川端裕人のブログ

旧・リヴァイアさん日々のわざ

和田中のPTA再編について(朝日新聞「私の視点」から枝分かれした文章です)

2008-04-30 13:55:04 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
和田中のPTA再編についての所見。
2008年4月17日に朝日新聞の「私の視点」欄に掲載されたものの副産物です。新聞の記事では舌足らずになった部分も多いため、編集作業を経る前の草稿を加筆修正して、より精度の高い文章にしたつもりです。掲載されたものとは作業の途中で枝分かれした別個の文章とお考えください。

なお参考文献は、やはりこちら、。
バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)
価格:¥ 756(税込)
発売日:2008-03-15

最近出回っている第二刷では、和田中PTA再編のことが加筆されています(藤原さんの発言として)。


 PTAが変わるための機は熟している
 東京都杉並区立和田中学校のPTAがPTA協議会を脱退し、「地域本部」内の「現役保護者部会」になるという。会長はおかず、地域本部の中に吸収される格好だ。「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」「親と地域が協力し学校を支える態勢を強めたい」というのが報道された理由だった。私は息子が公立小学校に入って以来、PTAにかかわり5年目。2年続けて役員を引き受けつつ、PTA関係者を取材し、問題点と可能性を探る雑誌連載も行ってきた。そのうえでの所見だが、和田中PTAの再編は、本質を突いた決断として注目に値する。
 
 PTA活動に携わる者にとって「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」という願いは切実だ。私自身の昨年の役員業務は年間400時間を超えた。取材で会った都内の役員経験者のほとんどが「大体そんなもの」とうなずく。ましてや、P協の役員になってしまうと、この時間拘束がむしろ楽ちんにみえるほどの負担を強いられる。
  
 ちなみにPTA役員の仕事の内訳は、総会や運営委員会の開催など事務局業務、学校への支援・協力・参画、P協の会議・研修会、地域との連携などだ。夜や週末の出も多い。個々の活動が意義深いものだとしても、現役の子育て世代である保護者にこれほどの負担を要求するのは無理がある。子どもにしわ寄せがいっては本末転倒だし、激務のため、あるいは家庭・仕事との板挟みで消耗し、心身の健康を損なった人を何人も知っている。
 
 PTAはなぜかくも負担の多い団体になってしまったのか。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指導のもと構想されたPTAは、自発的に組織された社会教育団体と位置づけられつつも、実際にはほとんどの場合、保護者を自動加入させて始まった。今でも入会時の意思確認は珍しく、役員ですら「参加は任意」だと知らないことがある。
 
 「自覚がないまま全員参加する自発的団体」というのは、実にやっかいだ。退会の選択肢がない以上、不満が高まっても事業見直しへの淘汰圧とはならず、会員を代表するはずの役員は「学校の嫁」と化す。時々の要請に応じて新規事業は立ち上がるが、やめるのは難しい。雪だるま式に仕事が増える。
 
 そんな現状の中、和田中PTAが「必要なこと」を検討した結果、「必要でない」側に分類されたのが、P協であり、教師を含めての団体運営だったことは示唆に富む。PTAが地域と教育を結ぶかけ橋の役割を期待されている今、「保護者の労力」という有限のリソース(資源)を「地域」に集中させるのは十分アリだ。懸念するのは一点のみ。この方式がほかの学校にも広まった場合、「学校の嫁」だった現役保護者が、今度は「地域の嫁」になってしまうケースがありはしないかと、ということ。その恐れを差し引いても、現状のPTAが抱え込んでいる問題は実に根深く、和田中PTA(改組された現役保護者会)の今後の展開に大いに期待し、注目する次第だ。
 
