川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

ぬるい試合にみえた……エクアドル戦

2006-03-31 07:10:30 | サッカーとか、スポーツ一般
家庭の事情により、集中してみることができず。
最近、いろいろな蹴り方を教えられ中の息子が、インサイドキックの数を数える。エクアドル側で、二十四回連続でインサイドキックのパス回しが続くのをみて、びっくり。ぼくもびっくり。やっぱり、短距離、中距離は、これで足りてしまう。


試合としては、よく分かりませんでした。
エクアドルってこんなもんなのか。仕掛けのイメージが単発的で、相手がブラジルとかアルゼンチンならうまくカウンターを取れるけどって試合運びだ。

玉ちゃんが久しぶりに出て、ドリブルがちゃんと出来ていたのがうれしかった。

あと、佐藤寿人のシュートだけど、ニアポストというのはキーワードだなと思った。
やっぱり、背の低い人は(日本人は)、ニアポストで勝負なんじゃないか。

朝日新聞と読売新聞の読書欄、そろい踏み

2006-03-30 10:30:04 | 自分の書いたもの
リンク: asahi.com: 動物園にできること [著]川端裕人?-?文庫・新書?-?BOOK.
リンク: 動物園にできること : 文庫 : 本よみうり堂 : YOMIURI ONLINE(読売新聞).

この前の日曜日の朝刊、朝日・読売の読書欄で、文庫版「動物園にできること」が紹介された。
ふたつの全国紙で同時に、というのは珍しい。

さらにいうとその前の週には、日経の読書面にも出たので、三大紙(毎日さんごめん)で、素早い紹介御礼、ということになった。
こういうふうに取り上げて頂いたことが、セールスにつながるかというと、必ずしも……なのが悲しいところだが。
今のところ、爆発的に売れているなんていういい話は聞いていない。もともと、そういう売れ方をするようなテーマではないわけだが。


ゲーム脳講演をめぐって、区との意見交換・要望をしてきた

2006-03-29 18:57:46 | トンデモな人やコト
 この前の月曜日@世田谷区役所。
 出席者は、小池健康づくり課長、平井教育委員会事務局・スポーツ生涯学習課長、そして、今回の件で実働した保健師さん二人。

 まず最初に、区による総括。
 まだ表には出ていないアンケートなどの集計結果を見せてもらう。いちいち数字などメモらなかったけれど、こういうものの常で、講師に好意的な意見がほとんどだった。「非常によかった」「よかった」が大多数を占める。
 また、「非常に納得できる話だった」「子供にゲームをさせる危険性がよくわかった」というような評価が多数よせられていた。その一方で、「業者や反対の人がいたのが残念」という意見も17件あって、かなり上のほうだった。なぜ、これだけ数字を覚えているかというと、ぼくも「業者」に見えたんだろうなあ、とちょっと凹む気分があったから。
 
 講演後の電話による反響は一件のみ。森氏を批判する内容だったとのこと。ちなみに、普通、講演の後に、「すばらしかった」という電話がかかってくることは、ほとんどない、そうだ。
 
 というような、区からの「結果」の説明を受けて、あとは茶飲み話的に雑談やら要望やら。
 森氏が講演の冒頭で引用した、日本青少年研究所(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/)の「高校生の友人関係と生活意識??日本・アメリカ・中国・韓国の4カ国比較」のプリントアウトを持っていって、「データのつまみ食い」についてあらためて伝えた。森氏は、日本の高校生が「リーダーシップを取りたがらない」などの結果を、ゲームと関連づけたのだけれど、この調査では日本の高校生は韓国やアメリカの高校生と比べてもゲームに関心を持っていない。非・専門家でも分かる明らかな「つまみ食い」なので、指摘しておく。ちゃんと理解してもらえたと思う。
 同じ調査の中で、日本の高校生の親が、子供に対して放任であったり、無関心であったり、とにかくコミットメントが低いことが明らかになっていて、そのことも話題になる。この調査単体でみると、ゲームやインターネットよりも、むしろ親と子の関わり方の独特の形が気になる、とかなんとか。子供が感じている親からの期待のプレッシャーとか、大人として扱ってもらえているという実感とか、いろんな「かかわり」が、のきなみ際だって低いのだ。にもかかわらず、「親とよく話す」は他国とそれほどかわらない、というきわめて不思議な数字が面白い。
 
 講演中で森氏が言及した久保田競氏の「ゲーム絶賛発言」の出典について、もしも分かれば教えてもらえることになった。ビデオ収録はしてあるものの、画面の大写しではないので、難しいかも、とのこと。
 
