていなかった。最初のロング・ドライブで車の調子は上々だったので、これはいい買い物だったと満足した。

「あれっ、おかしい」と思ったのは、車整備の本を眺めていたときのことである。同じ車種の1963年モデルの写真がでていたが、そのフロントグリルが横縞になっている。ところが私の車では縦縞になっている。不審に思い他の本を調べてみたが縦縞のフロントグリルはどうも1962年モデルらしいのだ。

私の対応は素早かった。免許証を交付してくれたオフィスに行き、確かに私の車が1962年モデルであることを確認した。そこで係員にアドバイスを求めてそれに従いディーラーと交渉を始めた。ディーラーはすんなりと非を認め、まず車の交換を提案した。ちょうど入ってきたダットサンの1964年モデルのワゴンでどうだという。Made in Japanに出会ったのはいいが、何となく弱々しげなのとマニュアル・トランスミッションだったので、気に入らず、100ドル返金させることで話は片付いた。

ところがこれがケチのつき始め。寒い冬に入ってまずはバッテリーを取り替えなければならなかった。それはまだいい。なんとオートマチック・トランスミッションが不調になり、rebuiltといういわゆる再生品に取り替えてこれが300ドル前後もした。さらにはショック・アブソーバーにタイア、そして極めつけはエンジンそのものを再生品に替えて出費が400ドル前後、結局購入価格程度の出費を強いられた。エンジン取り替えはこの車でコネチカット州からカリフォルニア州まで大陸横断した無理がきいたのかもしれない。

大陸横断の最中もアルバカーキーの山中で冷却水のホースが破裂して、ボンネットからもうもうと湯気が噴出してびっくりしたものの、ちょうど下り坂を惰性で転がりおりて止まったところがガレージだったりして助かったこともあった。またハイウエイで冷却用のファンが空回りをしたせいで加熱され、噴出したエンジンオイルがブレーキに入り込み、ハイウエイから外にでるべく踏んだブレーキが途端片効きでで車が180度回転したりするような経験もした。エンジンを取り替えてからは極めて快適に走り運転を楽しめたが、早々と帰国が迫ってきた。新聞広告を出したらすぐに買い手がついた。その年式の相場価格だったから4、500ドルぐらいだったと思うが、絶対のお買い得品であったと思う。私にとってはとんだ金食い虫だった。

いろいろとトラブルに見舞われているうちに、こういう話を聞いた。どのアメリカ人(男性)もいうのである、「女の乗った車は絶対に買うものではない」と。もともと日本の車検のような制度はないので、自分で手入れは一切しない。とにかくメインテナンスという意識がなくて、とことん乗り回して調子が悪くなると売り払う。それを知らずに、女性だから丁寧に乗っているだろうと勝手に希望的観測をした私が悪かったのである。あれから40年、女性の意識も少しは変わっただろうか。

悪女の深情けというか、私が帰国後もサンタ・バーバラの裁判所から駐車違反の罰金を払えと督促状が送られてきた。私の車を買った人が名義変更をせずにそのまま乗り回して駐車違反をしたらしい。パスポートの入出国記録のコピーを裁判所に送り既に私は帰国していたことを申し述べた。その後は督促もなく、これでわが『愛車』との縁は切れたが、コネチカット時代のナンバープレートを今も手元に残している。



このFalcon Futuraはその後米国で爆発的に売れたMustangという車種のプロとモデルになっており、デザインのいろんな部分と車体部品自体がMustangの最初のモデルに転用されたことでも知られている。1970年代には製造中止となったが、初代から50年経って再びFuturaブランドが復活したらしい。最近のニュースで知った。

さくら丸で神戸を出航

2005-07-10 17:47:58 | 海外旅行・海外生活

雨の日曜日、外に出る気もしないのでふだん手を出しかねている『がらくた箱』の一つを開けてみた。亡父が残したフィルムなどが入っている。白黒のネガなので見づらいがテープの沢山垂れ下がったような光景が何駒も続いている。どうも私たちが1966年7月に渡米したときの神戸港での出航風景らしい。そこでスキャナーで取り込むことにした。写真はかれこれ40年前のものである。写っている人物は本人でも自分だとは分からないだろうからてを加えずにご覧に入れることにする。

