川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

眠くて仕事にならん午後

2005-07-15 15:19:56 | 日々のわざ
なんでこんなに眠たいんだ。
キーボードをたたいては、うつらうつら。

これから駅前の喫茶店へ。
めずらしく日本テレビの人と会う予定。
きっとそのころには目がさめてるはずなんだが……。

アイドリングの時間が長い。なんかやなかんじである。


6パーセントって、おいおい……

2005-07-15 14:03:48 | サッカーとか、スポーツ一般
巨人戦の視聴率が6パーセント……。
ゴールデンタイムだよ、これ。同じ時間帯のテレビ東京が10.4パーセント。

むかし、「振り向けばテレ東」なんて業界ジョークがあったけど、今は「振り向けば日テレ」か……。

しかし、ここまでダメになっていいのか。まあ、ゴールデンタイムの放送ソフトとして不敵になるくらい落ち込んでも悪いわけじゃないんだけど、野球はマイナースポーツにはなってはいかんだろ。

まったくひどい話だ。
なにがひどいって、この期におよんで、また「補強」で巨人軍を「再建」しようとしているらしい某出戻りボスだな。カブレラが来て、谷が来て、多少は勝っても、どうなるの、というかんじ。


究極のロースコアゲーム

2005-07-15 05:59:41 | サッカーとか、スポーツ一般
先日、日本サッカー協会の田島幸三さん(技術委員長)のお話しを伺いに行って、たいへん刺激を受けた。
それで、感じたのだけれど、ぼくが描くサッカー小説のコアなコンセプトは、「サッカーの本質」。

ただ、「本質」といってもいろいろな側面があって、ぼくが特に注目しているのは、サッカーがかくも多くの地域、人々にによってプレーされる、普遍的な競技たり得ているか、という部分。

いつぞや、考察した文章があるので、こいつも再録。ちなみに、EURO2004のグループリーグの頃に書いたものです。



究極のロースコアゲーム

サッカーがなぜ、これほど世界的にプレーされて、みんなに愛されているのか、ということについての私見。

よく言われるのは特別な道具もなしに、ボール一個で(時にはボロぞうきんを丸めた擬似ボールで代用してもオーケイ)遊べるから、貧しい地域でも問題なく普及したなんてのがありますよね。キャプテン翼でも、そんなこと書いてあったような。
それはたぶん本当です。
でも、それだけじゃないです。

ぼくが考える本質的な部分というのは、サッカーは究極のロースコアゲームだから、ということなのです。
言葉を換えると、「サッカーは実力差圧縮システムを高度に実装した競技」であるということ。

順を追って説明しますね。
まず、サッカーって、ロースコアになるように、あの手この手で誘導されていると思いませんか。
広いピッチ。手に比べたら思うようにはならない足だけでボールを運ぶルール。オフサイドの存在、などなど。
もしも、点が入った方が楽しいという発想を優先させるなら、サッカー協会はオフサイドをなくすとか、ゴールを大きくするとか、いろいろやり方があるはずなのです。水球やハンドボールなら、ゴール前でフリーでボールを持たれてシュートを打たれたものは、まず入る方が多いですよね。サッカーは逆です。フリーで打ってさえ、枠を外したりする方が多い。ゴールが決まること自体が球技の喜びであるなら、サッカーは、なんらかの手を打って、もっと点が入る仕組みを考えるべきでしょう。

でも、そういうことしませんよね。サッカーはロースコアでよい、ということなのです。サッカー協会の歴代幹部たちは、意識的かどうか分からないけれど、そういう選択をしてきました。

で、ロースコアだとどうなるか、ですよね。
1対0や0対0が常態であるような球技って、いわば究極のロースコア競技であるわけですけど、これがすなわち「実力差の圧縮」の仕組みとして働くんです。
なぜなら、統計性が出ない、から。
実力差が、ある個別の試合の結果に、直接的に反映しにくいという意味で。

たとえばバスケで100点を取る実力のチームと50点しから得点できない実力のチーム(どうやって「実力」を計るかはおいといて)が対戦すれば、だいだいそれくらいのスコアに落ち着いて、決着がつきます。
でも、サッカーでは違いますよね。
50点チームの方がたまたま先に点を取ってしまったら、守備を固めて逃げ切り、なんてことも可能だし、ごく日常的にぼくたちはそういうゲームを見ています。

バスケで能代工がレイカーズと対戦したとします。100回戦っても、一度も勝てないでしょう。
サッカーで国見高がレアルと対戦したとします。100回戦って、勝てるかどうかは分からないけど、なにかの拍子に引き分けたりすることはあるかもしれません。
それがサッカーです。

