川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

気がついたらドジョウがいた

2011-08-30 21:15:21 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
Img_6633娘がつい、お祭りで掬ってきてしまったらしい。
仕方なしに、飼うことにする。
2尾いるうちの1尾は、なぜかタマオ君と呼ばれている。
もう1尾には名前がない。
さらにいうと、どっちがどっちか分からない。

Img_6632やはり、頭部をしげしげとみて、感覚器官に興味津々である。
ヒゲと目はともかく、鼻らしきものもある。
結構嗅覚は役に立ちそうだ。

しかし、いつまで飼えるのか。安易に放流というわけにもいかず、なやましい。

いや、それ以前に……これ、何ドジョウ、なんでしょうか。


ナショジオ連載は、ジェミノイドとご対面。

2011-08-22 22:07:20 | 自分の書いたもの
http://nng.nikkeibp.co.jp/nng/article/20110810/280588/index.shtml

ロボットに関心のある人で、知らない人はいないであろう大阪大学&ATRの石黒浩さんを取材。
自分をコピーした「ジェミノイド」を中心に、これから5日間連続更新です。

しっかし、取材しておもったんですが、カッ飛んだ研究だし、カッ飛んだ研究者です。
ジェミノイドってなんだって、まだ知らない人がいたら、ぜひぜひ読んでやってください!


小三教育技術と小四教育技術にギャングエイジの紹介

2011-08-17 16:45:12 | 自分の書いたもの
小三教育技術 2011年 09月号 [雑誌]小三教育技術 2011年 09月号 [雑誌]
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発売日:2011-08-16
小四教育技術 2011年 09月号 [雑誌]小四教育技術 2011年 09月号 [雑誌]
価格:¥ 980(税込)
発売日:2011-08-16

ええっと、世の中には「ええっ、こんな雑誌があるの?」というようなニッチなものがありまして、非教育関係者からしてみると、各学年ごとの「教育技術」、および「総合教育技術」(管理職むけ)もその類でありましょう。

ほんと、学年ごとに出ているのがすごい! 版元が小学館であることを考えると、ある意味「小学○年生」の先生版なのではないかと、なんか納得感があったりいたします(ぼくだけ?)。

そして、この小三と小四のものに、「教師に勧めたい本」として「ギャングエイジ」が取り上げられました。

で、さっそく見破られてる!
この先生、きっと『小三教育技術』を読んでいる!
って!
はい、きっと、読んでます。

だって、著書も読んでるから(笑)。

実際、この雑誌は、たくさんの先生も読んでおり、また、その世界を知らないぼくにしてみれば、情報の宝庫。バックナンバー取りそろえて、熟読しましたとも。授業のアイデアなども、先生たちがやるのと同じようにいただきましたともさ(だから、てるてる先生は、この本を読んでるというのは、まったくもって正しいわけです)。
巻末の謝辞に書き加えようかと真剣に考えたほど。

でも、本来一番謝辞に書きたかった、話を聞かせてくださった現役の先生などは、あまり言及されるのを好まれないようなので、謝辞のコーナー自体がなくなり、この件も書けなくなったわけでした。

というわけで、この場で、お礼申し上げるとともに、ご紹介もありがとうございましたと、ダブルで御礼なのでありました。
ギャングエイジギャングエイジ
価格:¥ 1,680(税込)
発売日:2011-07-28


月刊プリンシパル9月号、大きく舵を切ったPTA

2011-08-17 04:19:19 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
月刊 Principal (プリンシパル) 2011年 09月号 [雑誌]月刊 Principal (プリンシパル) 2011年 09月号 [雑誌]
価格:¥ 620(税込)
発売日:2011-08-12
本当はニュージーランドの学校理事会の話をしようとしていのだけれど、岡山の小学校PTAで、非常にうれしくも頼もしい試みが進行中ゆえ、それについて書きました。




「かけ算の順序」の問題について。ニュージーランドの算数教科書を見ながら……(目下、現場の先生のコメン

2011-08-10 06:49:49 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
R1038195
日本の小学校で教えられる「かけ算の順序」とは、逆に教えるのが英語圏の流儀のようで。
その証拠(?)写真。

これはちょっと古いのだけれど、1983年にニューランド教育省が発行した教科書(検定制度ではなく、当時NZでは教育省がじきじきに教科書を出していた。今はやってません)
2009-2010にかけてNZに滞在した際、この古い教科書を学校が廃棄する現場にたまたま出くわし、一冊持ち帰った中に、かけ算の導入部が含まれていた。