 日本の子供が切れやすくなり、笑わなくなっているのか、ということについて意見交換。
 
 教育委員会事務局であり、生涯学習スポーツ課の平井課長によれば、彼が知る限り特にそういうことはない、とのこと。もちろん、それぞれの教育現場でなにがしかの問題が発生している可能性は常にあるが、それが世田谷区教育委員会にまであがってきて、全区的な問題として取り上げられていることはない、そうだ。
 意を強くする。
 また、健康づくり課の保健師さんの意見も聞く。
 子供が切れるとか、そういう問題よりも、むしろ、母親が子育てに行き詰まることの方が問題なのではないか、とのこと。
 子育てに自信を持てない、あるいは、変に追い込まれてしまう人たちが多いのだという。
 もっとも、三十代前半よりも年下の母親はすべて「ファミコン世代」以降なので、ゲーム脳理論の守備範囲だと指摘すると、爆笑。
 けれど、保健師さんは、キャリアを持った母親でかなり高年齢で出産し、「ファミコン前」の人も同じように追い込まれている印象がある、いう。
 
 最後に、二つほど、要望込みの情報提供をしておく。
 もしも、ゲームと発達についての講演を開くことが、今後あるならば、人選は慎重にお願いしたし。ぼくが、この件でいろいろ調べた範囲で、一番フェアだと感じた、坂元章氏の「テレビゲームと子どもの心??子どもたちは凶暴化していくのか?」を紹介しておく。小池課長は、森氏の講演も、本来ならシンポジウム形式の方がよかったとの認識を示す。
 
 さらに、「擬似科学に騙されないために」というテーマで、区の職員研修など企画してみてはなどと言っておく。大阪大の菊池さんは、お話しもとても面白いそうです、などと。菊池さんは迷惑かもしれないけれせど。
 
 というふうなかんじ。
 
 自分の持ち場で、やるべきことはやって、最後は疲れちまって、竜頭蛇尾ではあるけれど、まあ、こんなとこかな、と。


スタニスワフ・レム逝去

2006-03-29 07:05:46 | ひとが書いたもの
国書刊行会のコレクションで、また読みやすくなったレムだけれど、実は一度だけ「共著」を出したことがある。
コナミのMGS3の初回についた特典本。
送られてきたら、一緒に載っていた。
びっくりした。感動した。
まさに雲の上の人であり、文学的大往生なのではないか。

ぼくはソラリスよりも枯草熱派。
いまだに手元にある(といっても実家だが)サンリオ文庫だな。

「虚数」を買おうと思ったら、今、にわかにアマゾンで売れている。


日本のジャーナルのいろんな論文が読める

2006-03-28 20:22:27 | ひとが書いたもの
リンク: Journal@rchive.

これはつい昨日、スタートしたばかりのサーヴィスらしい。
日本の代表的な科学ジャーナルのバックナンバーをPDF化して公開してくれている。日本のものだけだから、日本人研究者のものでもランドマーク論文的なものは、たいてい日本以外のジャーナルに発表されていることが多いわけで、その意味ではものたりないのだけれど、中には19世紀から続くジャーナルもあるわけで、その初期のものは見ていて楽しい。
たとえば、「東京數學物理學會記事」の第一号は、1885年で、記事は、

分光器観測法小引
山川 健次郎

岩田好算翁の問題の別解並に敷衍
寺尾 寿

酸素窒素及び酸化炭素を液化するの試験
付 アルコールを凝固するの試験
志賀 泰山

電気単位決定報告
山川 健次郎

雨中弾道
沢田 吾一

とのこと。
これらすべてがPDFで読めるからすごい。
ちなみに、山川氏の報告になる電気単位決定報告というのは、パリの国際会議での電気抵抗の単位の決定について、述べられている。

さらに、長岡半太郎が書いた「伊能忠敬翁の測量器械」という論文をプリンアウトして読んでいるところ。


「おじさん」が亡くなる

2006-03-28 09:55:00 | 日々のわざ
ぼくの母の妹のもと配偶者であり、ぼくの従姉妹の父親。
膵臓がんだったので、見つかってからわずか数ヵ月で亡くなったという報が入った。
離婚してもう30年近いんじゃないだろうか。
とにかく、ずっと前に「縁」は切れてしまった人。
けれど、最後の方は、実の娘と元配偶者の世話を受けつつ……ということになったらしい。

葬儀に行こうかと一瞬思ったのはプラモデルのせいだ。
ちょっと作るのが難しいプラモデルを買ってしまった小学校二年生のぼくのかわりに、黙々と作ってくれた。実は「できもしないのに買う」と母親に怒られることになっていたぼくは、これで怒られずに済んだ。
情けない話だが、感謝している。

「おじさん」は身よりはなく、実の娘たちと、元配偶者であるぼくの叔母、だけで、ひっそりやるから来ないでいいと連絡が来る。
まあ、ぼくもこれで関西にわざわざ出かけるだけの余裕はたしかにないのだ。
心の中で悼み、感謝をしております。おじさん。


科学哲学って……評判悪い!