 もっとも、PTAが変わる方法は一つではない。東京都江戸川区の一部の小学校では、業務を会員のボランティアに任せている。普通クラスから何人というふうに決められる○○委員の仕事を細分化して、ボランティアでまわしてまおうという発想だ。また、横浜市のある小学校では、任意参加の「サークル」が業務を受け持つ。広報サークルが広報誌を作成し、読み聞かせサークルが授業に参画する、などなど。PTA本来の「ボランティア」「任意」を強調し、「担い手のいない業務には無理がある」と割り切ることで、重苦しい義務感から解放され、負担を軽くできる、と私は見る。
 
 昨今注目される地域との関係でも、江戸川区の例ではPTAと地域が融合したPTCAに発展したり(Cはコミュニティーの略)、横浜の例ではサークル活動に卒業生の保護者が残ることで地域とのきずなが強くなる、など好循環が始まったと聞く。
 
 今まさに「変わる」ための機が熟しているのではないか。
 和田中PTAの思い切った再編は、PTAのあり方を存在意義から問い直す契機ととらえたい。



たんぽぽの国となりにけり

2008-04-29 15:45:56 | 日々のわざ
R0017262庭の手入れをせずに放置しておくと、繁茂するのはタンポポ。
セイタカアワダチソウは何年かにわたって徹底的に早めに抜いたので、種はあんまり残っていないのだろう。
しかし、タンポポって巨大化する種類もあるんですね。胸の高さくらいになったやつがあって……。
なんだかかなり迫力です。
R0017268そして、今、風に舞い飛ぶ、綿毛の種子。
来年もきっとタンポポだらけね。


バカ親って言うな!

2008-04-27 14:37:45 | ひとが書いたもの
200801000464
バカ親って言うな! モンスターペアレントの謎 (角川oneテーマ21 C 145)
価格:¥ 720(税込)
発売日:2008-04-10
こういう本がでているので、さっそく読んでみる。
ふむふむ、著者が教員を対象に独自に行った調査(有効回答数1200超)をもとにしており、当然のごとく、「バカ親、バカ教師にもほどがある」にくらべると、事例の数と分析部分は圧巻。
それにしても、驚かされるのは、尾木さんと、藤原さんという、かなり方向性の違うようにみえる二人の論客が、ともに「コミュニケーション不足」を、ことの根幹の部分にもってくる。この本では、そのことが、教師側からの「実感」としても、数字の裏付けを得ていて、なるほど、と思わされた。

ちなみに、この本の中では、モンスターさんは、5つに分類されていて。「我が子中心型」「ネグレクト(育児放棄)型」「ノーモラル型」「学校依存型」「権利主張型」だそうな。
こういう類型化にキレがあるのかどうか、ぼくにはいまいちピンとこないのだけれど、挙げられる実例はやはりかなりキテます。

けれど、尾木さんの尾木さんたるゆえんは、保護者側のモンスターの問題を述べた後で、教員側にも潜む問題を指摘するし、もっと大きな制度上の問題についても言及するし、「まともな」親がモンスターと見られたくないがために声をあられなくなる現状も述べる。

そして、結論としては、保護者とのコミュニケーション、保護者同士のコミュニケーションを念頭に置いた「スクールコミュニティ」こそ必要という話につながっていく。
「手のかからない夜食講座」とか、保護者同士が自前で学びあい、コミュニケーションを深める事が意外にも、モンスター対策になるという見解。
ぼくも合意。

もちろん処方箋はこれだけじゃないのだけれど、このことが一番最後の大トリのごとく述べられていることに、なるほどなあ、と思ったのでした。

全然関係ないけれど、事例の中に、「ゲーム脳でパニくった子を学校につれてきて……うんぬん」というのがあるのだけれど(アンケートの回答の文そのままなのだと思う)、ゲーム脳でパニクるというのはどういう状態を指すのだろう……。

あと、類書としてはこちらをしつこくプッシュ。

バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515)
価格:¥ 756(税込)
発売日:2008-03-15


雪の日、ロボットマーチ

2008-04-27 06:44:35 | 自分の書いたもの
Tobucover
飛ぶ教室 13(2008春)―児童文学の冒険 (13)
価格:¥ 1,000(税込)
発売日:2008-04