ユーロで言えば、フランス代表って実はすごく強いのかもしれないと思います。
これがバスケなら、下馬評の通りグングン勝ち進んで、必ず決勝まで行くでしょう。
でも、サッカーだとグループリーグ敗退もありえるのです。
なぜなら、一回の試合の中で実力差を反映した結果を期待できないから。試合をたくさんやったとして、フランスが100点とる間に、相手は50点しかとれない、というような形でしか統計性が出てこないから。

こういったことが、ぼくがいう「実力差圧縮のシステム」です。

話は一番最初ところに戻ります。
実力差が圧縮されるとどうなるか。
ユーロであれ、ワールドカップであれ、参加するすべてのチームに下克上を狙える余地があるということです。
めちゃくちゃ弱いチームでも大きな大会の予選を勝ち抜いて、優勝候補に一泡吹かせることができるかもしれない。
例えば今回で言えば、ラトビアですね。
サッカー協会ができてそれほど間もない小国で、実際のプレー内容も貧弱なのに、チェコをあれだけ苦しめる。ぼくは正直、彼らがトルコに勝ったことが不思議です。でも、それが実際に起きて、彼らはここにいる。
W杯予選で、FIFAランクがめちゃくちゃひくいフィジーだったかトンガだったかが、韓国代表と引き分けるなんてのも最近ありましたね。それも全然、不思議じゃないですよね。
本物のワールドクラスになるのは難しくても、大会に参加して勝利を夢見てもバチが当たらない水準には比較的容易に達することができるのは、この実力差圧縮システムのおかげ、というわけです。
ユーロだって、ワールドカップだって、参加した国は、それぞれ「夢を持てる」んです。
よく「ユーロは実力が拮抗しているから何が起こるか分からない」というけれど、ぼくはサッカーの内容などを見ているとやはり相当な実力差があり、もしもバスケのようなハイスコアゲームなら、「拮抗している」とはとても言えないものだと思います。ユーロの拮抗の魅力は、実力差圧縮の仕組みによっていると思うのです。
すべての人が、夢を見て良い。競技、ということなんですね。
最初に書いた、手軽に遊べるという側面とあいまって、サッカーが普及していく要因になっていると思うのですよ。

以上、力こぶが入った割には、雑な説明になっちゃった、かな。
でも、とても本質的なことだと思うので、書いておきました。

ハリー・ポッターのアンチ・キリスト教

2005-07-14 20:24:20 | ひとが書いたもの
リンク: Yahoo!ニュース
- ロイター - ローマ法王、「ハリー・ポッター」に批判的見解
.゛

ヤフーニュースでこういうのがある。たぶんすぐ消えちゃうんだろうけど、リンク。
ロマー法王がわざわざ「同作品は、気づかぬうちに作用する巧妙な誘惑であり、それ故に、魂に宿るキリスト教精神が正しく育まれる前に大いに歪められてしまう」と述べる部分はどこなのか、知りたい気がする。