2006-03-27 21:40:06 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
ゲーム脳講演の総括・意見交換のために、区役所に行ってきたのだが、ちょとそれは置いておいて電車の中で読んでいた「科学における社会リテラシー3」(総合研究大学院大学)のこと。このブログにもちょくちょく書き込んでくださる津田敏秀氏の「疫学入門??疫学的方法論と因果推論」を読んでいて、ふと感じたこと。

津田氏は、この論考(講義を採録したもの)の中で、科学哲学の重要性を説く。それは、ヒュームが提起した、因果推論の不可能性をいかに克服するかという点で、科学哲学が唯一、真剣かつプラクティカルに「救う」方法を考えてきた、という部分での「科学哲学」についての重要性だ。
現場の研究者にしてみれば、彼らの(研究者の)探求の方法は「成功」しているのだから、それでいいのかもしれない。しかし、なぜ、それで成功するのか知りたくなる者がいても当然ではあるし(科学史・科学哲学のはじまり、ということです)、疫学のように、「きれいな」実験がしにくい研究ジャンルでは、因果推論そのものをそもこそヒュームのレベルで疑ってからではないと、実用に落とし込めない事情もあって、科学哲学と疫学は親和度が高いのだ。
そして、そのことによって(科学哲学的な論考を重ねることで)疫学は確実に頑強になった。

ぼくにとっても、「科学哲学」というのは「そういう意味」だった。

そして、この前、ゲーム脳がらみで、野尻ボードやら、大阪大の菊池誠さんのブログなどに、科学哲学に少し触れたコメントを残した。

その時に、ふと感じたのだけれど……科学哲学って評判が悪い。

「科学哲学が、研究の現場で役に立ったためしがない」「ニセ科学哲学者に騙されない知識を得るために、科学哲学を勉強する、くらいの意味はあるだろう」などという意見が出てきたし(いずれも研究の現場にいる方らしい)、野尻さんも、かつてニフティのフォーラムで、とんでもなく不毛な科学哲学論議に巻き込まれたことがあるという。

このことばかりじゃなくて、最近、科学哲学について久しぶりに口にしてみると、ほとんど敵意に近いような雰囲気を主として科学者サイドから感じることがある。なんでだろう。

たしかに、もともと科学哲学は科学者にあまりよく思われない素地はある。
特に科学哲学とは少しずれるけれど、科学社会学的な探求は、研究者共同体をテーマにして、科学を真理の探究であると同時に人間の営みとして捉えようとするから、それを不快に思う研究者は常にいた。

また、科学者は、自分が属する研究者共同体の科学的な手続きを必要にして十分な、科学的思考を保つためのものと考えるだろうけれど、実はナイーヴであると判定されることもあるわけで、科学的な営みが相対化されてしまうことについて、不快に思う研究者が多くいても不思議ではない。
また、科学者の社会的な責任がどうした、とか、言われて、「うざい」なんて感じることもあるだろう。

でも、目の敵、にするほどでもなかろうと、とぼくは思ってきた。
なぜって、科学は「成功」しており、その成功の秘密を理解したいと願っているのが、科学哲学だからだ。科学哲学は別に科学を否定したりはしない。むしろ、実際に成功した(時に、失敗した)科学のプロセスを検討することで、人間にとっての合理的な思考とは何なのか、「科学的」とはどういうことなのかを知りたいと願っているのだから。
その際に、科学が、今世間で思われるほど「絶対的」に合理的思考ではないことが、局所局所で分かったり、科学者が時として不合理な選択をすることがわかったりしても、それがなに? ってかんじである。
むしろ、本来「絶対的」ではないものを絶対的と思っている(ある種の科学信仰)ことが、もたらす弊害も大きいから、そういうことは知っておいてもいい。