光村図書の雑誌「飛ぶ教室」の「創作特集」で、二十数枚の掌編を書いています。「雪の日、ロボットマーチ」というタイトル。特集の統一テーマ「12歳」をお題にした、小さな小さなお話です。

特集の内容は、こちら でごらんいただけます。



『赤毛のアン』への旅

2008-04-25 11:53:53 | ひとが書いたもの
赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎赤毛のアンへの旅~秘められた愛と謎
価格:¥ 1,260(税込)
発売日:2008-03-22

先日紹介した松本侑子さんのアン本で、その英会話教室版(?)ともいえるシリーズが出ている。

NHK テレビ3か月トピック英会話 2008年 04月号 [雑誌]NHK テレビ3か月トピック英会話 2008年 04月号 [雑誌]
価格:¥ 380(税込)
発売日:2008-03-18

NHKテレビの「3ヶ月トピック英会話」で、その一ヵ月目がこれ。二ヵ月目でももうすぐ書店に並ぶ。
読み物としてもすぐれていて、アンの中の有名なシーンを英語で採録し、それを読み解きつつ、英語学的、英文学的、歴史的背景まで教えてくれる。
おもしろ。
英語の勉強になるのと、アンの世界がより立体的に分かってくるのとで二度おいしい。
すごくお勧め。


感染症疫学についてサピオに書いた文章

2008-04-25 11:25:03 | 喫煙問題、疫学など……ざっくり医療分野
サピオの2008年3月12日号に掲載されたものの、「元原稿」です。雑誌掲載に当たっては微妙に、手を加えています。編集部でつけてくれたタイトルは「フィールド疫学で感染拡大を食いとめろ」。

参考文献としては、こちら。
エピデミックエピデミック
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2007-12


ちなみに、この原稿にも、小説にも目を通してコメントをくれた、感染症疫学の若きエースは、この夏に結婚されるとのこと。おめでとうございます。
フィールド疫学で感染拡大を食いとめろ

 SARSや新型インフルエンザを思わせる新型呼吸器感染症の制圧を主題にした小説『エピデミック』(角川書店)を上梓した。本邦初の「疫学」小説だ。

 主人公は架空の組織、「国立集団感染予防管理センター」の実地(フィールド)疫学調査員。我々の社会ではなじみのない、しかし世界的には標準的手法である「フィールド疫学」を武器に、謎の感染症に挑み、地域流行を収束させる。そのプロセスをこってりと描いた。

 なぜって、フィールド疫学者の仕事ぶりが非常に「格好いい」と感じるから。「危険を顧みず、集団感染の現場に飛び込む英雄的職業」であるだけでなく、思考パターンがクリアで、ぼくたちが思いつかないような問題解決の科学的手法を示してくれる。SFでいう「センス・オブ・ワンダー」(うわーすげーっ、という感覚)が強烈だった。

 小説では、その現場の感覚を掬いあげたかったのが一番。そして、まだまだ一般的ではないこの仕事を認知してもらえば、我が国の感染症対策がより充実する素地にもなる、などという遠大な野望も(?)もなかったとはいえない。

 なにしろ、日本では疫学者研究者の数が少ない。大学で疫学を学ぼうにも正式に「疫学研究者」を養成するカリキュラムをコンスタントに提供している大学は数えるほどだ。ことフィールド疫学については、1999年から国立感染症研究所が毎年数人規模で無給の訓練生を受け入れており、まさに養成が始まったばかり。一方、この分野での先進国であるアメリカでは、少し大きな大学なら、まるまる疫学関連大学院と言ってもよい「公衆衛生大学院」(School of Public Health)があるし、医学大学院(medical school)の中に「疫学部」に相当するものがあるのも普通だ。フィールド疫学者に関しても米国疾病予防管理センター(CDC)が常時160人程度の有給の訓練生を実働部隊として持っている(毎年80人で、二年間のコース)。卒業生は2500人にもおよび、全米の自治体などに散って活躍しているから、感染症対策には必ず疫学的な方法であたるのが当然のことになっている。