ご覧のように日本の算数指導で「正しい」とされる順番とは正反対。
かけ算の順番は、指導法として教えやすい方法で教えるのがよいだろうが、その順番自体が、数学・算数的に「正しい」「正しくない」というものではない、ということも押さえておいてほしいもの。

というのも、「かけ算には正しい順番がある」と教える人・信じている人は、それが、数学として「宇宙的に普遍的」なものと感じているフシがあるようなので。実際のところは、宇宙的どころか、地球的真理、というわけでもなく、あくまで「文化」「お約束」のレベルだと、この一例からでも納得してもらえるのでは?(だといいな)。


と、ここまで納得した人は、きっと先は読まなくていいです。
続きは、このエントリではじめて、こういう問題があるのかと知った人のために。
まず、この件、かなり長期にわたり、あちこちで議論されてきているので、代表的なリンクを張る。

*******
http://sakuralab.jp/lablog/2011/07/25/574.html
入門編は、東大の佐倉統さんが読売新聞の「サイエンス・サラダ」に書いたコラム。数学の専門家ではないので、たぶん、このエントリの読者視線にも一番近いはず。

さらにしっかりことの本質を理解した人には下の2つ。
http://www.math.tohoku.ac.jp/~kuroki/LaTeX/20101123Kakezan.html
東北大学の数学者黒木玄さんによる「かけ算の式の順序にこだわってバツを付ける教え方は止めるべきである」。かなり長文だけど、読めばかなり深く分かる。中で言及されているメタメタさん、積分定数さんの議論は、すごく熱心にこの問題に様々な方面から迫っており、示唆に富む。

http://www.cp.cmc.osaka-u.ac.jp/~kikuchi/weblog/index.php?UID=1311344507
大阪大学の物理学者・菊池誠さんによる「掛け算の順序問題について」。
******

で、簡単に、この「問題」の本当にエッセンスについてだけ。


日本の小学校での「かけ算の順序」
日本の算数教育の現場では、
「3つの林檎が、5つの皿に盛られている、林檎は全部でいくつ?」という問題に対して3個×5=15個と書くのが推奨される。


一方、
「5つの皿があり、3つの林檎がそれぞれ盛られています。林檎は全部でいくつ?」と聞かれた時に、出てくる数の順番通りに、
5×3個=15個と書くとバツになってしまうことがある
らしい。

かけ算は交換法則が成り立つので、出てくる解答は同じ。また、中学以上の数学で、こういう順序に拘ることは希だろう。
でも、バツをつける先生の中には、「かけ算には普遍的な順序」があると思っている人がいるらしいことは、上記、リンクを読んでいただけると、だいたい理解できるか、と。

実際のところ、数学的な議論に入って行かなくても、かけ算の順序が、単なる指導法であり、別に普遍的な真理ではないことは明らか(上にあげたリンクの中では、あえて相手の土俵にあがった上で、逆順表記も正当化する試みをしている場合があるけれど、ぼくは興味なし)。


ニュージーランドの場合
なぜって、ほかの国では、逆の順序を推奨してかけ算を導入するのもごく普通に見られるわけだから。
もしも日本式の順序が「正しい」なら、別の教え方をしている国の算数は「間違っている」ことになる。
さっきのニュージーランドの教科書。ここだけクローズアップ。

Nzmath
平たいコイン(みたいなもの)が2枚ずつ、4つの皿(みたいなもの)に分かれてる。

日本の小学校式にやるなら、2個×4=8個になる。逆にやるとバツになることもあるのだよね。

でも、この教科書では、日本式とは逆。
まず4倍であると宣言してから、1皿ごと(単位当たり)の個数である2を後に置く。答はもちろん一緒。

英語では、4 times 2というと、4×2のことであり、これは「2を4つ」という意味。どうも、自然言語に引きずられて、かけ算の順序が決まっているのかなあという気もする。


インドの場合?
「インドの算数の教科書」を英語に訳したという不思議な本が日本で出ていているのだけれど(書誌情報は末尾に)、その中での計算法も日本の場合と逆。
R1038197
これは九九。3 groups of 4とかの下に赤字で「4が3組」と日本語で注釈してくれているところがお茶目かも。
インドで対応する表現があるのか知らないけれど(たぶんあるのでしょう。ご存じの方、ご教示を)、
4 groups of 3という表現に即して、4×3個、というふうに「立式」されている。

