木村正治のデイリーコラム

木村正治(きむらまさはる)が世の中の様々な事項について思う事や感じた事を徒然に綴っています。

土井晩翠の旧家を訪ねて荒城の月の背景を知る

2023-03-20 21:11:03 | 随想
 仙台にて私の講演会が行われた事に際して
仙台市内に滞在している。
 講演会の模様は後日改めて投稿する事にして
今回は仙台での時間を述べてみたい。

 週末に仙台の晩翠堂を訪れ管理人の方としばし
語り合った。
 仙台は土井晩翠が過ごした地で土井晩翠が永眠
した時のベッドや布団が当時のまま保存されている。
 管理人と語り合ううちに唱歌「荒城の月」の作詞
の背景の疑問が解けた。
 若い頃から知りたかった答えである。

 荒城の月の作詞者である土井晩翠だが会津若松鶴ヶ城
の荒れた様を嘆いて往古を偲んだ詩だという説と仙台の
青葉城址に佇んで往古を偲んだという説とがある。
 どちらが本当なのだろうかと若い頃から私は疑問に
思っていた。
 答えは両方だとの事である。

 戊辰戦争で壊滅した会津若松はその後、薩摩長州政府の
方針で城も一切手を加える事が許されず荒れるに任せていた。
 草が茂り弾痕や戦跡の残る荒れ果てた会津若松鶴ヶ城を
訪れた土井晩翠。
 ふと朽ちかけた天守閣の中に入ると壁に矢じりで刻まれた
歌があった。

 明日の夜は いずくの誰か 眺むらん
 慣れしお城に 残る月影

 これは会津藩が薩摩長州に降伏し落城が決まった夜、
血潮に塗れた中で屈辱のすすり泣きが絶えない城内で
会津藩女性戦士だった山本八重が無念の思いを刻んだ
歌であった。
 これを見た土井晩翠がこれぞ荒城、と着想を得て荒城
にかかる月夜の情景を作詞したというのだ。
 これと併せて土井晩翠の地元仙台の青葉城址にもよく
登っていた事で、同じく廃城になった青葉城址の寂れた
姿をも併せて日本人の唱歌・荒城の月は生まれたという
のが真相であった。

 同志社大学卒業生の私は管理人の口から同志社大学
設立のために新島襄と共に奔走した妻の新島八重、旧姓
山本八重の名前が出た時には鳥肌が立った。
 何というシンクロニシティーかと。
 同志社大学卒業生でもこれは知らないですよと管理人
に伝えたら喜んでいた。

 実はこの日の先日の仙台講演会後の懇親会でカラオケに
も皆様と行き、私は堀内孝雄の「愛しき日々」を熱唱し
間奏の時にマイクで山本八重が城の壁に刻んだこの詩を
述べたのだった。
 その翌朝にふらりと入った土井晩翠の旧家で管理人の
口から山本八重が城壁に刻んだこの詩を聞くとは素晴らしい
シンクロニシティーである。

 土井晩翠が臨終を迎えた当時のままのベッドに深く一礼を
して旧家を後にした。

  ~荒城の月~

春 高楼の 花の宴
めぐる盃 かげさして
千代の松が枝 わけ出でし
むかしの光 いまいずこ

秋 陣営の 霜の色
鳴きゆく雁の 数見せて
植うる剣に 照りそいし
むかしの光 いまいずこ

今 荒城の 夜半の月
かわらぬ光 誰がためぞ
垣に残るは ただかつら
松にうたうは ただ嵐

天上 影は 変わらねど
栄枯は移る 世のすがた
写さんとてか 今もなお
ああ荒城の 夜半の月
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1 コメント

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Unknown (三毛猫)
2023-03-22 00:26:51
今晩は。
土井晩翠の苗字は、「つちい」ですが、有名になると「どい」と呼ばれる様になった為、自らも「どい」と名乗る様になったとか。

晩翠が、1646年に会津で講演した際、荒城の月のモデルは、若松城である事を話しています。

八重の詩も晩翠の歌詞も心打たれます。
晩翠の令嬢は、中野好夫夫人となりましたが、中野氏は、晩翠の人柄について「高潔で慈味に富んだ温厚な人柄」だと言っています。
晩翠の詩は、日常の生活や恋愛とは無関係で、
高い教養によって、漢詩、西洋詩の伝統に根ざしており、栄枯盛衰の叙事詩の系列を正統に受け継ごうとしたものでした。
戦後、漢詩の文化が、廃れ行く中で、品格の高い文化人として敬愛されてきました。

私は、晩翠の「天地有情」の中の「星と花」が好きです。

同じ父の御元に産まれた山本みねと山本久栄は、姉が、1888年27歳で死去し、妹は、父山本覚馬死去の翌年に23歳で死去しました。

私は、八重の事は、好きにはなれません。
天才的な、兄覚馬がいなければ、八重の名は、歴史に残らなかったでしょう。
覚馬の後妻時栄とその娘久栄の事を想えば、不憫であり、歩く事も見る事も出来なくなった晩年の覚馬の気持ちや覚馬を13歳から介護し続けた後妻の気持ちに寄り添ってみたくなるのです。
「什の掟」には、不倫の項目は、無かったが、キリスト教に感化された八重には、どうしても赦す事が、出来なかったのかもしれません。
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