実は何年か前、下のような読書エッセイを書いたことがあるので、再録。


 ハリーと指輪
 ハリー・ポッターについて、書評で「現代に則した魔法物語」と書いたことがある。ゲーム感覚でさくさく進むエピソードや、ウェブサイトを思わせる「日刊予言者新聞」など、「今風」の要素が作中に溢れていることが第一の理由。それに加えて、ハリーの世界で描かれる魔法が、とことん「世俗っぽい」ものだということが大きい。
「指輪物語」と比べてみればよい。「中つ国」では、魔法は限られた種族にだけ許された神聖な能力だ。古来より伝承される叡智であり、古文書などから発掘されることはあっても、新たに発明されはしない。一方、「ハリー」の世界では、近代の科学技術に似たテクノロジーとして魔法が描かれる。学校で学習でき、研究によって革新もできる。例えば、ホグワーツ校の校長ダンブルドアは、「ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見」(発見、に傍点)で有名だし、錬金術の共同研究にも手を染めている。作中で大活躍する「ふくろう便」のネットワークは、ある魔法使いによって開発(傍点)されたものだ。発見と開発。つまり、非常に「科学技術」的なのだ。
「ハリー以前」のファンタジー作家は、こういう世界観が「あり」だということをはっきりと意識していなかったのではないだろうか。それを意識的かつ徹底的にやったのがローリングスであり、その結果、魔法ファンタジーの敷き居がぐっと低くなった。現実世界そのものが徹底的に世俗化した二十世紀末、「世俗の魔法」を描いた作品が、大いに受け入れられたというのは、とても納得がいくことなのだ。
 その一方で、というか、だからこそ、「ハリー」は、世俗化を拒む人々、たとえば原理主義的なキリスト者には不評だ。アメリカや台湾などで、過激な福音派が焚書にしたという話も聞く。最近のニュースでオーストラリアのある地域の学校図書館から「ハリー」が追放され、「指輪」はそのまま残された、というものがあった。追放運動のスポークスマンは「指輪には絶対的な存在への畏敬があるが、ハリーにはない」ことを理由に挙げていた。さもありなん。
 で、問題は二十一世紀だ。ちょうどぼくらは「世俗化」という現象が世界のほんの一部、つまり欧米やアジアの一部で起きたごく地域的な現象であることを徹底的に思い知らされたばかりだ。小説が多く読まれることによってその文化を代表する立場に立つのだとすれば、「ハリー」は期せずして「世俗化」が起きた「地域文化」を象徴する存在になってしまったのではないか。
 今後「ハリー」が、世界的に読まれれば読まれるほど、その「世俗」の部分が強調され、作品として微妙な立場に立たされることになる気がする。例えば熱心なムスリムは「ハリー」をどう読むだろう・・。穿ち過ぎかもしれないが「ハリー」が、かつての「指輪」とはかなり違った形で、単なる「娯楽」では済まされない問題作に化けつつあるように思えてならない。


微妙についてのビミョーな見解

2005-07-13 23:42:40 | 日々のわざ
ここ二日ほどの間、新聞やテレビで「微妙」の使い方についてああだこうだとやっていたけれど、ぼくも「微妙」についてはひとことふたことあるのだ。なにしろ、「イルカとぼくらの微妙な関係」の著者であるからして。

で、ぼくの見たところ、用法には三種類ある。

原義に近い、本当に微妙(どっちか分からない)時に使う「微妙」。そして、婉曲としての微妙(本当はダメダメなのに、それをやんわり表現する)さらに、判断停止・説明放棄の「微妙」。
1番目のやつは、本当に普通の使い方ね。「このプランが成功したと言えるのか微妙なところだ」といったみたいなやつ。これは年長者も違和感なく使っている「微妙」ですね。ぼくも違和感なないな。「イルカとぼくらの微妙な関係」もこの用例。

2番目、「あいつのファッションセンスって微妙じゃない?」と言った時、1番目の意味で言うこともあるかもしれないけれど、含意として「あいつのセンスは変だ」と言っていることが多いように思う。「この料理、微妙」とか言うと、「うまくない」という意味だろうし。判断に困る水準というのではなく、あきらかに水準以下のものを「微妙」ということで婉曲に表現する。
これって、最近、若い奴らがよく言う「あり得ない」と対になってるのかも。同じネガティヴな表現でも、とんでもなくダメなものは「ありえない」で、ダメなりに許せる範囲なのが「微妙」とか。
ちなみに、ぼくはこの意味での「微妙」は聞いてて違和感はないが、自分では使わない。

3番目が問題。
こいつは、すごく嫌な使い方。
「このデザインってさ、微妙じゃない」「うん、微妙だよね」といったやりとりの中で、両者が価値観を共有していて、その微妙さが暗黙に含意できている場合はいいんだ。これはたぶん1番の使い方でも2番の使い方でもありえる。
でも、そうじゃない時はどうなるんだろ。
たとえば、料理の味聞かれたとして、「微妙です」と答えたとする。
仲間内で、「あそこのファミレスは味が微妙」というならそれでいい。でもさ、お料理学校とかで先生に聞かれて「微妙」というのはないでしょう? しっかりと考え、はっきりと表現しなきゃいけない時に、すごくあいまいな広がりを許す「微妙」に逃げる用法。

けっきょく、1と2は、言葉の意味、についてで、3は使われる文脈のことを言っていて、にもかかわらず、2にも文脈依存なところがあって……、こういうのは、議論の切り分け方が悪いんでしょう。
でも、このところ、ぼくは、「微妙」についてこういうビミョーなことを考えていたわけです。


紫外線問題の新展開

2005-07-13 15:01:32 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
なんだかあまりに周囲の反応が悪いのに嫌気をさして、今年の夏は身の回りの個人防護に徹しているのだけれど、たまたまこのまえ学童でこの話をしていると、意外なところで食いつきが……。