にもかかわらず、なぜなのか。かくも、科学哲学は不評なのか。

そこではたと思い当たったのだけれど、ぼくが学部を出てから(専攻は科学史・科学哲学)、ほぼ20年。
その間には、ショッキングなソーカル事件があったではないか。いわゆる、「サイエン・ウォーズ」というやつ。
その背景には、カルチュアル・スタディと連動した構成主義が、科学哲学を標榜しつつ、台頭した時期がある、ということが大きいのではないか。

構成主義というのは実にやっかいなのだ。
科学の営みも、まったくもって文化的なものであるという観点から、すべての科学理論が社会文化的な文脈から構成されてしまうのだ、という極端な考え。
こう言説が力を得ると、科学の営みは、相対化され切ってしまい、なんら、ありがたみがなくなってしまう。それこそ、宗教との違いすら、明確に線を引けなくなってしまう。

実はどんな科学にも、「構成的」な面はある。
それは間違いなく科学史が明らかにした「事実」だと思う。
にもかかわらず、「構成」だけで、科学できるなら、科学がかくも「成功している」ことなどありえない。
それでも無理に「構成」にこだわり続けるのは、どこか不健全だ。

というわけで、科学哲学について、猖獗をきわめた構成主義と一緒にされるのは困るなあ、と感じた次第。

ゲーム脳講演についての総括、マイナス1

2006-03-26 21:33:58 | トンデモな人やコト
 さて、明日、ゲーム脳講演についての総括、および意見交換のために、世田谷区に行ってくるので、ちょっとばかりメモ。
 まず、今も気になっていること。
 森氏の講演の中で引用された日本青少年研究所(http://www1.odn.ne.jp/youth-study/)の「高校生の友人関係と生活意識??日本・アメリカ・中国・韓国の4カ国比較」、実は、森氏が見せた部分は都合のよい部分だけで、かなり、「ゲーム脳理論」とは逆の部分もあると認識しているのか。トリビアルなことではあるけれど、分かりやすい部分ではあって、「自説に都合のよい数字のつまみ食い」を指摘しておこう、と。
 
 と同時に、今も出典が分からない、久保田競氏の「ゲーム礼賛発言」(ゲームは脳に悪いことはありえず、むしろ良いと断言する内容)も、出典が確認できれば、と。
 
 こういったことは、たまたま関わってしまったがゆえに、正確に知っておきたいと思っている部分。
 
 さらに、聞いてみたくなったことが一点。
 
 森氏は講演で、日本の子供が笑わなくなり、切れやすくなっている、と断言した。日本の子供が壊れていく、と。
 ぼくはこのことが、まったくピンとこないのだ。
 
 もちろん、ぼく自身、子供にテレビゲームをさせることに不安を抱いていないわけじゃない。何度も書いているけれど、目下のところ、うちにはテレビゲームも携帯ゲームもない。それはやはり、子供がゲームにはまるのを警戒しているからだ。
 自分自身のそれほど豊富ではないゲーム体験から、たとえば、RPGを何時間か続けてやった後で、頭の中で音楽がずっと鳴り続く、などという身体的・精神的反応が起きたことがあって、こういったことを子供の頃から体験させるのはいかがなものか、という気がしている。
 発達への影響があっても不思議ではないし(なくても不思議ではない)、今のところはまだやめておこうかな、と。
 
 とはいっても、森氏がいうような「子供が壊れていく」ような危機感はまったく抱いていない。
 ぼくは学童保育の保護者会の役員をしてきたし、PTAの活動もわりと顔を出す。学期ごとにある学校公開週間では息子のクラスの授業を見に行く。
 けれど、みんなよく笑い、元気で、楽しそうだ。「キレる」という現象が具体的に何をさすのか分からないが、少なくとも「キレた」と感じるような場面に遭遇したことがない。
 これは身の回りのほかの保護者に聞いても同様。
 本当に、日本の子供は、笑わなくなり、切れやすくなり、壊れつつあるのか。
 すごく疑問なのである。
 
 このあたり、教育委員会や、健康づくり課ではどう把握しているのだろう。
 教育委員会には、「子供がキレる」というような報告がたくさんあがってきており、危機感をつのらせているのだろうか。一年か二年前に、「学校内暴力の低年齢化」が問題になったことがあったと記憶しているけれど、あれは世田谷区でも、今も現在進行形の問題、なのだろうか。
 こういったことをまったく実感として把握していないぼくは、たまたま恵まれているだけなのだろうか。
 
 あとは、もしも、「ゲームに対する不安」をすくいあげた区が、本来選ぶべきだった講演者がいるとして、それは誰か、ということかな。
 森氏ではなかったとしたら、誰ならフェアだったのか。
 あるいは今後、もっとバランス感覚のある講演者による、リターンマッチはありえるのか、意見交換、および要望をしてみようかな。
 