英語圏の人だけでなくインドの人も、「まず何倍か」を宣言してから「個数」を書く、スタイルで教わるみたい。
さきほども言ったように、純粋に算数・数学ではなく、むしろ、使用される自然言語によって、教えやすい方法でやっているのかな、という印象。

以上、「かけ算の順序」について、ほかの言語圏のことを参照することで、「絶対的なものではない」ことを示した。宇宙的どころか、地球的真理、というわけでもなく、あくまで「文化」「お約束」のレベル
というところまではいいかな。

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********


ここまでのところで、一応のまとめ。

・「かけ算の順序」は普遍的な法則というわけでなく、どうやら、世界のあちこちで違うローカルルールらしい。つまり、かけ算に普遍的な順序があるわけではない。(これは、確実に言えること)

・ひょっとすると、「かけ算の順序」は、自然言語での順番に引きずられているかも知れない(これは仮説)。

この2点。


自然言語からの導入
とすると、かけ算の導入時に、先生が児童に対して、「かけ算の順序」を自然言語に即して教えるのはむしろ大切だろう。

3 times 5 とか
4 groups of 2とか

そんなふうに表現するのが当たり前の自然言語の話者は、まず何倍と宣言してから、単位あたりの個数をかける(日本とは逆)がしっくりするはず。

また、日本語で、

「3つの林檎が載った皿が5つ」の方が、
「皿が5つあって、それぞれに林檎が3つ」

よりも自然であるならば、その順序通り、3個X5=15個と導入するのがスムーズだろう。

とするなら、日本で、3個X5=15個と最初教えるのは、理にかなったことと思える。


指導要領はどうなっている?
さて、ここで参照したいのは、指導要領(正確には指導要領解説)。ウェブでも公開されているし、Amazonでも購入できる。250円でえらく安い。一度購入すれば、しばらくは変わらないから、持ってて損はない。
小学校学習指導要領解説 算数編小学校学習指導要領解説 算数編
価格:¥ 250(税込)
発売日:2008-08


で、ウェブではここでよめる(PDF)。

結論からいうとかけ算が導入される小2で、かけ算の順序を重視する記述はない。

むしろ、81ページには、こんな印象的な一節がある。


一つの数をほかの数の積としてみること
例えば,「12個のおはじきを工夫して並べる」という活動を行うと,いろいろな並 べ方ができる。下の図のように並べると,2×6,6×2,3×4,4×3などのような式で 表すことができる。このように,一つの数をほかの数の積としてみることができるようにし,数についての理解を深めるとともに,数についての感覚を豊かにする。


ちなみに、下の図、とは、こういう図。「数の感覚」の豊かさというのは大事だよなあ、としみじみ思う。

Sansu

算数・数学は、自然言語と違って、国・地域、文化・民族を問わず、共通だ。
本当にすごいことだと思うのだが、これは本当のことだ。我々が生まれ落ちたこの世界は実にすごい。

だから、英語圏で教育を受けた数学者も、日本で教育を受けた数学者も、数学のコトバで、理解し合うことができる。
かけ算に決まった順序などない。


なぜ、順序にこだわる指導が行われるのか
では、なぜ、かけ算の導入を終えて、交換則も当たり前になった後でも、「順序」にこだわったかけ算指導が行われるのか。

先走って書いてしまう。
まず、指導要領解説にはそんなことは書かれていないものの、指導書(教科書に赤い字で、解説が書き込んである、いわゆるアンチョコ)に、順序を徹底することを推奨するものが多く、それに従って、現場の先生がそのように教えているのではないか、と言われる。

最初にあげた黒木さん菊池さんの記述や、積分定数さん、メタメタさんにもいろんな角度から分析あり。
(黒木さんがコメント欄に記入してくれた通り、さらなる背景として、1960年代に文部省が「順序重視」を記述した出版物を出したり、また、数学教育協議会の数学者の影響など)

目下の最大の「順序重視」のソースというか、教員にとってのカジュアルな入り口は指導者とはいえるだろう。また、「そのように教えられて育った先生が今教えている」のも影響が大きいかもと思う。


順序にこだわると良いことはある?
もっとも、ぼくも、上にあげたリンク関係者も、初等教育の現場で教えている人ではない。

現場の先生は、教育効果を考えるのが当然であって、「順序」を大切にすることが、算数の理解を容易にして、よりよい教育効果を生むなら、それは否定しずらい。
この点については、現場の実感を是非聞きたいところだ。