学童には事務局長という立場の初老の人物がいる。学校の先生でリタイアして、こういう子供にかかわる仕事を嘱託のように受けている。彼があとでインターネットで調べで、だーっとたくさん情報が出てくるのに驚き、保護者へ配るプリントに大々的に書いた。「紫外線に気をつけましょう」。帽子、UVローション、黒っぽい服……などが有効です、うんぬん。
帽子のことはぼくも気になっていたところで、紫外線にかぎらず、熱中症、怪我防止のためにも是非と思っていたのでタイムリー。

実は学童で帽子を被らせるのが当たり前になっているのだけれど、学校ではまったく徹底していておらずちぐはぐなのだ。うちの学校は昼休みやどは、教室にいてはいけないというしばりがあって、かならず外に出ることになっている。にもかかわらず帽子を被らせるという発想がないのはすごく困ったちゃん。
これで、熱中症でだれか倒れたりしたらどうするよ、なんて思うことしきり。
でも、学校で「強制」はできないというのですね。強制したりすると、親に帽子の購入を強いたりしなきゃならなくなるし、と。少なくとも「推奨」くらいはすべきだと思うのですがね。

で、学童の事務局長は、自分の顔にではじめたシミなどの直接原因として紫外線について意識が高まっているもようで、ぼくも驚くほど。学校の主管さんをつかまえて、紫外線はこわいですよーなどとやってる。いや、日本人はそれほど皮膚ガンは多くないので……とかぼくがマイナス発言をしちゃったり。
なかなかおもしろいことになっております。

ほんと、ああだこうだ声に出してると響く人というのはいるのね。
響きすぎても問題なんだけどさ。

大原まり子さん!

2005-07-13 06:40:00 | 自分の書いたもの
竜とわれらの時代の、文庫化にあたって、毎日ちびりちびりと赤を入れている。
これ、我ながら、すごいわ。よくもこんなの書いたよな。と自画自賛。
「知りたがり」なカワバタが、知りたがりベクトルを最大限に伸ばして書いたという意味では、ぼくの現時点での到達点なのだと、勝手に思う。まあ、その到達点は近日中に更新される予定なのだけど。

で、本題。

文庫版の解説、なんと、大原まり子さんが引き受けてくださった!
すごいすごい。

ぼくにとっては、神林長平さんと並んで、超ビッグネイムだ。
高校生の時、SFマガジンを購読していて、たまたま大原さんのデビュー作「ひとりで歩いていった猫」を読んだ。
すごい衝撃だった。
ごく短い作品の中に詰め込まれた世界観、世界との取り結ぶ回路の提示、というのかなあ……。
こういうのは、SFにとって普通のことなのかもしれないけれど、とにかくタイミングがどんぴしゃだった。

「猫」のシリーズは、どの作品も好きだったなあ。
実はぼくのある小説の中で、「ホップ・ステップ・ジャンプ」なんてパクってる部分がある。
調停者、最高!ってことで。

銀河ネットワークでうたを歌ったクジラ、も何度も読みなおしたよなあ。
有楽町のカフェで……、って佳作もあったっけ……。

あの頃SFマガジンが輝いてた、その中心に大原さんがいた。

とにかく、ぼくのSF体験の原点なのです。
ハインラインやクラークではなく、同時代で同じ文化を背負った語り手の声が胸に突き刺さった原体験なのです。

だから、その大原さんがどんな解説をしてくださるのかドキドキ。
そして、幸せ。
ほんと、この仕事を続けてられている幸福を思うのです。

ヤスデと入浴

2005-07-12 05:17:50 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
フタを開けたまま放置してあった風呂に入る。
ほとんど水になっている。
ま、いいか。
ちょっと走ってきた後だし、きもちいい。

ふと気づくと、ヤスデが一匹、湯船の中で溺死してる。

ヤスデと入浴。
なんか薬浴という雰囲気になってくる。

そろそろ、本格的に駆除を考えるべきか。


校庭芝生化の「三年先輩」を訪ねる

2005-07-10 20:22:57 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
IMG_3696もう、ずいぶん前になってしまったけれど、校庭芝生化の「三年先輩」の視察に行ってきたので、その報告。
校門をくぐって、校庭の前にでるとこんなかんじ。雨の日だったけれど、やはり緑が目に入るととても柔らで、すがすがしい雰囲気になるわけです。そっかー、秋にはうちの小学校こうなっているんだなあと思うと、ワクワク感が募ります。
やはり、芝生化すると、校庭での転んでの怪我などが激減するし(ほとんどゼロ)、グラウンド・レベルでの気温なんかもかなり下がって(あ、盛夏のことです)熱中症対策にもなるらしいですね。