  *******
  
 では、疫学というのはどんなものなのか。
 大雑把に言うと「集団における病気の発生に関する学問」だ。病気と原因の因果関係を議論するために有用で、喫煙が肺がんの原因になるのを示したことは、我が国でもよく知られている。感染症で言えば、感染や発病のパターンを、観察データから特定するのが、中心的な役割だ。

 フィールド疫学者は、感染症の疫学を実践的に活用する。なんらかの病気が集団発生したとき、あるいは集団発生が危惧されるときに、現場(ルビ、フィールド)に駆けつけて適切な調査を行い、対策を講じ、感染拡大を食い止める。

 その際、「時間・場所・人」という三つの要素に注目する。感染曲線(発症者の時間的な推移をみる)や感染地図(発症者の地理的な集積を見る)を描いたり、発症者の個人データ(性別年齢などから始まって、職業、最近の行動、渡航歴など、病気と関係がありうる属性や行動を洗い出す)を集めることで、「どこで感染が起こったのか」「感染経路は何か」「どういった属性や行動が病気と関係しているのか」などを推測する。ヒト・ヒト感染が成立する病気については、患者と接触歴のある者を探し出す接触調査を行って、早い段階から検疫・隔離下に置く措置も重要になる。この時、検疫・隔離の期間については、集団のデータから潜伏期間や感染性期間(人を感染させる能力を持っている期間)を推測して、参考にする……。

 こういったプロセスに興味を持っていただけるなら、すぐさま拙著を読んでいたくのがよい。この場では、おおよそ紙幅が足りないので、フィールド疫学のキモだとぼくが思う部分を書き出す──
・病原体の確定に拘りすぎるな。
・調査は迅速にスタート。
・感染様式とパターンを把握して流行拡大を食い止めろ!

 といったところだろうか。

  *******

「病原体の確定にこだわりすぎるな」という点について詳しく書いておこう。

 我々の社会には根強い思考の「癖」がある。
 病気の原因といった時に、必ずといっていいほど「目に見える実体としての病原体」を求めてやまない。保健所などの専門家でもしばしばそうだし、対策を決定する行政も、人々に伝えるマスコミも、「何ウイルス」か「何菌」かを第一の問題にしがちだ。しかし、現実には「病因かよくわからない集団感染」は常にあるわけで、それでも、感染症制圧はできるし、するべきだ、というのが疫学の常識だ。

 ひとつ、よく引き合いに出される事例を。19世紀のロンドンでコレラが大流行した際、感染爆発を収束させた「疫学の父」ジョン・スノーの業績。猖獗をきわめた「新興感染症」コレラを制圧するために、スノーは綿密な調査を実施し、特定の水道会社と契約している家庭から患者が多く出ているのを突き止めた。そして、水道の取水口を締めることで集団感染を制御した。

 これはまさに、今でいうフィールド疫学の仕事だ。「時・場所・人」の中の、「場所」の要素に注目し、感染地図を描き、感染源となった水道を特定した。特筆すべきは、この時代には、ウイルスはおろか、細菌すら発見されていなかったことだろう。コレラの原因としては「瘴気説」が有力で、水との関係は取りざたされていなかった。にもかかわらず、スノーはフィールド疫学的な分析から「原因」をつきとめた。コレラ菌が細菌学の父、コッホによって発見されたのは、30年ほど後のことだ。 

 つまり、集団感染を制御するためには、かならずしも病原体を知らなくてもよい。もちろん、分かればそれにこしたことはないのだが、「分かるまで待つ」という態度はむしろ有害だ。感染症の伝播が成立するためには「感染経路」「感受性宿主(感染し得る者)」「感染源」の3つが必須であり、このうちの1つだけでも介入することが出来れば感染の拡大を食い止められるのだから。