ぼくは「ギャングエイジ」という小学校小説を仕上げたばかりなので、その時お世話になった現役の小学校の先生にちらりと聞くことはできた。それによると、教育効果についてあまりはっきりとした意見はなかった。一方、「導入時には順序を設定しないと教えにくい」という意見はあった。

というわけで(?)、この点について、さらなる現場よりの意見・コメントお待ちしています(ぼくが、聞いた人は、現時点でたった3人です)。


「かけ算の順序」に拘るデメリット

デメリットについて、ぼくがここで特に問題にしたいのは2点。

・本来、数学的に合っている解答にバツをされる子が出てくる。算数嫌いをつくり出しそう。

・いずれは「どっちでもいい」になることに無理に拘っているためか、実は児童にこの「順序」を徹底させるのはかなり難しそうだ。


前者は、先生の工夫によって、どうとでもなる部分もあって一概には言えないのだけど、やっぱりそれで傷ついたり、嫌になったりする子はいるだろう。
 
後者は、ぼくには深刻に思える。
 
ぼくが話した先生たち(先に述べた通り3人に聞いただけなのであまり信頼性はない。引き続き意見乞う)は、この順序を徹底するのは、結構難しいと述べていた。
 
できる子はできる子で、頭の中で交換則が成り立つを理解しているから、ぱっと「逆順」に計算してしまう(ぼくの観点ではそれでオーケイ!)。
 
できない子は、高学年でも、うーん、どっちが先でどっちが後だったか、とか悩み込んでしまうこともある、とか。


サンドウィッチ方式
そこで、現場の知恵として、「サンドウィッチ」方式という教え方があるのだそうだ。
 
3X5=15 
(正確には、3(個/皿)X5皿=15個 と書く方が正しいと考えられるが)
 
というふうに、同じ単位を最初と最後にもってくる。間に「いくつ分」が来るように式を整える。
 
ただし、この教え方をすると、児童は機械的にこの形に整えるので、順序の「意味」に無頓着になってしまうジレンマがあるという(ぼくの立場では、順序の意味はないので、別にジレンマではないが、そもそもこの形に整える意味がない)。
 

2×8ならタコ2本足
そこで、優秀な先生はこういう工夫をする。

これは朝日新聞の「花まる先生」公開授業というコーナー。この先生は、記事から読みとれるだけでも滅茶苦茶優秀なで、こうやって否定的な引用をしなければならないのを心苦しく思うのだけれど、非常に示唆に富むので申し訳なくも、引かせていただく。
 
http://www.asahi.com/edu/student/teacher/TKY201101160133.html
 
この先生は、「タコが2匹います。それぞれ足は8本。全部で足は何本?」という問いに、2X8と立式するのはよくないという。2本脚のタコを8頭想定していることになることになるから、と。そして、見事な授業術で、児童にそれを納得させる。ちゃんと、児童は「落ちている」(腑に落ちる、みたいな感覚でそういう言葉を使う先生がよくいる)。
 
「2X8でも8X2でも答えは同じ。でも、意味は全然違う」というけれど、ぼくの観点からは間違い。
式だけから、背景にあるとここで想定されている「意味」を抽出することはできない。意味を付与するのは、数学・算数とは関係ない、我々の日常世界での文脈やいきががりやらである。
つまり、ここでは、算数の授業をやりつつ、実は国語をやっているのかもしれない。

先生は「かけ算の意味って、すごく大切。数字の順番でなく、何のいくつ分か考えてとくことが大切」と締める。

実はこの結論部には、ぼくは半分合意できるのだ。「数字の順番でなく、何のいくつ分か考えてとくことが大切」という部分。単位あたりの量と、それが何単位あるか、というのは、そのような設問である場合には、きっちり意識できるようにしたいものだ。

そしてそれができれば、先生の言うとおり「数字の順番でなく」なる。日本式とは逆に書いても、「単位あたりの量」と「何単位か」が明確に意識できてれば、それでよい。わざわざ、2本脚のタコなんて創り出す必要はない。

花丸先生は、「数字の順番でなく、何のいくつ分か」を意識させた後、2本脚のタコを創り出すのではなく、逆に、それさえ意識できれば順序はどっちでもいいと教えられなかったか。
分かる子にはちゃんと分かるし、分からない子にも無理に順序に拘る負担が減る。

この授業は、3年生対象なのだけれど、ぼくの修正版授業は、難しいだろうか。これも現場の人に聞いてみたい。


まとめ。大切なのは、自然言語から抽象世界への離陸
小学校算数から数学への流れは、「自然言語の世界で普段暮らしている児童を、最初は自然言語に寄り添いつつ"数"の世界へ誘い、のちには抽象的な数学世界へ離陸させること」ではないか。