神戸港の第四突堤は上屋のない頃で埠頭からタラップで乗船した。その辺りの様子がこの写真からうかがわれる。



乗り込んだのが『さくら丸』、Mitsui OSK Linesが運航していたことが分かる。



出航の際は私一人だけが甲板に出ていた。妻は二人の幼児をかかえて船室に残っていた。先がどうなることやらさっぱり様子も分からないのに、屈託もなげにひときわ表情の明るいのが私である。やがて『深刻な問題』に対面することなど夢にも思っていなかったのである。



『がらくた箱』の中に縁がすり切れて中身の出かかった封筒があった。その中にどうしたことか『さくら丸』の食事メニューが一片紛れこんでいた。今から見てもなかなか豪華な食事である。なんせこれがお昼のランチなのだから夜のディナーは推して知るべし。それにお茶の時間が午前と午後にあった。

引き揚げ船『こがね丸』で荒波の玄界灘を渡ったときもそうであったが、この『さくら丸』の全航程で私は船酔いに悩まされることもなく極めて快適であった。ところが私より鈍感であるはずの妻が横浜を出航間もなく船酔いにかかり気分が悪いと訴える。やむを得ず私が子供二人を連れて食堂に出かけることも再々あった。

妻は医務室を訪れて酔い止めの薬を貰った。同じように船酔いにかかった船客が徐々に元気を回復してきても妻の容体は一向に良くならない。ところがある日医務室から帰ってきた妻が薬を飲まないように、と医者に言われたとのこと。なんと船酔いが長引くのはひょっとしてつわりのせいではないか、というのである。これが『深刻な問題』の発端であった。

1958年に西ドイツで開発されたサリドマイドという薬品は、妊婦のつわりを緩和して安眠を約束するはずのものであった。ところが1961年11月、西ドイツの小児科医レンツ博士がサリドマイドの副作用で奇形児が生まれる可能性があるとの警告を発したのである。これを切っ掛けに、西ドイツをはじめヨーロッパの諸国では即座に薬剤の製造中止と製品回収が行われた。ところで日本ではその対策が遅れ(この時も後手後手の厚生省であった)、サリドマイド剤である睡眠薬(イソミン)を製造元の大日本製薬が製造、出荷中止したのは1962年5月であった。そして日本でサリドマイドの副作用により約900人の奇形児が生まれたのである。

私どもが日本を離れる前にはサリドマイド奇形児が大きな社会問題になっていた。従って妊婦に対して投与する薬剤の副作用については用心の上用心を重ねても注意のし過ぎということはない。だからたとえ短期間といえども酔い止めに睡眠薬を服用していたので、妻の妊娠が確実になってからは出産まで心の澱は消えなかった。

乗船して間もなく船医を紹介され専門が産婦人科と聞いて、そんな先生がまたなぜこの船に、なんて妻と冗談話にしていたのに、その一番の恩恵を受けたのは私たちであったようである。お陰様で翌3月五体満足な息子をアメリカの地で授かった。

今でも妻は『さくら丸』の食事を心ゆくまで味わえなかったことを託つ。
このメニューをだから見せるわけにはいかない。

ラッセル・スクエア地下鉄駅

2005-07-09 13:44:37 | 海外旅行・海外生活

七夕の日の朝、ロンドンで同時多発テロが発生した。あたかもエディンバラの近くでサミットが始まったばかりで、その時期が狙われたようである。地下鉄、バスの交通機関がターゲットになり爆発の起こった場所がテレビで報じられる中、ラッセル・スクエア駅の名前がテレビ画面に現れた時には胃の腑に鉛の棒を突っ込まれた思いがした。この駅が私を初めてロンドンに導いてくれたからである。

1976年にヨーロッパを一ヶ月かけて訪れることになった。その年の夏アメリカ、ニューヨーク州の州都オルバニに四ヶ月滞在していたが、その間を利用してのヨーロッパ訪問であった。費用節約のために飛行機は調べた限り一番安いアイスランド航空を選んだ。ニューヨークからアイスランドのレイキャビクを中継してルクセンブルグに到る、その往復である。ヨーロッパ内の移動は汽車の旅に憧れていたので贅沢ではあるがユーレイルパスを使うことにしたが、宿は安上がりのところを探すことにして「1日10ドルのヨーロッパ」なる『案内書』を購入、それを頼りとにした。予約もなしに直接訪ねての『真剣勝負』であった。