  ******* 

 こういった疫学的常識から外れて、我が国がつい「病原体待ち」してしまった事例としては、SARSがある。厚労省はウイルスが確認された「確定例」だけを世界保健機構(WHO)に報告する方針をとった。ところが、発見されてほやほやの新興ウイルス病だ。標準的なウイルス検査法などなく、「確定例」のみが患者となると、必然的に日本の患者数はゼロとなる。

 ちなみに、日本以外の各国は、疫学的な情報に基づいた診断基準を満たした者を患者とし、検疫や隔離など厳しい対策でSARSと対峙した。日本の場合、みかけは「患者ゼロ」でも、ほかの国に比べてより高いリスクに晒されていたことになる。一国のリスクは国際的なリスクでもあるから、世界的に非難されたじ、実際、日本の市中や院内で重篤なSARSの集団感染が起こらなかったのは僥倖なのだ。

 感染症ではないが、疫学思考の欠落が重大な被害をもたらした、超弩級の悲劇も我が国にはある。水俣病だ。
 1956年の最初に患者が見いだされて以来、病因物質としてメチル水銀、アミン、機雷など様々な説が出された一方、原因食品(感染症でいえば感染経路や感染源に相当)は一貫して誰もが「魚」であると疑わなかった。この時なぜ熊本県や国は、疫学的分析に基づいて、水俣湾の魚を食べてはならないと周知できなかったのか。その後、数万人に及んだ被害の規模、患者認定をめぐる泥沼を思うと、忸怩たる思いを禁じ得ない。
  
  *******

 というわけで、新興感染症の発生が心配される今、疫学の基礎的かつ実践的な部分を、我々の社会がこなせていないのは非常にまずい。最低限、例の思考の「癖」は自覚し、社会として克服しなければならないし、日本全国の自治体、中央官庁、病院、マスコミなどにそれぞれ、もっと疫学を理解し、常識とした上で判断できる人材が行き渡らなければ、どんなことになってしまうのか、想像するだけでこわい。

 やはり気になるのは、最も心配される新型インフルエンザ。
 ここでもウイルスの確定にこだわりすぎるのはやはり危険だ。

 たとえば、東南アジアの鳥インフルエンザ多発地帯から帰国したツアー客たちが、高熱を発し、肺炎症状を呈した場合。どの段階で、積極的な調査・対策を開始すべきか。ラボでの確定診断などを待っていたら、その間に、二次感染、三次感染の機会が発生しかねない。だから、迅速に疫学的調査を行い、どういった感染パターンを呈し、どのように予防できるのかを先回りして検討すべきだ。行政が「新型と確認できるまで様子見」を決め込んだり、病原体が出たのか出ないのかばかりをマスコミがかき立てたりすると、現場の足を引っ張ることになる。

 繰り返す。
病原体の確定にこだわりすぎるな。調査は迅速にスタート! 感染様式とパターンを把握して流行拡大を食い止めろ!

 そして、さらに疫学の深い森の中に踏み込むべきだ。緊急時の情報の集積と分析。病気をコントロールするために様々な指標。それらの多くが疫学の方法によってもたらされるのだから。



久々アップ、婦人公論連載の20回目、21回目

2008-04-24 18:33:59 | 婦人公論連載PDF
久々です。
婦人公論に連載した「みんなのPTAを探して」の二回分。
PTAの「研究者」、今野さんとの対話や、今野さんの研究成果をもとに考察を深めています。本当に今野さんとの出会いは大きくて(知らない間に、一方的に出会っていたことも本文を読めば理解していただけると思います)、感謝することしきり。

20.「保護者の立場で研究者にぶつかってみた」
21.「全国の多彩な取り組みを紹介!」

今回も、しのぶんがpdfにしてくださいました。ありがとう。
言及される秋津コミュニティについては、この二冊を特にお勧めしています。
何度も紹介してますが、何度でもやります。
学校を基地に「お父さんの」まちづくり―元気コミュニティ!秋津学校を基地に「お父さんの」まちづくり―元気コミュニティ!秋津
価格:¥ 1,890(税込)
発売日:1999-03