かけ算の順序について、導入時、自然言語とリンクさせるのはたぶん大事で、問題はいつ「数の世界」へと離陸するかというさじ加減だ。

ぼくの今の意見では、それはもうかけ算を教えた直後でいい(違うという、現場の声があれば是非知りたい。なんかそればっかりだが)。


初等教育の現場やそれにかかわる人たちへ
というわけで、お願い。

教育にかかわる人は「かけ算の順序」が普遍的なルールでないのはまず自明と認識してほしい。

そして、いずれは、自然言語を離れて、抽象思考をする数学の世界(かけ算の順序はどちらでもいい)に児童を誘うのが、算数から数学への流れだと認識してほしい。

その上で、ある時期まで「かけ算の順序」に拘る指導を徹底することを自覚的に選ぶとしたら(いずれは、「どっちでもオーケイ」にむけてテイクオフしなければないないにしても)、それによって得られる教育効果のエビデンスに基づいて決めてほしい。

なおエビデンスについては、教育現場でどのように捉えられているかぼくは知らないので、これも誰が知っている人いますか、と問いかけたい。教育実践がどのような成果を挙げるか、きちんとした研究設計をした上での証拠のこと。このブログを読んでくれている人にとっては「例によって」、疫学も関係してくること。


最後に
これを書いた最大の動機は、小説「ギャングエイジ」でお世話になった現場の先生たち、PTAの問題で意見を伺った校長先生たち、教育関連の出版社の編集者さんなど、教育の現場に近い知り合いに読んでほしかったから。

そして、ブログで公開する以上、他の人にも読んでほしいし、文中に何度も書いたように、現場の意見が聞きたい。
ひとつよろしくお願いいたしまする。

結局、かなりとっちらかってしまったけど、一応、おしまい。
かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)かけ算には順序があるのか (岩波科学ライブラリー)
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2011-05-27


追記
では、英語圏では式の順番に拘る指導はないのかと問われた。
これはぼくは知らない。網羅的な方針があるとしても(あったら知りたい)、アメリカなどでは州ごとに違うだろうし、調べるのはやっかいだ。
ただ、すくなとも「かけ算の順序」こだわる先生はいるみたい。お子さんがアメリカの小学校で日本式の「正しい順序」立式したところ「プロセス重視」の名の下に、バツをつけられた報告をしているブログがある(はてぶ)より。

http://chochonmage.blog21.fc2.com/blog-entry-55.html

この問題を語るには外せないと思われるメタメタさんのこの本を、読まない状態で、この文章を書いた。
とても詳しく考察されているようだが(ブログからも推察される)、とにかく、枝葉には入らず、シンプルに「ローカルルールでしょ」という視点のみで、するりと書きたかったから。本はこれから読みます。

久世濃子さんのオランウータン論文紹介(実はいきがかり上共著)研究者ダマシイについて追記

2011-08-09 22:03:41 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
27_21_2去年、マレーシア側のボルネオ、サバ州のダナムバレーにて撮った写真。
実は、オランウータンの珍しい巣作り(&夜食)のシーンだったらしくて、霊長研のPrimate ResearchのShort letterになりました。

”A wild Borneo orangutan carries large numbers of branches on the neck for feeding and nest building in the Danum Valley Conservation Area”(ダナムバレー森林保護区の野生ボルネオ・オランウータンが採食と巣作りの為に大量の枝を肩にのせて運搬した事例の報告)

とりあえず日本語要旨。
http://www.jstage.jst.go.jp/article/psj/27/1/27_21/_article/-char/ja/

そして論文(PDF)
http://www.jstage.jst.go.jp/article/psj/27/1/21/_pdf/-char/ja/

要旨だけ読んでもらえれば、分かる通り、重要なのはどちらかというと、↓の方の写真です。
27_21_1
でも、ちょっと静止画では分かりにくいですね。

ちなみに、これらの写真と一緒に、動画が下記リンクで観られます。動画はそのままファイル落ちてきます。
http://www.jstage.jst.go.jp/article/psj/27/1/27_21/_applist/-char/ja/

