日々是好日

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前原誠司外相と高坂節三著「昭和の宿命を見つめる眼」

2011-03-06 12:54:03 | 読書
今朝の朝日新聞第一面は「前原外相、辞任を示唆 外国人献金 首相、慰留の構え」であった。前原外相と言えば民主党代表であった2006年、いわゆる偽メール事件で代表辞任を経験した人である。政界で足をすくわれることの恐ろしさを身を以て体験し、何かを学んだことであろうと思っていたのに、またもや在日外国人からの政治献金を巡って国会で追求される羽目になった。この事態を招いたということだけで政治家としての資質が疑われても仕方があるまい。もう一度最初から出直した方がよい。地元京都の達磨寺(法輪寺)で「七転び八起き」のエネルギーを授けて貰へばいかがだろう。

この前原外相と関連して朝日朝刊の社会面二カ所に高坂節三氏の名前が登場していた。この記事二つを並べてみるとどのようなお方なのかが分かる。



実は私はこの方の次の本を読んでとても感銘を受けた覚えがある。2000年12月にPHP研究所から出版されたもので、1996年に亡くなった兄の高坂正堯氏のことに触れて「はしがき」に次のような一文がある。この本のあらましがお分かりいただけよう。


 兄が第一線を引退したら書きたかったというわれわれの生きてきた時代、「昭和」の時代も、だんだん遠くになって来、その中で当然ふれてくれたであろう父の生き方、大東亜戦争の意味等を身近に教えてくれる人もほとんど居られなくなり、私自身も兄の年齢を超え、父の亡くなった年に近づこうとしている。
 兄は生前、父の仕事を含め、家庭的なことをあまり発言しなかったこともあり、何人かの兄の知人から、父と兄のことについて書き残してはとのお誘いを受けた。
 実業界に身を置く私がどれだけ父や兄の考えを捉えられるか、もとより自信などがあろうはずがない。しかし、父と兄への旅として、そして自分自身を見つめ直す旅として、父や兄の書き物、そして父や兄との会話を想い起こしてまとめてみたものである。

何を思ってか20カ所以上に付箋を残しているが、たとえばこのようなくだりがある。

 父に的確なアドバイスを与えたように、西田幾多郎が的を射た助言で若き哲学徒を教導したというエピソードは、実はけっして珍しい話では無い。綺羅星のごとき西田門下生たちが、それぞれの著書でそれぞれに書き記していることである。これは西田幾多郎が類いまれなる教育者であり、同時に子弟に対してきめ細かな愛情を注ぐ人柄であったからこそできたことであろう。
 当然のことながら、弟子たちの師に対する畏敬の念はいやがおうにも深まっていく。後年、”京都学派”と呼ばれる一大学脈が形成されるのは、子弟にきめ細かな愛情を注ぐ西田の人柄と、人間としての包容力の大きさを抜きにしては考えられないことである。(55ページ)

父とは西田門下の高坂正顕氏のことである。

 これについて父は『西田幾多郎と和辻哲郎』のなかでこう書いている。
<先生(西田幾多郎・筆者注)には人を見る明があった。また大学の人事などについては実に慎重であった。(中略)講師からそのまま助教授に昇進させるようなことはなく、一度は外に出し、言わば他流試合をさせた上で、京都に帰って貰うのが普通であった。大学教授の位置というものは、あくまで公のものであり、私すべきものではないという考えがその根柢にあったのだと思う>と。(92ページ)

人事の話が後にも出てくる。

 昭和三十二年(一九五七年)三月、兄・正堯と京都大学法学部を卒業した。ふつうなら大学院に進み、その後に講師あるいは助手になることから始まるのであるのだが、兄の場合は学部卒業と同時にいきなり助手として採用され、二年後には早くも助教授になったしまうのである。
 なぜ、そういうふうになったのかといえば、戦後の日本は国際化が一つの国家目標になった。そこで東京大学法学部に国際政治科がが創設されたが、同じ学科を京都大学にもつくろうという話が持ち上がった。そして、とりあえず教授については田岡教授が兼任で務めることで昭和三十四年、法学部のなかに国際政治学科が新設された。
 そうなると、では助教授をどうするかという話になる。このとき白羽の矢が立ったのが兄・正堯だった。非常に運がよかったのである。田岡先生は父に「教授になるのに少し時間がかかるだろうが辛抱してくれ」と話したそうである。

今の人から見るとあれっと思うようなことも書かれているが、ふるきよき時代の一端が顔をのぞかせていると寛容に受け取って頂きたいものである。

その翌年(昭和三十五年)から正堯氏はハーバード大学に二年間留学し、帰国後「中央公論」昭和三十八年一月号の巻頭論文「現実主義者の平和論」で論壇に華々しく登場したのである。昭和四十三年に刊行された『宰相吉田茂』が一つの切っ掛けになって、正堯氏が大磯の吉田邸に招かれて5時間も吉田茂と話し込むほど気に入られたという話が出てくる。それが佐藤内閣のブレーンとしての活動に繋がった。高坂正堯氏の教え子である前原外相の淵源がこのような歴史の流れのなかにあるのかと思うと、師とくらぶべきもないが前原外相に人間としての重みを感じられないのが残念である。ぜひ修養を深めていただきたいものである。

高坂節三氏のこの本は、氏の身についた哲学談義に私は啓発されることが多かった。図書館には備えられているだろうから昔を懐かしむ人にはもちろん、学問と生きた政治の世界とのかかわりに関心を持つ若い人々にも一読をお勧めする。




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