学校開放でまち育て―サスティナブルタウンをめざして
価格:¥ 1,995(税込)
発売日:2008-01


婦人公論井戸端会議・特別版

2008-04-22 19:56:32 | 自分の書いたもの
20080422

婦人公論ブログ 0422号

この号に下記のような記事。読売女性フォーラムでのパネルディスカッションをまとめたもの。
婦人公論に登場するのは、当面はこれでおしまい、かな。

〈婦人公論井戸端会議・特別版〉
司会=麻木久仁子
ゲスト=上野千鶴子/板本洋子/川端裕人
問われる男たち??女から見たその価値とは


オーレリア・ブルームーン

2008-04-22 08:50:39 | 日々のわざ
R0017201_2科学未来館のエイリアン展にて。
こういう平台に映像を投射する装置があって、「あるかもしれない」惑星や衛星の地表を模している。
動いている生き物らしきものにタッチするとウィンドウが開いて、いろいろ情報が出てくる。
なかなかすごいことができるようになったもんだなあと感動する。
R0017209ちなみに、展示されていのは、オーレリア、ブルームーンという二つの想像上の星。それぞれの生態系がざっくりかんがえられていて楽しい。

R0017196これ、やはりエイリアン展の中で展示されていた、なんとかウナギ。


あ……でかける時間だ。
きっと後で追記します。


自然保護と環境保護について

2008-04-21 08:34:37 | 川のこと、水のこと、生き物のこと
クリーンピースジャパンのウェブサイトに「星川事務局長のオピニオン」というコーナーがあって、朝日新聞「私の視点」2008年1月31日掲載の論考がアップしてある。
ぼくは彼の立ち位置をとても好ましく思っていて、グリーンピース「ジャパン」の捕鯨問題に関する取り組みを支持している。

それを読んだ上で、思い出した昔の原稿を発掘。
2000年前後に書いたもので、東海大学出版会が出したムックに寄せた文章。「自然保護と環境保護」というテーマで、捕鯨問題にも触れられています。今とかなり世相は違うけれど、通じるもある。微妙な背景の違いを勘案して読んでくださると幸いです。

なお、あらかじめ参考文献を挙げておくと、こちら……。

クジラを捕って、考えた (徳間文庫)
価格:¥ 620(税込)
発売日:2004-10

緑のマンハッタン―「環境」をめぐるニューヨーク生活(ライフ)緑のマンハッタン―「環境」をめぐるニューヨーク生活(ライフ)
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発売日:2000-03

自然へのまなざし―ナチュラリストたちの大地自然へのまなざし―ナチュラリストたちの大地
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 環境保護、自然保護を考える

 自然保護は感情的?
 最近、小さな環境教育系NGOの人たちと、意見交換をする機会があった。大学二年生の参加者が述べた言葉が心に残った。

「感情的なレヴェルで自然保護を言い立てるのは嫌なんです。でも、論理的に考えて、どうしても護らなきゃいけないという理由はなかなか発見できずに悩んでいます」

 彼は大学で生物学系サークルに属しており、その仲間も似た考えを持っているという。
 驚いたと同時に、そうだろうな、という気もした。

 今、「自然保護」と聞いて、その重要さを否定する人はまずいないだろう。にもかかわらず、我が国の社会が「自然を護る理由」をはっきりと持っているとはとうてい思えない。

 たとえば、長良川の河口堰、諫早湾の干拓など、不条理な「公共事業」。ワシントン条約に違反して多くの希少種が国内に持ち込まれ、「密輸天国」と呼ばれるお粗末な現状。今まさに力を入れるべきなのに、後手後手にまわっているようにしか思えない、イリオモテヤマネコやヤンバルクイナなど「固有種」の保護。そして、背後にある「種の保存法」の機能不全。行政には、「自然保護が大切」という公式見解に、血を注ぎ、力を与える強い思念が欠けている。