この論文をまとめる課程で、Refereeとのやりとりを間近に見ることができたり、とても面白かったです。

それにもまして、このシーンに出くわした経緯など、久世さんの執念というかなんとうか、研究者魂の部分は、また余裕がある時にでも書き足すことといたしませう。

本日は、論文発表のお知らせまで。

2011.8.9追記
余裕が出来たので、フィールド研究者ダマシイについてちょっと(デスマスやめる)。

ぼくがこのシーンに出会うことができたのは、ほとんど偶然なのだけれど、研究者である久世濃子さんにとっては、偶然でもなんでもなくて、かなり必然な部分だった。
彼女があきらめたら、見られるものも見られなくなったという意味で。

オランウータンのフィールド調査は、発見→追跡調査→オランウータンが巣作りして活動停止、というところで一段落する。巣を作ったら翌朝も同じ場所にいるので、活動開始前に駆けつけて、一日追跡、というのが通常パターン。

で、活動停止後、彼らが何をやってるのかって、実は分からないわけ。
通常は下から樹上の巣を見上げ、これできょうはオヤスミだな、というところで観察が出来なくなる。じゃあ、巣の中で、彼ら・彼女らが何をしているのかというのは、非常に観察例が少なくて、研究者なら見たくて仕方ない! でも、それができるシチュエーションは野生では滅多にないから報告も少ない。

この日、ぼくらが付いていった子はシーナという女子。
普段よりもよく動き、どんどん丘の上にのぼっていく方向で、樹上移動していった。これは観察者にはきつくて、特に丘に上がっていく部分は下生えがたくさんあり、山刀で道を切り開きつつ、といった状況に陥った。

シーナはその丘というか小山の斜面に生えた木(イチジク系?)の枝別れの部分に巣を作り始めたのが夕方6時前だったか。巣作りは本当に迅速で、ほんの5分、10分で仕上がった。

本来なら、ここで観察終了で、宿に戻ることになるのだが、久世さんは、ふと思いついてしまったわけだ。
丘をどんどん登っていけば、巣の中が見えるんじゃないか、と。

それで、昇りましたとも。がんばって!
かなり急峻だから、水平距離がそれほど離れずに巣の中が見えるというのがポイント。
何度もすっころんだりしつつ、「ここしかない!」というポイントを久世さんが発見したわけ。
いや、本当にぼくはラッキーだった。

巣の中をみてみると、シーナはまだ休んでなんかいなかった。
もういつでも横になれそうなのに、さらに沢山枝を持ってきて頭にかぶったり、小さな実(イチジク系)を夜食とでもいうように食べたりしている。

ぼくの手元にデータは今ないけれど(さがせばどこかにある)、たぶん15分以上、枝を運んだり、ちまちま食べたり、就寝前のクールダウンをしていたのではないかなあ。

その間、同行していた現地採用の助手さんたち4人のうち3人は、シーナの巣の下で待っていた。残り一人はぼくと久世さんと一緒に来て、ハイビジョン映像を撮影した。

結局、日没が近かったり(暗い熱帯雨林の中を帰るのは、結構あぶない。別に猛獣がでるぞ、というのではなく)、助手さんにそんな無理はさせられないというもあって、どこまで「引っ張る」かというのは、現場のボスである久世さんにすべてがかかっている。

極端な話、助手がすごく疲れているので(結構ハードな一日だった)、あきらめて帰るのも選択肢だった。でも、そこで、あと15分とか時間を決めて、モチベーションの維持を図り、なんとか最後まで観察仕切ったゆえの成果だった。

以上、フィールドの研究者ダマシイの話でした。


土壌調査で得た結果をチェルノブイリの汚染区分に当てはめることについての素朴な疑問

2011-08-09 19:36:20 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
昨日、発表された木下黄太グループによる、土壌調査について。
素朴な疑問をいくつか。このエントリは、疑問が解消されれば消すかもしれないし、有益だと思えば手を入れて残すかもしれない。

いずれにしても、ぼくが確定的な意見を述べるというよりも、足りない部分もありつつ、疑問に思っていることをリストアップする形式をとる(Twitterでツイートしていても、面倒なので)。その中で、明らかに良いと思ったものについては良いと言い、明らかにダメと思ったらダメというかもしれない。

さて、木下グループ(放射線防護プロジェクトという冠と、木下氏の関係がよく分からないのだが、ブログ、Twitter、Facebookなどを通じて、木下氏の求心力のもとに、自発的に組織された印象を抱いており、ざっくりと木下グループと呼ばせていただく)の調査をぼくは基本的に、市民による調査、それもかなり統一した方法で行った調査として、良い仕事であると捉えている。