IMG_3702ところが、やはり、何事も良いことずくめにはいかないみたいで、管理の難しさというのがあるわけです。たとえば、サッカーのゴール前は、ほうっておくとくすぐにこんなかんじになっしまうわけですよ。


キーパーが踏みしめるから、なんでしょうね。やはり、かなり、園芸的なケアが必要なのでしょう。なにしろ、芝生化したはいいものの、三ヶ月で丸裸になってしまうところもあるそうで……。ちなみにこの校庭の場合は三年後の残存率が90パーセント以上で、理想的とはいえないものの、なんとか維持している、というような状況。

IMG_3701ちなみに、こういうふうな小さな「穴」があちこちにあって、ここをケアせずにほうっておくと、どんどん広がっていくそうな。穴があいて乾燥し、芝が枯れ、穴が大きくなり、さらに乾燥し……というのが典型的な「魔のサイクル」のようです。

IMG_3704この小学校の場合、一度、大きな危機があったとのこと。
最初に植えたのが、マシバといわれる「夏芝」で、冬の間には冬芝を撒かなかったのですね。だから、冬はマシバが枯れて、翌春、残っている根から芽吹くのを待つ、という作戦だったわけです。でも、冬の間も校庭は使うわけで、冬芝に保護されていない地面はほじくり返されて、翌春ほとんど夏芝も芽吹かなかったのです。そこで、あらたにまたまき直して……というふうにするうちに、今の状態を取り戻した、と。
上の写真のなかで、大きなものが夏芝のマシバ(最初に植えたもので今の残っている希少な(?)株)、そして、小さく目の細かいのが冬芝です。もうすぐ夏芝の種を撒く時期だとか。


IMG_3708というわけで、芝生の管理というのは、伸びすぎないように日常的に芝を刈ること。そして、裸にならないように気を遣い、時期が来たら、夏芝、冬芝の種を撒いて、季節ごとに緑を保つこと、というのが肝要だそうな。かなり、「園芸」の世界だし、グラスキーパーなる立場の人がいるとベターだそうですね。この学校では副校長がやっているだけれど、本来はもっと専門知識がある人が必要だとか。
校庭の隅の小屋の中はさながら農家の倉庫みたい。動力付き、手押しの2種類芝刈り機がありました。
これを使うのはやはり、副校長。理想的には保護者や地域のボランティアってことなんですがね。生徒が使う、簡単な手押し芝刈り機もあって、結構使われているようです。

結局、芝生というのは、導入したら、それなりに気合いをいれて管理しないとならない、という代物なのですね。それだけに地域つながりを束ねるひとつのツールにもなるし、逆にケアを怠って丸裸にしてしまったら、とんでもなく情けない。そういうもののように感じました。
この小学校よりも一年前に導入して、もう芝生がまったく残っていないところもあるそうなんで、「うちはやるぞ」という意識で取り組まないといかん、というのがよく分かりました。

じゃ、だれがやるんだ、ってことに当然なるわけですが、それはたぶん芝生工事終了後にいろいろ決まる(決める)らしいです。

科博での講演内容がアップ!

2005-07-10 00:56:25 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
リンク: 古生物学者をサイエンスする?.

恐竜好きなら誰でも知っている「恐竜パンテオン」に講演内容をアップ。
5月13日の講演から二ヶ月近くたってしまいましたが、主としてぼくの作業が遅れたからでした。
アップしてくださった高橋さんにはご迷惑をおかけしました。
そして、ありがとうございました。


アスベスト問題について

2005-07-09 01:09:14 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
石綿、いわゆるアスベスト暴露による病気は、やっかいだ。
何十年もたってから悪性中皮腫になったりするわけで、なかなか実像がつかみにくい。

この時期になって、顕在化したのは、たぶん患者が一気にふえてきたこと、一部で訴訟が始まったこと、目端の利いた記者がそれをキャッチしたこと、などの相乗効果なのだろう。

たぶん、まだまだ隠れていることがたくさんあると思う。
また、「これから」発症する人たちもたくさんいるだろう。

今のところ、企業はこと中皮腫にかんしては因果関係をみとめているらしく、それでほっとするのだが、ちょっとぐぐってみると、これって、喫煙と肺ガンの関係にすごく似ている。
両方とも数十年間のタイムラグがあって病気が発生する。

