伝説の民俗学論文「国家の装置としてのPTA」に加筆して、堂々の刊行です。
『PTAという国家装置』(岩竹美加子 青弓社) http://amzn.to/2or5nZg
岩竹さんは、戦前にさかのぼったPTAの起源(たとえば、連合婦人会)の研究や、PTAがPTAとなった後の教育行政や地域組織との関係、社会関係資本との関係を考察していきます。基本、「PTAいらない!」系の本です。
岩竹さんは、杉並区でPTA会員を体験してから、その後はヘルシンキ。おそらくは内情をある程度知りつつ遠巻きに見られる環境と、アプローチの仕方もあって、非常にマクロなPTA論になっていると思います。
その中では、小田桐誠、川端裕人、大塚玲子、山本浩資らによる、21世紀になってからのPTA論説(?)は、まとめて──
「PTAを維持しようとする真の意図は何なのかを問うことなく、表層の活動を積極的に、あるいは楽にやっていこうという態度で共通している。それは、PTAの延命を助けるが、問題解決にはならない」
と総括されちゃうような厳しさを持っています。
きっと、後の歴史家がみるとそんなふうに見えるかもしれないとも思うけど、さすがに小田切さんと、ぼく(ら)との間には断層をひとつ見つけてほしかった気もしますね。
でもね、声を大にして言いたい!
今、PTAにしがみついている人たち。「アンチ」と見られがちで、「自由な入退会を!」なんていうと「PTAの崩壊につながる」などと批判されつづけてきたぼくは、実を言うと「PTAの延命を助けるが、問題解決にはならない」言論をしてきた人みたいですよ!
そんなゆるゆるの「助言」すらこなせずに、なにか終末期に向かおうとしているようにも見えるPTA、ほうっておいていいの? ぼくは、「やりたい人がやる」分にはどっちでもいいけど、しがみつきたい人は、このままじゃダメでしょ。どうにかした方がいいと思いますよ。(あ、今、ぼくは延命を助けようとしているのか! たしかに!)
現時点で、ひとつ異論があるのは、岩竹さんが指摘する国家的な「真の意図」は、それほど明確ではなく、その時その時の誰かに都合よく使われてしまう一貫性のない力がPTAだというふうにぼくは認識していること。誰かがプロットした「真の意図」がなににせよ、別の暴走の仕方をしている、と。ま、よく読んでまた考える。(現時点でのこの異論は、本の元になっている論文「国家の装置としてのPTA」を読んだ時に感じたことを言っているすぎないです)
注)民俗学は、柳田国男の時代からは変遷しており、近代国家の成立時に、民族的なアイデンティティの根っこ、あるいは、近代に対する「前近代」としてのフォークロア的なものを採集した時代から進み、今は、現在進行系で変遷している文化習俗(?)一般に関心を持ちます。さらに、民俗学自体を民俗学することまであります。その意味で、PTA研究はかなり民俗学的なのです。これは、川端の勝手解釈ですが。