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- ロイター - ローマ法王、「ハリー・ポッター」に批判的見解
.゛
ヤフーニュースでこういうのがある。たぶんすぐ消えちゃうんだろうけど、リンク。
ロマー法王がわざわざ「同作品は、気づかぬうちに作用する巧妙な誘惑であり、それ故に、魂に宿るキリスト教精神が正しく育まれる前に大いに歪められてしまう」と述べる部分はどこなのか、知りたい気がする。
実は何年か前、下のような読書エッセイを書いたことがあるので、再録。
ハリーと指輪
ハリー・ポッターについて、書評で「現代に則した魔法物語」と書いたことがある。ゲーム感覚でさくさく進むエピソードや、ウェブサイトを思わせる「日刊予言者新聞」など、「今風」の要素が作中に溢れていることが第一の理由。それに加えて、ハリーの世界で描かれる魔法が、とことん「世俗っぽい」ものだということが大きい。
「指輪物語」と比べてみればよい。「中つ国」では、魔法は限られた種族にだけ許された神聖な能力だ。古来より伝承される叡智であり、古文書などから発掘されることはあっても、新たに発明されはしない。一方、「ハリー」の世界では、近代の科学技術に似たテクノロジーとして魔法が描かれる。学校で学習でき、研究によって革新もできる。例えば、ホグワーツ校の校長ダンブルドアは、「ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見」(発見、に傍点)で有名だし、錬金術の共同研究にも手を染めている。作中で大活躍する「ふくろう便」のネットワークは、ある魔法使いによって開発(傍点)されたものだ。発見と開発。つまり、非常に「科学技術」的なのだ。
「ハリー以前」のファンタジー作家は、こういう世界観が「あり」だということをはっきりと意識していなかったのではないだろうか。それを意識的かつ徹底的にやったのがローリングスであり、その結果、魔法ファンタジーの敷き居がぐっと低くなった。現実世界そのものが徹底的に世俗化した二十世紀末、「世俗の魔法」を描いた作品が、大いに受け入れられたというのは、とても納得がいくことなのだ。
その一方で、というか、だからこそ、「ハリー」は、世俗化を拒む人々、たとえば原理主義的なキリスト者には不評だ。アメリカや台湾などで、過激な福音派が焚書にしたという話も聞く。最近のニュースでオーストラリアのある地域の学校図書館から「ハリー」が追放され、「指輪」はそのまま残された、というものがあった。追放運動のスポークスマンは「指輪には絶対的な存在への畏敬があるが、ハリーにはない」ことを理由に挙げていた。さもありなん。
で、問題は二十一世紀だ。ちょうどぼくらは「世俗化」という現象が世界のほんの一部、つまり欧米やアジアの一部で起きたごく地域的な現象であることを徹底的に思い知らされたばかりだ。小説が多く読まれることによってその文化を代表する立場に立つのだとすれば、「ハリー」は期せずして「世俗化」が起きた「地域文化」を象徴する存在になってしまったのではないか。
今後「ハリー」が、世界的に読まれれば読まれるほど、その「世俗」の部分が強調され、作品として微妙な立場に立たされることになる気がする。例えば熱心なムスリムは「ハリー」をどう読むだろう・・。穿ち過ぎかもしれないが「ハリー」が、かつての「指輪」とはかなり違った形で、単なる「娯楽」では済まされない問題作に化けつつあるように思えてならない。
- ロイター - ローマ法王、「ハリー・ポッター」に批判的見解
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ヤフーニュースでこういうのがある。たぶんすぐ消えちゃうんだろうけど、リンク。
ロマー法王がわざわざ「同作品は、気づかぬうちに作用する巧妙な誘惑であり、それ故に、魂に宿るキリスト教精神が正しく育まれる前に大いに歪められてしまう」と述べる部分はどこなのか、知りたい気がする。
実は何年か前、下のような読書エッセイを書いたことがあるので、再録。
ハリーと指輪
ハリー・ポッターについて、書評で「現代に則した魔法物語」と書いたことがある。ゲーム感覚でさくさく進むエピソードや、ウェブサイトを思わせる「日刊予言者新聞」など、「今風」の要素が作中に溢れていることが第一の理由。それに加えて、ハリーの世界で描かれる魔法が、とことん「世俗っぽい」ものだということが大きい。
「指輪物語」と比べてみればよい。「中つ国」では、魔法は限られた種族にだけ許された神聖な能力だ。古来より伝承される叡智であり、古文書などから発掘されることはあっても、新たに発明されはしない。一方、「ハリー」の世界では、近代の科学技術に似たテクノロジーとして魔法が描かれる。学校で学習でき、研究によって革新もできる。例えば、ホグワーツ校の校長ダンブルドアは、「ドラゴンの血液の十二種類の利用法の発見」(発見、に傍点)で有名だし、錬金術の共同研究にも手を染めている。作中で大活躍する「ふくろう便」のネットワークは、ある魔法使いによって開発(傍点)されたものだ。発見と開発。つまり、非常に「科学技術」的なのだ。
「ハリー以前」のファンタジー作家は、こういう世界観が「あり」だということをはっきりと意識していなかったのではないだろうか。それを意識的かつ徹底的にやったのがローリングスであり、その結果、魔法ファンタジーの敷き居がぐっと低くなった。現実世界そのものが徹底的に世俗化した二十世紀末、「世俗の魔法」を描いた作品が、大いに受け入れられたというのは、とても納得がいくことなのだ。
その一方で、というか、だからこそ、「ハリー」は、世俗化を拒む人々、たとえば原理主義的なキリスト者には不評だ。アメリカや台湾などで、過激な福音派が焚書にしたという話も聞く。最近のニュースでオーストラリアのある地域の学校図書館から「ハリー」が追放され、「指輪」はそのまま残された、というものがあった。追放運動のスポークスマンは「指輪には絶対的な存在への畏敬があるが、ハリーにはない」ことを理由に挙げていた。さもありなん。
で、問題は二十一世紀だ。ちょうどぼくらは「世俗化」という現象が世界のほんの一部、つまり欧米やアジアの一部で起きたごく地域的な現象であることを徹底的に思い知らされたばかりだ。小説が多く読まれることによってその文化を代表する立場に立つのだとすれば、「ハリー」は期せずして「世俗化」が起きた「地域文化」を象徴する存在になってしまったのではないか。
今後「ハリー」が、世界的に読まれれば読まれるほど、その「世俗」の部分が強調され、作品として微妙な立場に立たされることになる気がする。例えば熱心なムスリムは「ハリー」をどう読むだろう・・。穿ち過ぎかもしれないが「ハリー」が、かつての「指輪」とはかなり違った形で、単なる「娯楽」では済まされない問題作に化けつつあるように思えてならない。
なにかと騒がれているのは知っていたのですが、その理由など詳しいことは知らなかったので、「世俗の魔法」という言葉に、なるほど、と思いました。
勝手ながらこちらのエントリーのリンクを貼らせてしただきましたので<(_ _)>
でも、気になく人には本当に気になるみたいなんですよ。