ロンドンで先ず訪れたいのが大英博物館であった。そこでじっくりと時間を過ごしたい。となると宿もその近くがいい。『案内書』を見ると有難いことに大英博物館周辺は安ホテルが集中していることで有名らしい。『たぐいまれな魅力のあるCartwright Gardens』が私の目を捉えた。通りの突き当たりが樹木で囲われた広場になっていて、ロンドン大学に属するテニスコートと一緒に19世紀に建てられたタウンハウスが2ブロック、半月状に立ち並んでいると言うのである、いわゆるB&Bで、大英博物館までは1km前後は離れているが徒歩で10分程度なのでそこを宿泊予定地とした。



このCartwright Gardensに一番近そうな地下鉄駅がラッセル・スクエア駅であった。ドーバー海峡をフェリーで渡り、ユーレイルパスの効かない英国鉄道で着いたのがヴィクトリア駅ではなかったかと思う。地下鉄に乗り換えラッセル・スクエア駅に無事到着、目指すCartwright Gardensで幸いチェックインすることが出来た。ホテルの名前はCrescent Hotel、シングルが一泊4ポンドもしくは$8.40であった。1日10ドルではあと食事を抜かないといけないがそれは『案内書』のお愛嬌というものであろう。

ホテルから大英博物館には何日か通った。その途中、通り抜けたのがラッセル・スクエア公園。ロンドンでも最も大きなスクエアで頑丈なベンチがあちらこちらに置かれているのでぼんやりと時間を潰すにはもってこいの場所であった。詩人T.S.Elliotが1965年までの40年間、しばしば此処を訪れたとのこと、近くの出版社に出入りしていたらしい。東側にはヴィクトリア朝時代を代表する建造物であるRessel Hotelが偉容を誇っていたが、私はただの通行人、中を通り抜けるだけであった。

ロンドンに初めて滞在したときの印象に囚われたというか、その後何回となくロンドンを訪れたがこの周辺に泊まるのが習性のようになった。Cartwright Gardensに戻ってきたこともあるが、いつの間にかMontage Street沿いのホテルを予約するように私も変わってきた。そして大英博物館周辺の徘徊を楽しんではラッセル・スクエア駅に足を伸ばすのであった。この駅から私のロンドンへの、さらには英国への道が始まっただけにひとしおの思いがあったからである。

ラッセル・スクエア駅に初めて着いて地上に出ようとするとエレベーターしかなかったのに戸惑った。2基か3基だったか乗降口に密集した乗客が巨大なスペースのエレベーターに吸い込まれていく。地上に着いたら入り口と反対側のドアが開いて出て行く。乗降客が多い駅とみえてガラガラの時はなかった。かなり深いところにプラットフォームがあるとみえてエスカレーターは最初から考えられていなかったのであろう。それで一度酷い目にあったことがある。

ヒースロー空港に出るために大きなスーツケースを持って駅までやって来たところいつもと様子が違う。入り口がごった返しているので様子を確かめたところなんとエレベーターが動かないというのである。地下鉄に乗りたければ非常階段を使えとのことで仕方なしに横の扉から前の人に続いて入るとなんとこれが狭い狭い螺旋階段である。一瞬ひるんだが「エイッ」とばかりにスーツケースを片手に降り始めた。しばらく降りては休んで後ろの人に先に行って貰い、なんてことを繰り返し繰り返しようようの思いで下まで降りたがなんと長かったこと。優にビルの5、6階分はあったのではなかろうか。これが降りる方だからよかったものの、もし登る方なら完全にグロッキーになっていただろうと恐ろしく思った。

テロ攻撃でラッセル・スクエア駅での状況がどうなのか、もうひとつはっきりと伝わってこない。駅間で車両が爆破されて犠牲者が駅へ、そして地上へ運び出されているのだろうか。せめてエレベーターだけは正常に動いていて救助活動に支障を来さないようにとただ祈るのみである。

『ゴッホ展』にアルルを想う

2005-07-08 14:50:21 | 海外旅行・海外生活

アルルはゴッホにとって特別の土地であったようだ。
1882年2月下旬にアルルに着いてから友人や近親者に送った手紙にこのようなくだりがある。

「この地方が空気の透明さと明るい色彩の効果のために僕には日本のように美しく見える」
《アルル近郊の花畑》が「まるで日本の夢のようだ」
「僕はここで日本にいるのだ、といつもそう思っている」(van Gogh in Contextから)