まず土壌調査についてはこちら。マップもテーブル形式も両方PDFでみられる。
http://www.radiationdefense.jp/investigation/metropolitan
これをもとに、木下グループは、首都圏の汚染を訴えており、ぼくも、ここで見つかった土壌汚染の大きな場所は、精査の上、除染を進めてもらいたいと思う。その点において、本当に「良い仕事」だ。

その上で、気になっているのは、チェルノブイリの汚染区分との比較。

この結果をもって、チェルノブイリの第○区分といったふうに説明するのは、リスクコミュニケーションとしてどうなのだろう。

木下グループは警鐘をならしているつもりだと思うけれど、リスクについてどう考え、どう伝えるかという意識を持つのはとても重要。分かりやすければそれでいい、というのでは、いけない。

ぼくが素朴に疑問に思っているのは2点。

1.チェルノブイリでこの汚染区分ができたのは、事故から5年後の1991年で、かつ、汚染のゾーニングの基準になっているのはセシウム137のみ。半減期が2年と短めの134はカウントされていないが、木下グループはこれも足しあわせて「汚染区分」と比較している。

2.木下グループが測定した土壌汚染の値は、そのまま地域を代表させてよいものか、という点(これは本当に分からない。チェルノブイリではどうやってゾーニング際の値を決めたのか)。


1について。
現時点において、福島事故で放出された、半減期30年のセシウム137も、2年そこそこのセシウム134も、だいたい同じくらいの量残存しており、今の汚染を考えるには、137と134を足すというのは、合理的かも、と理解できる。

その反面、チェルノブイリ汚染区分と比較したいなら、やはりミスリーティング(知らされた人を違った結論・決断に導く)と思う。特にマップは、地域全体が汚染地帯に見えてしまう印象を人に与え、センセーショナルだ。

東京でも第○汚染区分とした述べる場合、「東京でもチェルノブイリ並の被害がでるかもしれない」と警告が含意されているように思う(もっとも、チェルノブイリの被害についての見解は、もの凄く幅があって、どれが落としどころなのか、ぼくには判じかねる)。

しかし、実際、チェルノブイリで今の汚染区分ができたのは事故から5年たってからであり、その時点では、土壌の流出や、セシウム134の2半減期によって、随分、汚染が軽くなっている状態であるはず。その状態での区分だということに留意しよう。

そういうものに、今の東京を当てはめると、どうしても東京の汚染を過大に評価することになる。事故後半年の水準では、チェルノブイリ第4汚染区分の地域は、今の東京の当該地域よりもっと汚染されていただろう。また、カウントされないセシウム134も東京より多く、汚染区分のみからでは見えない実質的な被曝はさらに大きかったろう。

まあ、くどくど書くまでもなく、今回の木下グループ調査で、セシウム137だけで考えると、多くの場所が汚染区分からはずれる(ざっと数えたら、第4から半分くらいがはずれそう)。「あなたの住んでいる地域は、チェルノブイリの汚染区分にひっかかるほど汚染されているから、移住したほうがいい」というのは、ぼくはおかしいと思う。(もちろん、汚染区分と関係なく、とても心配で、移住したくて、かつ、できる人は移住すればいい。それは個人、家族の選択だ)。

予防原則として、大きめに見積もるのが問題なしという立場はありえるが、その場合は、ちゃんと大きく見積もっていることを明示しないと不誠実である。

ぼくは、むしろチェルノブイリがどうのと言う問題ではなく、危険なところを発見したら、ちゃんと処理していこう、という姿勢が大切と思うし、そのきっかけをくれたことが、この調査の重要性と見ている。
(追記、セシウム137と134を足しても、誤差は倍くらいにしかならない。何十倍という話ではない。だから、そんなに目くじら立てることじゃないと思い当たった。しかし、ここでぼくがあえてこういうことを書いたのは、チェルノブイリという言葉が、人の心理に作用するマジックワードと化している今、使うのは慎重に、という意味が強いと書いてから気づいた)


2について。
これは本当によく分からない。
木下グループは植え込み・庭など、わりと高い値が出やすいところを測っている場合が多い。これは、個人による測定なので、そうなったと解釈している。

しかし、町中が植え込みや庭であるはずもなく、高い値と低い値がまだらになっていることがほとんどだろう。また都市部では、土が露出している部分があまりないことも多く、単純に、「植え込み」「庭」などの値を代表させるわけにはいかないだろう。

この点、チェルノブイリの汚染区分ではどうやって具体的な測定をしたのか。是非知りたい。
航空機から線量・スペクトルをみて調べたというツイートをみたが、本当かどうか分からない。
勢い余って、ウクライナの政府系機関にメールしてみたけれど、今の所、返事はない。