「大人のウォーカー」に書評を書きました

2006-03-26 18:12:47 | 自分の書いたもの
今書店に並んでいる「大人のウォーカー」5月号に、「評者が選ぶ三冊」というような形で、書評を書いています。
とりあげたのは、『「ニート」って言うな!』(本田由紀ら)、『娘に語るお父さんの歴史』(重松清)、『エンド・ゲーム』(恩田陸)。

たまたま恩田陸の『黒と茶の幻想』の文庫解説を依頼されて書いたばかりだったので(4月に出るらしい)、「世代的なるもの」にフォーカスした内容。

読み返してみると、『「ニート」って言うな!」を、世代の産物として語るというのは、多少なりともそういう側面があるとはいえ(そう強く感じたからこそ書いたのだけれど)、あまり上等ではなかったかもしれない。「若者たたき」について、批判する論を、世代的なものとして読まれるというのは、あまりハッピーじゃないだろうし。

いずれにしても、この方面の議論を深めていってもあまり実りはなさそうです。ただ、茶飲み話くらいにはなるよね、というところ。

なお、誌面では、久しぶりに石田衣良さんのお隣。


目下、全員参加の学童保護者会を「脱退可能」なものにしたいのだけれど、いかがなものか

2006-03-24 21:24:32 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
学童保育の保護者会(父母会と呼ばれているものが多いけれど、ここではぼく自身のこだわりに従って保護者会とします)には、年に一度だけ総会があって、毎年、会則を書き換えるような大きな事案はそこで話し合われる。
今年は、「脱退条項」を付け加えるように提案しているのだけれど、食いつきが悪い。
このブログを見てくれている人の中にも、学童やPTAにかかわる人が多いと思われ、ぜひコメントをいただきたし。

その前に歴史的ないきさつから説明すると……

学童の保護者会というのは、もともと、学童保育所を運営するために結成されたものだった。だから、学童保育所に子供を預けるということは、まず保護者会に入って運営に参加するということでもあった。今でも、ぼくが知る限り神奈川県では、保護者会運営の学童はかなり多いようだ。でも、世田谷区はかなり前に、行政サービスとして区が引き取った。

そこで、保護者会というのは、以前のように「全員参加」である必要は、必ずしもなくなる。PTAが原則任意参加であるのと同様に(そのわりには、意思の確認をせずに全員参加のところが多いけれど)、学童保護者会も任意参加であるのが妥当な位置づけに変わった。にもかかわらず、昔からの流れで、保護者の意志を問うことなく全員参加になっている。

で、ここからが、ぼくの問題意識。

今の学童父母会は、本来的には任意参加のはずなのに、事実上、強制参加になっている。
これは、よろしくないのではないか。
ここは是非、任意参加、あるいは、せめて、やめる意志を持った人がすんなり退会できる条項(脱退条項)を、規約に盛り込みたい。

個人的なモチベーションとしては、こういうことは、元来ボランティアであり、ぼく自身、わりと熱心に活動してきたけれど、「強制参加」の会で続けていくことについて、非常にストレスがある。自発的に行っているのだというボランティアマインドを阻害されているような、非常に息苦しい感覚がある。だから、ことあるごとに気になってきたし、機会があるごとに言い続けてきた。

これは個人的モチベーションであるとともに、公にも「いいこと」であると信じている。
少し抽象的な言い方になるけれど、やはり、不自然な成り立ちをした組織は、どこかにひずみを抱え込むことになるから。

もう少し、具体的に「なぜか」を列挙してみる。

☆少額ながら会費を支払わされるような団体に入るのに、意志を問わないのはおかしい。

☆強制参加のままであると、そもそも「会」の存在意義自体、支持を受けているのか分からなくなる。たとえば、ぼくたちは今年度、世田谷区が学童保育を「新BOP」(放課後スクール)に完全統合しようとする動きに対して、「反対」の立場であれこれと活動した。しかし、これはどれだけの保護者に支持されていただろうか。ぼくは「ほとんど」であると信じているけれど、「預かってくれる場所があれば、それ以上は望まない」という考え方をする人も現にいる。そういう人にとって、ぼくたちが「反対」することは、無駄な労力と映るかもしれないし、ひょっとすると、本来、望ましい施策を遅らせることですらあるかもしれない。

