前々ら興味を持っている病理学の本を2冊続けて読んだ。
古い話だが「白い巨塔」の中で、権謀術数渦巻く医局の中、病理学の教授だけが「真実を追究する学徒」として登場し
「医学は病理学に始まり病理学に終わる」と述べるシーンが印象的だった。
実際に、物語のラストシーンは、栄華を誇った教授がみずからがんに罹患し死亡、病理解剖されるシーンだったはずだ(かなりあいまい)。
「病理学に始まり病理学に終わる」というのはすごい自負であるが、それとは別方面から疫学の勉強などをしていると、日本の病理学重視はなにか変なんじゃないかという気もしてくる。
しかし、病理学という領域自体は、医学界で頼りにもされているものの、なり手のなかなかいない不人気分野らしいことも聞き知っていた。というわけで、そのあたりも含めて興味津々。
両書とも、きわめて一般書なので、わかりやすい。しかし、知らないことだらけの世界なので、それなりに頭の中がパンパンになる要素もあって、いいあんばいである。
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前者
「わたしの病気は何ですか」は、岩波科学ライブラリーらしい良書。
我々が病院に行って、なにやら病気らしいとわかり、たとえば胃の組織を少し採取したあとでどんな検査が行われどう判断が下されるのか。
病理医の「確定診断」の仕事が導入部として述べられる。その後、一般的に視野を広げ、基礎編・応用編と続く。読みやすい。手にした組織をどんな手技で標本にしていくのか、とか、術中迅速診断話など興味深い。
キモは、サブタイトルになっている「病理診断科」への招待の部分か。病理学、「標榜科」として認められていなかったそうなのだが、2008年から「病理診断科」なるものが認められ、大きな病院などではぽつぽつとそのような専門科ができつつあるそうだ。
そして、市民病理学への誘いという大きな風呂敷を広げて、着地する良書。
最後の方のコラムで述べられている病理医不足は深刻。年間千数百万件必要とされている病理診断に対し、病理医は千数百人しかないという。単純計算一人の病理医が1万件の病隣診断をする。年間300日実働として、1日で300の標本を見なければならない計算になる。この計算が正しければ、ちょっと危険な領域だ。
日が当たらず不人気で有名(らしい)麻酔医でも8000人くらいはいると聞いたのだが。これは麻酔医ハナちゃんのコミックから仕入れた知識だから本当かしらないが。
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「そのがん宣告を疑え」は、「病理医だから見分けるグレーゾーン」という不思議なサブタイトルがついている。
病理医なら、グレーゾーンにしっかりと線を引けるという意味なのだろうか。
それはそれとして、冒頭のエピソードが衝撃的だ。
静岡県清水市に、乳がん手術の名医がいた。
その名医にかかると、乳がんの再発率が全国平均よりずばぬけて低い。すばらしい手術の技術を持った名医である……というのが嘘で、実は、ろくろく病理検査もせずに、乳がんでない人まで手術をしていたからではないか、と訴訟になったという話。
たしかに、乳がんでない人を手術すれば、「再発」はありえないわけで、すごい名医もいたものである。
で、だからこそ、病理検査は大事で、いかに病理医はグレーゾーンを見分けることに神経をとがらせ、努力しているか、という方面に話はいく。
グレーゾーンの病変については、一歩引いて見つめるべき、という信条は信頼できると感じた。
病理医の魅力、やりがいについても語られ、新たな病理医よ出でよ!という内容にもなっている。
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両方とも、病理医の世界を垣間見せさてくれて、非常に興味深い読書だったといえる。
2冊通して読んでみて、不思議に感じたのは、感度と特異度についての議論がないのはどうしてだろうということ。
たとえば、後者の方に出てきた乳がんを例にとって考えてみる。
乳がんの集団検査で、ひっかかってくる人たちの中には疑陽性(本当は乳がんじゃないのに、乳がんかも、と判定された人)がかなりまじっている。これは、感度が高い(乳がんの人を見逃さない。しかし、同時に乳がんぽい人も拾ってしまう)スクリーニングの宿命。
そこで、確定診断というものが必要になって、病理検査の出番だ。
病理検査は、感度は高くなくてもよくて、特異度が高いものを採用する。つまり、がんではない人をちゃんとがんではないと判別すること。
病理検査にまわされてくる標本は、かりに、乳がんの検診で陽性が出たのだとしても、その中にまぎれているかもしれない、本当はがんではない人をかんではないと判別してあげることが大事だ。
これを完璧にできれば、最初は疑陽性が含まれた「がん候補」の集団から「本当にがん」のみの集団を抽出できる。
このとき、病理医は、自分が特異度の高い検査をしているのだと自覚しているのかなあと素朴な疑問。
ちなみに、特異度の検査は頑張っても100%にはなりえない。これは、感度を高めると疑陽性が多くまぎれこむのと一緒で、特異度を高くすると、今度は本当はがんなのにがんではないと判定される人が出てくる。
慎重に複数の方法で確かめると、かなり確からしいところまでいくだろうけれど、残念ながら一〇〇%にはならない。
で、一般にがんを見逃すことの方が怖いと考えられるだろうから、きっと、今でも「がんではないのにがんとして手術される」人っているんだろうなあと、この本を読んであらためて思ったのだった。
考えが浅かったらご指摘を。
20110526追記
このエントリを読んで、複数の方から「意を得たり、医学不信なり」みたいな反応をいただいたので追記。
ぼく自身としては、ここで医学不信を表明したかったわけではまったくないです。
もちろん医学過信はいかんと思いますが(何事も過ぎたるは及ばざるがごとし)、別に不信になるほどでもない。
ある方は、「がん」を不定な概念として、日本の医療は、不定なるモノを無理矢理ある形に落とし込み利益を得んがための利権産業である(意訳)と述べました。
そうなのかな?
たしかに「がん」というのが、境界の分からない言葉であるのは事実かも。
しかし、世のお医者さんたちは、ただの「不定な」概念相手に日々、仕事してるのですか?
医学のおかげで、平均余命が伸びたり、QOLが向上したように思えるのはただの錯覚ですか?
ここから先、世界観の問題になってしまうかもしれんですが、ぼくはそう感じたことは全くないです。
で、ぼくがここでなにが言いたかったかというと……
「医学は病理学に始まり病理学に終わる」わけでも、「臨床にはじまり臨床に終わる」わけでも、両方リンクしないと意味ないし(リンクさせるのは、たぶん疫学の仕事ですよね。このブログ読んでくれている人は周知の通り)、しかし、すべてうまくリンクしたとしても、「間違いは必ずどこかでおこっている」という、あまり受け入れたくないけれど、まず間違いない事実についてです。
これは、この世界の仕組み上仕方ないので、そういうの織り込み済みで、我々は生きなきゃいかんわけです。
過信はいかんけど、不信も不幸でしょう。
そういうこと。
(やや酔っ払いながら追記)
追記2 20110527
コメント欄でいただいたコメント欄から、「特異度の高い検査」「病理検査」「確定診断」といった語群を、かなり混同しているのかもしれないと気づきました。
病理標本を見ることが、そのまま確定診断であるというのは、単純に現実と違うみたいですね(汗)