日本浮世絵の明るい色彩が南仏アルルでは満ちあふれていたのだろう。

一方アルルはゴッホにとって芸術家のユートピアを実現するところでもあった。芸術家が集団で制作しながらお互いの生活を支え合う共同体の拠点が《黄色い家》で知られる家屋であった。ここでゴッホは傾倒するゴーギャンと共同生活を始めるがあの『耳切り事件』でその生活ははやくも壊れる。二ヶ月少々の日々であった。

そのアルルを私が訪れたのは2002年4月、アヴィニョンに数日滞在してそこから列車での日帰り小旅行であった。お目当ての一つが《夜のカフェテラス》のモデルとなったカフェで、観光案内所で貰った案内図と磁石を頼りに探すことにした。この観光案内図なるもの、無料で貰って注文をつけるのもなんであるが、国外であろうと国内であろうと適当に描かれているのが多くてあまり役に立たない。通りの名前から地図上での位置を見つけだすのも難しいし、地図から実際の通りを見つけるのも難しい。地図では通り、小道が結構省かれ
ているし、また距離表示が正確からほど遠いことが多いからである。

それでもCAFE VAN GOGHをなんとか探し当て、お昼時でもあったので昼食を摂ることにした。



ここでちょっとしたハプニングがあった。妻とそれぞれ違う料理を注文したが、その一つが注文と違ってしかも値段の高いのを持ってきている。ウエイトレスに間違いを指摘しても「間違っていない」と言い張る。そこでオーダーしたときのやりとりを再現してようやく彼女が間違っていたことを認めさせた。となると私も日本紳士、せっかく持ってきたのだからそれでいいよ、と鷹揚に頷いたのである。「メルシー」としおらしくなった彼女、そしていざ勘定を済まようとするとなんと最初に注文した安い方の値段で計算している。自分の勘違いに気づいたらそのあとの態度が潔い。『アルルの娘』の素直さに心を打たれたのでチップにその差額を上乗せして店を出た。

お目当てのもう一つは《アルルの病院の中庭》である。ゴッホが自分で耳たぶを切ったあと療養生活を送った病院あとで、ここは簡単に見つかった。中庭を取り囲むように回廊があって、そこに土産物店を始めいろんな店が入っている。中庭は《アルルの病院の中庭》に従って復元されたようで、その出来映えを絵の『複製』と比較して確かめることが出来る。



実は跳ね橋で知られる《ラングロワの橋》がアルルの郊外にあって行ってみたかった。アルルの鉄道駅からタクシーで行けないこともなかったが、列車の時間がギリギリになりそうなので慌ただしく訪れるところでもあるまい、といさぎよく断念した。

《夜のカフェテラス》を所蔵するクレラー・ミュラー美術館はアムステルダムから鉄道で2時間余りのところにある。これまで訪れるチャンスがなかったが、今回のゴッホ展にこの美術館からゴッホアルル時代の作品がほかにも《種まく人》《公園の小道》《ミリエの肖像》《子守女(ルーラン夫人の肖像》と出品されているのが嬉しかった。《夜のカフェテラス》とのご対面はわれわれミーハー夫婦にとってこたえられない出来事であったのである。

さらにはサン=レミ郊外の療養所時代の作品もクレラー・ミュラー美術館から出展されており、ゴッホ晩年の緑と青の鮮やかな色彩を堪能できたのが大きな収穫であった。

さくら丸の船中にて  澤田美喜さんのフラダンス

2005-04-04 18:42:34 | 海外旅行・海外生活

さくら丸は神戸の第四突堤に停泊していた。その頃は現在あるような立派な上屋はなく、岸壁からタラップを上って乗船した。恩師、先輩、同僚、友人、家族の見送りを受けて旅だったものの直接米国に向かうのではなく、一旦横浜に寄港するのである。私は船が日本を離れるまでに投稿予定の英文原稿を仕上げるべく、オリンピアのポータブル・タイプライターを船室に持ち込み、時間と戦っていた。横浜には2泊ぐらいしただろうか、その間、妻の両親が別途汽車で横浜までやってきて、妻子を街に連れ出してくれたので仕事が捗り、なんとか原稿を送り出すことが出来た。

横浜を出航したさくら丸が向かう次の寄港地はハワイのホノルルである。日本領海を離れると船内のバーではその頃高価だったアルコール飲料が無税で供されるので、喜び勇んで出向いた人も多かったが、下戸の私には縁のないことであった。食事は朝、昼、夕と食堂で供される。航海中テーブルはあらかじめ決められており、私たち四人家族のホストを務めてくださったのは中島機関長であった。温厚な方で、海のものとも山のものとも分からぬアメリカ行きに緊張しているわれわれ家族を暖かくもてなしてくださったことが思い出に残る。写真はその時の一光景である。