☆その一方、任意参加への道を開くと、「会」はその目的や、存在意義をたえず問い直されることになり、結果、活動のフォーカスが合いやすい。また、今は会報などを出したりしていなけれど、簡単なものであれ作って父母会が何をしているのかたえずフィードバックしようという気運も生まれるかもしれない。

☆強制参加は、一部の「参加したくない」人たちにとって不公正。たとえば、会の方針を苦痛に思う保護者が、脱退を願ったとして、それを受け入れられる仕組みがないのは不幸だ。

といったところ。

これに対して、当然、いくつかの懸念がある。

まず、最初にして最大の問題として、脱退者がたくさん出てしまい、会が成り立たなくなってしまうのではないか、ということ。

ぼくはそれほど心配していない。少なくとも、急にばたばたとやめて、半分になってしまいました、なんてことにはならないだろう。よほど強固に「やめたい」人以外は留まってくれる確信は、無根拠だけれどある。
ぼくたちは、保護者や子供たちの交流のためのイベントや、新BOPへの統合に際して、それなりに活動してきたし、それが無意味だとは言わせない、くらいのことは胸を張って言える。また、役員をやるだけの時間的余裕がない会員たちも、基本的には支持してくれた実感がある。
脱退条項を盛り込んだら途端に組織率ががた落ちすると考えるのは、違うと思うし、また、そうならずに済むようにやればいいだけ。保護者のことを「信頼」してよいと思うのだ。

ただ、ぼくが責任を持てるのは、今から数年間くらいのことだ。
自分の子供が学童に通わなくなった後のことは、やはり、分からない。
ひょっとすると、父母会の組織率が半分を割るような未来がやがて来る可能性もある。

でも、そうなったとしたら、それはそれでいいんじゃないか。
むしろ、その時に、支持を受けない会が、ただ惰性で存在する方がよほど不幸だ。
また、かりに、一度、組織率が下がったり、極端な場合会が消滅したとしても、かならず必要とあらば志ある(?)保護者が、復活させるものだ。
PTAをなくしてしまった学校でも、たいていは数年後に復活するという法則が世の中にはあるらしいけど、やはり、「必要」だと思われれば誰かがやる。

そして、もうひとつ考慮しなければならない「想定上の批判」として、「地域や保護者が一丸となって、子供たちの安全を守ったり、望ましい成長を見守ろうとしているこの時期に、何を逆行的なことを行っているのか」というものがあるだろう。これは、PTAの任意加入問題をめぐる議論を検索していて、あちこちで出会ったもの。

これについては、今の学童の保護者会がかりに少しばかり組織率が低くなったからといって、子供の安全や成長が脅かされたりすることはない、と答えることができる(ちょっと情けないが)。実はぼくたちは、このことに関しては、それほど多くのことをできていない。また、これ以上のことを、現在の学童父母会の役員ができるとも思えない。むしろ、きちんと「意志を持って、会に入っている」人たちが増えた方が、よりよい活動ができると信じる。これはPTAに関しては違うのかもしれないけれど(今もPTAは実に多くのことをしている)、ぼくらの学童保護者会についてはこう言い切っても間違いではない。

さらに、実は、最近、痛感していることなのだけれど、こういう地域と絡む組織は、「ゆるい」方がいい。もちろん、子供の安全や、成長のためには、地域との連携が不可欠。でも、それが、「ムラ」的にガチガチのものになると、息が詰まる人が続出する。
たとえば、この前の敦賀の事件も、母親が外国人であったことがクローズアップされがちだが、と同時に、「強制的に集団登園しなければならない」ような「きつい」環境が容疑者を追い込んだことも指摘されている。また、すごく古い例だけれど、文京区の春菜ちゃん事件だって、そういう側面があったのではないか(これは綿密に調べたわけではないが)。密すぎる共同体は、本来なら発露しなかった、内なるリスクを呼び覚ますことすらあるのだ。もっとも、これは今のぼくらの学童保護者会でも、十分に「ゆるい」し、ぼくたちが現実的に心配することではないのだが。

さらにさらに言えば、子供の安全や成長について、そんなに心配だろうか。
もちろん、親だから、心配だ。「心を配る」ことは、常にしていたい。
でも、やみくもに、怖れる必要があるだろうか。
たとえば、この前かかわった、ゲーム脳の議論の例。
ゲーム脳理論の提唱者である森昭雄氏は、「子供たちが笑わなくなり、キレやすくなっている」という危機感から彼の一連の著述活動、講演、研究を行っているというのだけれど、ぼくにはそれがよく分からない。
本当に、「笑わなくなり、キレやすい」のか。自分の息子のクラスを見る限り、みんなよく笑い、楽しそうだ。「キレる」というのが具体的に何を示すのか分からないが、「このことか!」と膝を打つようなシーンにはついぞ出会ったことがない。
学童でも同様。時々、トラブルはあるけれど、みんな元気だ。楽しそうだ。

