先日、日本サッカー協会の田島幸三さん(技術委員長)のお話しを伺いに行って、たいへん刺激を受けた。
それで、感じたのだけれど、ぼくが描くサッカー小説のコアなコンセプトは、「サッカーの本質」。
ただ、「本質」といってもいろいろな側面があって、ぼくが特に注目しているのは、サッカーがかくも多くの地域、人々にによってプレーされる、普遍的な競技たり得ているか、という部分。
いつぞや、考察した文章があるので、こいつも再録。ちなみに、EURO2004のグループリーグの頃に書いたものです。
究極のロースコアゲーム
サッカーがなぜ、これほど世界的にプレーされて、みんなに愛されているのか、ということについての私見。
よく言われるのは特別な道具もなしに、ボール一個で(時にはボロぞうきんを丸めた擬似ボールで代用してもオーケイ)遊べるから、貧しい地域でも問題なく普及したなんてのがありますよね。キャプテン翼でも、そんなこと書いてあったような。
それはたぶん本当です。
でも、それだけじゃないです。
ぼくが考える本質的な部分というのは、サッカーは究極のロースコアゲームだから、ということなのです。
言葉を換えると、「サッカーは実力差圧縮システムを高度に実装した競技」であるということ。
順を追って説明しますね。
まず、サッカーって、ロースコアになるように、あの手この手で誘導されていると思いませんか。
広いピッチ。手に比べたら思うようにはならない足だけでボールを運ぶルール。オフサイドの存在、などなど。
もしも、点が入った方が楽しいという発想を優先させるなら、サッカー協会はオフサイドをなくすとか、ゴールを大きくするとか、いろいろやり方があるはずなのです。水球やハンドボールなら、ゴール前でフリーでボールを持たれてシュートを打たれたものは、まず入る方が多いですよね。サッカーは逆です。フリーで打ってさえ、枠を外したりする方が多い。ゴールが決まること自体が球技の喜びであるなら、サッカーは、なんらかの手を打って、もっと点が入る仕組みを考えるべきでしょう。
でも、そういうことしませんよね。サッカーはロースコアでよい、ということなのです。サッカー協会の歴代幹部たちは、意識的かどうか分からないけれど、そういう選択をしてきました。
で、ロースコアだとどうなるか、ですよね。
1対0や0対0が常態であるような球技って、いわば究極のロースコア競技であるわけですけど、これがすなわち「実力差の圧縮」の仕組みとして働くんです。
なぜなら、統計性が出ない、から。
実力差が、ある個別の試合の結果に、直接的に反映しにくいという意味で。
たとえばバスケで100点を取る実力のチームと50点しから得点できない実力のチーム(どうやって「実力」を計るかはおいといて)が対戦すれば、だいだいそれくらいのスコアに落ち着いて、決着がつきます。
でも、サッカーでは違いますよね。
50点チームの方がたまたま先に点を取ってしまったら、守備を固めて逃げ切り、なんてことも可能だし、ごく日常的にぼくたちはそういうゲームを見ています。
バスケで能代工がレイカーズと対戦したとします。100回戦っても、一度も勝てないでしょう。
サッカーで国見高がレアルと対戦したとします。100回戦って、勝てるかどうかは分からないけど、なにかの拍子に引き分けたりすることはあるかもしれません。
それがサッカーです。
ユーロで言えば、フランス代表って実はすごく強いのかもしれないと思います。
これがバスケなら、下馬評の通りグングン勝ち進んで、必ず決勝まで行くでしょう。
でも、サッカーだとグループリーグ敗退もありえるのです。
なぜなら、一回の試合の中で実力差を反映した結果を期待できないから。試合をたくさんやったとして、フランスが100点とる間に、相手は50点しかとれない、というような形でしか統計性が出てこないから。
こういったことが、ぼくがいう「実力差圧縮のシステム」です。
話は一番最初ところに戻ります。
実力差が圧縮されるとどうなるか。
ユーロであれ、ワールドカップであれ、参加するすべてのチームに下克上を狙える余地があるということです。
めちゃくちゃ弱いチームでも大きな大会の予選を勝ち抜いて、優勝候補に一泡吹かせることができるかもしれない。
例えば今回で言えば、ラトビアですね。
サッカー協会ができてそれほど間もない小国で、実際のプレー内容も貧弱なのに、チェコをあれだけ苦しめる。ぼくは正直、彼らがトルコに勝ったことが不思議です。でも、それが実際に起きて、彼らはここにいる。
W杯予選で、FIFAランクがめちゃくちゃひくいフィジーだったかトンガだったかが、韓国代表と引き分けるなんてのも最近ありましたね。それも全然、不思議じゃないですよね。
本物のワールドクラスになるのは難しくても、大会に参加して勝利を夢見てもバチが当たらない水準には比較的容易に達することができるのは、この実力差圧縮システムのおかげ、というわけです。
ユーロだって、ワールドカップだって、参加した国は、それぞれ「夢を持てる」んです。
よく「ユーロは実力が拮抗しているから何が起こるか分からない」というけれど、ぼくはサッカーの内容などを見ているとやはり相当な実力差があり、もしもバスケのようなハイスコアゲームなら、「拮抗している」とはとても言えないものだと思います。ユーロの拮抗の魅力は、実力差圧縮の仕組みによっていると思うのです。
すべての人が、夢を見て良い。競技、ということなんですね。
最初に書いた、手軽に遊べるという側面とあいまって、サッカーが普及していく要因になっていると思うのですよ。
以上、力こぶが入った割には、雑な説明になっちゃった、かな。
でも、とても本質的なことだと思うので、書いておきました。
それで、感じたのだけれど、ぼくが描くサッカー小説のコアなコンセプトは、「サッカーの本質」。