朝食のフルーツに夏みかんのようなものが半分に切って出されたことがある。それが今朝も口にしたグレープフルーツとの初めての出会いであった。そのグレープフルーツは非常に酸っぱくて一口入れただけで、口がひん曲がりそうになった。教えられるままにグラニュー糖をたっぷりまぶしてようやく口にすることが出来、この習慣はアメリカに滞在中続いた。現在食卓に上がる甘いグレープフルーツを味わうとまさに隔世の感がある。しかし息子たちは未だに砂糖を振りかけるのである。

航海中に娘の2歳の誕生日を迎え、大きなバースデーケーキで祝っていただいた。外国人で既に誕生日を同じように祝われた方がいたので、そのときの真似をしてまわりのテーブルにケーキを小分けして配ったりした。なにやかや船旅のマナーを見よう見まねで習得していったのも今となると懐かしく思い出される。夕食ともなると必ずネクタイ着用でそれなりに気が引き締まった。幼い息子と娘であったが、日頃の躾が効を奏したというか、物怖じすることなく椅子に腰を下ろして一人で食べるのに目を見張ったことであった。

食事の間には乗客は思い思いに時間を潰していた。デッキをジョギングしたり歩き回ったりするほかに卓球や輪投げなどがあった。輪投げで少し手元が狂うと投げ輪が太平洋に飛び込んでしまう。私もその一人であったが、そうそうに投げ輪が姿を消してしまった。キャンバス地で出来た即席プールに水が張られ水遊びをすることもあったし、デッキチェアーに身を委ね大海原を飽かず眺めるのも一興であった。

船が主催するビンゴ大会では一等賞を獲得したし、家ではやったことのなかった盆踊り大会にも加わって、見よう見まねの手振り足振りを楽しんだりした。映画の上映もあり船客を退屈させない為の盛り沢山な催しがあった。

ある日、下のエコノミー・クラスのデッキで演芸大会があるというので覗きに降りた。南米移民の船客が大部を占めていたのだろうか、今でいうコンテナーを積み重ねたように見える天幕地で仕切られた蚕棚ベッドが一面に設けられていた。舞台がそのデッキの一郭に作られてそこで演芸が披露されたのである。

はっきりと記憶に残っている出し物の一つが寸劇で、上の船室ではシャワーに真水が出てくるのにエコノミーでは海水で塩辛い、とか云った内容のものだった。かねてから船では等級での区別がはっきりしているとは云われていたが、それは戦前のことのように漠然と聞き流していた。ところがプロムナード・デッキは一等船客用とか、それなりに差別があるので『戦後の民主主義教育』を受けた身には少しこたえていたのである。まあ船室に違いがあるのは料金の違いと割り切ればそれまでだったが、真水に塩水の対比は少しこたえた。

もう一つ記憶に残っているのがフラダンスで、結構年配の女性がハワイアン・ダンスの衣装を身にまとい極めて優雅にそして素人離れした踊りを披露したのである。達者な人だなと感心していたら近くの話し声が耳に入ってきた。あのダンサーは澤田美喜さんだというのである。あのエリザベス・サンダース。ホームの?と確かめたら間違いなくそのご本人であった。

澤田美喜さんは戦前の大財閥の一つ、三菱財閥の創始者岩崎弥太郎氏の孫として生まれて、後に国連大使となった外交官の澤田廉三氏と結婚、戦前の華やかな外交官生活を経験された方である。戦後、占領軍兵士と日本女性の間に生まれそして捨てられた混血孤児を育てるべく、私財を擲ってエリザベス・サンダースホームと名付けられた養育施設を創立したのである。世間の無理解と偏見と闘いながらも2000人といわれる混血孤児を育て上げられたあの澤田美喜さんが、ブラジルに移住する孤児たちと一緒に蚕棚ベッドのあるエコノミー船室で寝食を共にされていたのである。

かれこれ40年経った現在でも、彼女のそのときの舞姿を思い描くと感動を覚える。戦後の混乱に左右されることなく、戦前のよきエリートのノブレス・オブリージを自らの行動で示された澤田美喜という日本女性の気高さに心が打たれるからである。

エコノミー船室で過ごしたのは僅かな時間であったが、私ごときにわか一等船客が小さく見窄らしく思えてきたひとときであった。。