子供って、もっと信頼していいと思う。
多少ひねくれようが、なんだろうが。ゲームしようが、しまいが。彼ら・彼女らは育つ。常に保護者の思惑をこえ、心配をよそに、しっかり大きくなる。
ぼくは素朴にそう感じており、また、そう感じさせてくれる身の回りの子供たちを誇りに思っている。

安全にかんしても綿密に調べていないけれど、ぼくらが子供だった時代の方が、よほど多くの子供たちが、交通事故の被害に遭い、また、時には目を覆わんばかりの犯罪の犠牲になっていた(これは、以前、読んだものの曖昧な記憶に基づく記述。詳しくご存じの方がいらしたら、情報提供願います。修正します)。もちろん、不幸な事故や、哀しい事件は、ない方がいい。でも、今の時代が特別ひどいのだ、なんて考える必要はないと思う。
そして、こういうものは「根絶」をさけびゼロにしようとすると、逆にモグラたたきのように、飛び出すものでもある。
ぼくらはもっと神経を研ぎ澄まし危機を察知しようとしつつも、大らかであるべきだ。心を配りながらも、ゆるくあるべきだ。

なんだか、途中から本筋を離れてしまったけれど、それはつまり、ぼくもよく分かっていないんだと思う。
ただ、ぼくをこれまで導いてきた本能的な部分で、「今の状態はよろしくない」と告げている。そして、それなりに理由は見つけられる、ということ。

さて、肯定的な意見も、それはちがうんじゃないかって意見も歓迎です。
ぜひ、あーだこうだ言ってみてください。プリーズ。


三月のうちに一段落を……

2006-03-24 11:17:08 | トンデモな人やコト
月曜日に、世田谷区役所に行くことになった。
ゲーム脳講演会についての、総括というか、意見交換。
今月中に一段落できることになりそうで、ほっとする。

つい先日、東大でゲームと脳について研究をしてPh.D.をとった、松田剛氏(http://www.c.u-tokyo.ac.jp/jpn/kyokan/ronbun/ronbun_11_25_matsuda.html)のトークショー(?)が、科学未来館であったそうだ。出席できずに残念。博士号論文以降の研究について聞けたかもしれないのに。

ちなみに、2004年に通った博士号論文では、ゲームをしている時の前頭前野の血流が低くなることははっきりと確認している。というわけで、この部分で、森氏が標準的ではない測定方法にせよ、正しい結果を得ていた可能性はあるわけだ。もっとも、そこから先、すぐに長期的な脳のダメージを想定したり、凶悪犯罪と結びつけることについては、松田氏も、主査の開一夫助教授も「一部のデータからの飛躍的な憶測」であるとか、「十分な根拠なし」といった強い言葉で、警告している。

こう考えてみると、森氏は、つくづく「弱い証拠」から「大きな結論」を引き出してしまったのだなあと感じる。
これは岡田尊司氏の「脳内汚染」も同じなのだが。

やはり、ちゃんと研究しなきゃならない分野であろうし、社会的な関心が集まるのは大いに結構。
松田氏の研究によって、こういったテーマそのものが、脳科学のテーマとして成立しえるのだと専門家共同体の間で認められればいい。森氏はあきらかにその努力をせずに、こんなことになってしまったわけで。

って書きつつ、今月内に、ゲーム脳をめぐって考えたことを、もう一度、まとめておきたいなあと、自分にプレッシャーをかけておきます。


歴史に口を挟むペンギン

2006-03-23 21:28:09 | ひとが書いたもの
「ペンギンは歴史にもクチバシを挟む」上田一生、岩波書店

今更ながら入手して、ぱらぱらと読んでいる。
これが面白い。
歴史学(というのかな)のバックグラウンドがある方だから、ぼくなんぞが「ペンギン、日本人と出会う」で行った調査の百倍は文献に当たっているのではないか、というくらいの圧倒的な調査の上で成り立っている。
というわけで、「ペンギン、日本人と出会う」を読んで楽しんでくださった方は、こちらも絶対に楽しいはず。ぼくの本ではほとんど扱っていないヨーロッパでのことや、扱いが薄い戦前の日本のペンギン状況については圧倒的だ。
さらにいえば、ぼくが「日本人のペンギン好き」が形成されたメカニズムとして提示した仮説は、この本では見事に否定されている。否定されちゃっていいのです。もともと、作業仮説なわけで。ぼく自身も「そうだったのか!」と感心することしきり。「ペンギン、日本人と出会う」が文庫化される時には(いつ? とつっこむことなかれ)、補足します。
そして、日本人のペンギンへの愛着がもっと前から、もっと深いところから始まっているかもしれないと感じ、うれしくおもいましたとさ。