ぼくの今の予測で、木下グループではここでも、結果的に、東京の汚染を大きく見たて、チェルノブイリ汚染区分の領域に引き上げたことになったのではないか、と予測している。
(追記、先の追記との関係で、この部分での疑問は、結構重要かもしれない。なおTwitterで実際に木下グループの土壌調査に参加した方からコメントをいただいたので、追記4参照)

また繰り返すけど、チェルノブイリと関係なく、汚染された場所を見つけたらなんとかしましょう、というのは変わりない。

なお、チェルノブイリの汚染区分については京大の今中氏が、いろいろと書いてくれているので、ぼくは基本的情報の多くを彼の文章から得ている。
http://www.rri.kyoto-u.ac.jp/NSRG/Chernobyl/saigai/Nas95-J.html

以上、木下グループの土壌調査について、「チェルノブイリ汚染区分」のあてはめが、比較として適切か、リスクコミュニケーションとしていかがなものか、という素朴な疑問を書いた。

今のところは、適切ではない、というのが結論。
比べるなというのではない(比べるのは重要)。比べ方が適切ではないという意見である。

中には、本当に疑問のままの部分もあるので、ご存じの方はぜひご教示を。随時反映させるつもり。または、自分の根本的な疑問が解消したら消すかも知れない。

よろしくお願いします。

追記
ツイートでのやりとりで、東京レベルの土壌汚染は、むしろ、チェルノブイリ原発事故の際のスウェーデン、ドイツが参考になるのではないか、という意見をいただいた。住民に情報が与えられず、長期間ノーガードのまま危険にさらされたベラルーシやウクライナに対して、ドイツやスウェーデンは当初から様々な対策を行ってることも注目に値するとか。

スウェーデン情報は多少こちらにある。
http://blog.goo.ne.jp/yoshi_swe/e/40ff41f6ef9ce6da50cffd378d430701

興味深いのは、都市部住民が受けた内部被曝は、チェルノブイリ原発事故の1年後にピークになるのだが、それより以前に1965年あたりにもっと大きなピークがあることだ(大気中核実験が一番多かった頃)。

追記2
東京のことより、福島の方が先だろうという指摘をいただいた。
どちらか一つを選ばねばならないとしたら、そうだろうと思う。
でも、これは、あれかこれか、二者択一の問題ではないので。

追記3
本文に書くの忘れた。でも、わりと大事なこと。
上の京大・今中氏が掲げている「放射能汚染ゾーンの定義」では、土壌汚染密度だけではなくて、年間の被曝量も併記してある。

それによると、第3区分の「移住権利ゾーン」は年間1mSv以上の地域(日本での一般人の年間限度以上)、第4区分の「放射能管理強化ゾーン」は0.5mSv(日本での一般人の年間限度以下でもここに入る)で厳しい基準だ。

チェルノブイリの汚染地域ときくとそれだけでビビるけど、ここのとこも見ておいた方がバランスがよい。

なお、第2区分の「移住義務ゾーン」は年間5mSv以上。20mSvから1mSvを目指す福島は、本気でそれを実現してほしいと切実に気づかされると、いう部分もこの基準にはある。

追記4
Twitterにて、調査に参加した方から、「採取の際に、雨樋の下とか、たまってそうな場所とか、特に高そうなとこを選ぶのはやめて下さいと前もってアナウンスがありました」とコメントをもらった。
それは、たしか木下ブログにも書いてあったような気がするし、ぼくは、そういう意味で、「特別高い所」を狙って採集したとは思っていない。散発的な野良計測をするのではなく、統一したやりかたで意味のある測定をしようとしている人たちなわけで、それくらいの期待も信頼もしていますので。

で、その上で、庭や植え込みは、すぐに洗い流されがちなアスファルトの上とは違うだろうし、特に都市部などでは、「代表値」として使うのはどうだろうと思っている、というのが本文中の懸念です。

また、チェルノブイリの汚染区分と比較するなら、チェルノブイリでの測定法を知りたいと言っておるわけです。

追記
8月10日の時点で、航空機モニタリングの結果を利用してチェルノブイリとの比較をしてる人がいました。
http://genpatsu.sblo.jp/article/47289931.html

また、海外での9.11(震災半年)のnature記事でも同様に、Cs137を用いての比較が。
http://blogs.nature.com/news/2011/09/directly_comparing_fukushima_t.html