ただ、「本質」といってもいろいろな側面があって、ぼくが特に注目しているのは、サッカーがかくも多くの地域、人々にによってプレーされる、普遍的な競技たり得ているか、という部分。
いつぞや、考察した文章があるので、こいつも再録。ちなみに、EURO2004のグループリーグの頃に書いたものです。
究極のロースコアゲーム
サッカーがなぜ、これほど世界的にプレーされて、みんなに愛されているのか、ということについての私見。
よく言われるのは特別な道具もなしに、ボール一個で(時にはボロぞうきんを丸めた擬似ボールで代用してもオーケイ)遊べるから、貧しい地域でも問題なく普及したなんてのがありますよね。キャプテン翼でも、そんなこと書いてあったような。
それはたぶん本当です。
でも、それだけじゃないです。
ぼくが考える本質的な部分というのは、サッカーは究極のロースコアゲームだから、ということなのです。
言葉を換えると、「サッカーは実力差圧縮システムを高度に実装した競技」であるということ。
順を追って説明しますね。
まず、サッカーって、ロースコアになるように、あの手この手で誘導されていると思いませんか。
広いピッチ。手に比べたら思うようにはならない足だけでボールを運ぶルール。オフサイドの存在、などなど。
もしも、点が入った方が楽しいという発想を優先させるなら、サッカー協会はオフサイドをなくすとか、ゴールを大きくするとか、いろいろやり方があるはずなのです。水球やハンドボールなら、ゴール前でフリーでボールを持たれてシュートを打たれたものは、まず入る方が多いですよね。サッカーは逆です。フリーで打ってさえ、枠を外したりする方が多い。ゴールが決まること自体が球技の喜びであるなら、サッカーは、なんらかの手を打って、もっと点が入る仕組みを考えるべきでしょう。
でも、そういうことしませんよね。サッカーはロースコアでよい、ということなのです。サッカー協会の歴代幹部たちは、意識的かどうか分からないけれど、そういう選択をしてきました。
で、ロースコアだとどうなるか、ですよね。
1対0や0対0が常態であるような球技って、いわば究極のロースコア競技であるわけですけど、これがすなわち「実力差の圧縮」の仕組みとして働くんです。
なぜなら、統計性が出ない、から。
実力差が、ある個別の試合の結果に、直接的に反映しにくいという意味で。
たとえばバスケで100点を取る実力のチームと50点しから得点できない実力のチーム(どうやって「実力」を計るかはおいといて)が対戦すれば、だいだいそれくらいのスコアに落ち着いて、決着がつきます。
でも、サッカーでは違いますよね。
50点チームの方がたまたま先に点を取ってしまったら、守備を固めて逃げ切り、なんてことも可能だし、ごく日常的にぼくたちはそういうゲームを見ています。
バスケで能代工がレイカーズと対戦したとします。100回戦っても、一度も勝てないでしょう。
サッカーで国見高がレアルと対戦したとします。100回戦って、勝てるかどうかは分からないけど、なにかの拍子に引き分けたりすることはあるかもしれません。
それがサッカーです。
ユーロで言えば、フランス代表って実はすごく強いのかもしれないと思います。
これがバスケなら、下馬評の通りグングン勝ち進んで、必ず決勝まで行くでしょう。
でも、サッカーだとグループリーグ敗退もありえるのです。
なぜなら、一回の試合の中で実力差を反映した結果を期待できないから。試合をたくさんやったとして、フランスが100点とる間に、相手は50点しかとれない、というような形でしか統計性が出てこないから。
こういったことが、ぼくがいう「実力差圧縮のシステム」です。
話は一番最初ところに戻ります。
実力差が圧縮されるとどうなるか。
ユーロであれ、ワールドカップであれ、参加するすべてのチームに下克上を狙える余地があるということです。
めちゃくちゃ弱いチームでも大きな大会の予選を勝ち抜いて、優勝候補に一泡吹かせることができるかもしれない。
例えば今回で言えば、ラトビアですね。
サッカー協会ができてそれほど間もない小国で、実際のプレー内容も貧弱なのに、チェコをあれだけ苦しめる。ぼくは正直、彼らがトルコに勝ったことが不思議です。でも、それが実際に起きて、彼らはここにいる。
W杯予選で、FIFAランクがめちゃくちゃひくいフィジーだったかトンガだったかが、韓国代表と引き分けるなんてのも最近ありましたね。それも全然、不思議じゃないですよね。
本物のワールドクラスになるのは難しくても、大会に参加して勝利を夢見てもバチが当たらない水準には比較的容易に達することができるのは、この実力差圧縮システムのおかげ、というわけです。
ユーロだって、ワールドカップだって、参加した国は、それぞれ「夢を持てる」んです。
よく「ユーロは実力が拮抗しているから何が起こるか分からない」というけれど、ぼくはサッカーの内容などを見ているとやはり相当な実力差があり、もしもバスケのようなハイスコアゲームなら、「拮抗している」とはとても言えないものだと思います。ユーロの拮抗の魅力は、実力差圧縮の仕組みによっていると思うのです。
すべての人が、夢を見て良い。競技、ということなんですね。
最初に書いた、手軽に遊べるという側面とあいまって、サッカーが普及していく要因になっていると思うのですよ。
以上、力こぶが入った割には、雑な説明になっちゃった、かな。
でも、とても本質的なことだと思うので、書いておきました。
もうゲーム終了です。
それがスポーツとなる過程で、それではあんまりあっけなく終わってしまうということで、時間制になり、その時間内に得点をきそいあうようになった。
ただ「ゴール」の言葉は引き継がれたと。
というのをサッカー批評?なんかで読みました。
サッカーとはそもそも点はなかなか入らないものですね。
すごく説得力があります。おもしろいです。