しのぶん叔母より、イカナゴが届く

2006-03-21 18:36:59 | 日々のわざ
Ikana春になると送っていただけるしのぶん印のイカナゴです。
今年は、イカナゴが小さくて、かわいらしい。しょうが味とさんしょう味の二種類です。
子供たちは、しょうが味が好きみたい。さんしょうは大人の味ですね。
それにしても、子供たちが、こうやって父親の生まれた土地の季節の食べ物を、毎年食べられるのはとてもありがたいこと。
感謝しております。しのぶん画伯。



健康増進法は良い法律である。分煙を支持してくれている意味においては

2006-03-21 07:40:06 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
 健康増進法とは良い法律である。
 少なくとも、公共の場所の分煙をはっきりと推進しようとする条項においては。
 
 でも、いやーなことに気付いてしまった。

 第二条にこんな条文があるのだ。
 
 (国民の責務)
第二条 国民は 健康な生活習慣の重要性に対する関心と理解を深め生涯にわたって自らの健康状態を自覚するとともに、健康の増進に努めなければならない。

 健康は、国民の責務であって、生涯にわたって努力しなければならないらしい。
 困った。ぼく自身健康でありたいから、努力はする所存だ。しかし、法律で決められたくないよな。
 このことを指摘してくれたのは、粥川準二さん(「資源化する身体」などの著者)。
 この前の日曜日、科学ジャーナリストが集まって意見交換するような集いが会ったのだが、そこで粥川さんの発表を聞いた。粥川さんは、最近、明治学院大学の大学院に在籍していて、ちょうど修士論文を仕上げたところなのだ。

 それにしても、なぜ、こんな条文が健康増進法に入り込んだのか。
 非常に素朴なレベルで、あれれっと思う。(素朴でない議論としては、粥川さんの修士論文が書籍化されるとのこと)

 その一方で、健康増進法以来、多少なりとも公共の場所の分煙の動きが活発になってきた実感もあって、ぼくはこの法律ができたことに感謝している。

 しかし、まいったな。
 本当に、この「責務」は余計だ。よく反・禁煙論者に、健康増進法を問題にする人がいるけれど、彼らが感じている危機感は、この部分については正しいと思う。
 にもかかわらず、こんな法律が導入されちゃう前に、マナーやら文化やらでなんとか解決してくれなかったあなたたち(喫煙者、とりわけ「マナーや文化」論者)どうしてくれるよ、迷惑だよ、という気分。もちろん喫煙問題だけが扱われる法律ではないから、喫煙者がマナーや文化で、分煙を実現していたとしても、こういう条文は生まれてきたのかもしれないが。

 せっかくなんで、ひさしぶりに喫煙関係の論考のエントリをコメント欄に貼っておきます。
 昔雑誌に書いた原稿をpdfにしたものです。

追記
某所より、これは八つ当たりであろうとの指摘あり。
そうですね。八つ当たりです。反省。
ぼくがエッセンシャルなこととして、感じているのは、現在のたばこ問題をめぐる混迷の一端は、「マナーや文化」を論じる、喫煙擁護論者が、みずからそのマナーや文化を、たばこの煙を痛みに感じる人たちが納得できる水準で創出しなかった(しようともしなかった)こと、のみです。
このことと、健康増進法の面妖さは、少し関係あるかもしれないけれど、たぶん別の要因の方が大きいでしょう。

「ニコチアナ」という、ぼくの作品の中ではもっとも売れなかった小説を書いた時、ぼくが投げかけたはずの問題意識を受け止めてくれたのは、自分が「クリーン」だと信じている非喫煙者よりも、むしろ、諸々のジレンマに悩む喫煙者に多かったという感覚があって、それゆえに、「健康」が絶対的善として君臨する社会への違和感を、正当に主張してくれるのは彼らではないかという期待も持っていたりするのですよね。

にもかかわらず、ぼくはやはり、たばこの煙は吸い込みたくないです。
会社やめてからますます感受性が高くなってしまい、いまやすぐに頭が痛くなるし。