中皮腫も、肺ガンも、アスベストに暴露しなくても(喫煙しなくても)なる人はいるものの、発症する人の多くがアスベスト暴露者(喫煙者)だ。
ちなみに、中皮腫になった人の8割くらいにアスベスト暴露歴があるという。
これは肺ガンになった人の中の喫煙者と同じくらい(すごくおおまかな議論ですが)

だから、中皮腫になった患者さんに暴露歴があれば、「アスベストが原因」と考えるのが自然だ。
細かい計算やロジックは省略するが、疫学的にはそう考えるのが妥当なのだ。

これは喫煙と肺ガンでも同じなのだけれど、JTは「喫煙はほかにもあるリスク要因のひとつ」というふうに表現し続ける。

アスベスト暴露と中皮腫の因果関係を、もしも、否定してかかるような会社があったら、最初の段階でガツンと「その理屈は通じない」と釘をさすべきだ。
JTの悪例がある以上、すごく心配だ。

アスベスト対策で後手にまわった国の責任も絡んでくる以上、やはりどこかで因果論のかく乱をはかる輩が出てくるかもしれない。
それはいかん。疫学センスをもって、ちゃんとウォッチしてやらねば。

逆に「アスベスト暴露と中皮腫」の因果関係がきちんと認められていくようなら、「喫煙と肺ガン」についてももっと厳しい目が向けられることになるだろうし……。今後、時々、目についたこと、考えたことなど、このテーマについて書くと思う。



なんとなく、ビミョーなこと

2005-07-08 01:19:56 | 自分の書いたもの
リンク: せどり&DAYS~あくまで楽しく~: 今日の売れ.

RSSの検索で、こういうのを発見。
古本をブックオフやらで安く仕入れてネットで高く売る、と。
「せどり」日記みたいなサイトですね。

で、「ペンギン、日本人と出会う」が売れたそうなのですよ。
よしよし、一度は捨てられた(?)きみだけど、新しい読者に出会ってたわけで、よかったー、と思うわけです。

けれど、なにかがひっかかる!
ちなみに、ぼくは古本が流通するのは、わりとうれしいです。
もちろん、古本でもぼくの懐に還流するような仕組みがあれば、サイコーなわけだけれど、それは別問題。これまでたくさん古本を買ってきて、今後も買うであろうぼくは、古本を否定できないし、するつもりもないのです。
これは図書館も同じね。

で、なにがひっかかるか。

それは、つまり、ぼくの本、ここでは単に利益を生み出す媒介物でしかないのだな。

本という商品は比較的恵まれていて、新刊の書店でも、古本屋でも、本が好きな人、活字が好きな人がやっている可能性が高い(と信じる)わけです。棚差しでずっとおいてあった「良い本」が売れたら、自分が買った人と本とのあいだを取り持てたことを歓んだりしてくれるかもしれない。少なくとも本、あるいは作品に対して、敬意をはらってくれるであろうと期待できるし、じっさいにそういう人や店が多いと感じています。

ところが、このブログでのぼくの本の扱いは、なんと「薄利本」(笑)。105円で買って、600円で売った、と。
たしかに薄利、ですね。それでもって、梱包が面倒くさいなんて言われる始末。とほほ。

ぼくはこの人物が、ぼくの本をブックオフから回収し、新しい読者を見つけてくれたことを素直に感謝いたします。

そこで思うのだけど、こういうのって、利益目的でありつつ、やっぱり人と作品を結ぶ仕事でもあって、そのあたりに意義を見いだしたりはしてくれないのかなあ、ってことなんだよなあ。

あなたのやってること、意外に貴いことです。
ぜひやってください。
もう少しのリスペクトとともに。なんて思いました。

あえてトラバはしないけど、もしも、作者の方(?)、読まれることがありましたら、ひとつご検討を。ついでにご健闘を。


脳内ワールドカップ・ドイツ大会

2005-07-07 15:50:07 | サッカーとか、スポーツ一般
サッカー小説の舞台となるのは2006年の少年サッカーシーン。
作品と同時進行で、ワールドカップ本大会が語られるわけです。

というわけで、目下、脳内ワールドカップ・ドイツ大会を開催中。

オープニング・マッチはドイツ対イラン。

日本はイングランド、パラグアイ、コートジボアールと同組。

死の組は、アルゼンチン、オランダが同組に。

ってなかんじで、これからもどんどん変わります。

というわけて、みなさまの妄想歓迎。こういう勝負みたい、とかね。
採用したり、しなかったり……。