 ならば、市民が立ち上がって……と、思っても、自然保護の市民運動には、なぜか「感情的」というステレオタイプなイメージがある。活動家はまずそれと闘わねばならない。大学生の悩みは的を射たものなのだ。


 生命中心主義の世界
 世界の自然保護シーンで主導的な役割を果たすことが多いアメリカ合衆国に目を転じよう。かの国の人々はどのように、「自然保護」の正当性を捉えているのか。1997年から1998年にかけて、ニューヨーク市を拠点に取材した際、自然保護活動家たちの間に、共通するあるエイトスを感じた(拙著「緑のマンハッタン」(文藝春秋))。

 キーワードは、「生命中心主義」だ。この言葉は、欧米社会で常に人間が特権的な立場に立ち、ほかの生命を一方的に利用してきた「人間中心主義」を脱却しようと使われるようになった。背後には、「すべての生命は生態系の中で『自己実現』する権利を平等に持っている」とするノルウェーの哲学者アルル・ネスの考え(ディープエコロジー)や、人間以外の生命や景観すらも倫理の対象にできるよう、権利概念を拡大しようとするロデリック・ナッシュの主張(自然の権利)などの考えがある。

 たとえば、環境テロリストと恐れられる、アースファースト!は、ディープエコロジーを行動原理とすることを表明しているし、西海岸最大の自然保護団体であるシエラクラブは、「自然の権利」を援用し、生き物や景観を原告とした裁判を起こしてきた。

 彼らは決して突出した存在ではなく、北米で自然保護にかかわる団体のほとんどが、生命中心主義的な言説をごく自然に受け入れている。穏健であり、時に「体制より」と批判される、全米野生生物連盟(NWF)やオーデュボン協会といった団体ですら、「自然には人間の側が考える利用価値とは別に、それ自体として本性的(intrinsic)な価値があり、それを護らなければならない」というディープエコロジー的な言説に同意する。

 ここで大切なのは、活動家や、それを支持する市民たちにとって、生命中心主義がごく自然に「腑に落ちる」議論として容認されていることだ。「なぜ護るか」の部分を、人間側の理屈で追い込んでいくのではなく、「本性的な価値を持っている」とすることで納得し、自然を護る活動を正当化する。

 これを「感情的」「情緒的」という印象を持つのは、ぼくだけではないだろう。

 考えてみれば、当たり前のことだ。どんな信念も、論理の連鎖の中で、どこか感情に直接根差す部分がなければ、リアリティをもって人々に受け入れられることはない。日本の自然保護運動が「感情的」と言われる時、それは感情的であることが批判されているというよりも、むしろ、批判者がその「感情」を共有していないということなのだ。

 とすれば、冒頭の大学生の発言は、「悩み」としては正当だとしても「設問」としては間違っていたことになる。彼が探すべきものは、「論理的な理由」ではなく、彼が感じている情動的な「護りたい」という思いを、我々の社会に根差させることができるきわめて「感情的」な理由だったのだ。もちろん、それは多くの人に共有されて、はじめて普遍的なものになりえる。その共通のインターフェイスを探求することが、彼の、いや我々のなすべきことだった。

 パラダイム論争~捕鯨を例にして
 なぜ、我が国の「自然保護」は、理由を見つけられずに「感情的」なままのか。ひとつの不幸な経緯として、「捕鯨論争」を挙げたい。

 商業捕鯨をめぐって、国際的な反対の声があがったのは、1972年のこと。ストックホルムで開かれた国連人間環境会議ではじめて問題提起された。以後、我が国は一貫して、捕鯨擁護の立場をとり、アメリカ、イギリス、オーストラリア、フランスなどほとんどの欧米諸国はこぞって、反捕鯨の立場を鮮明にしている。商業捕鯨のモラトリアム(1982年)、南極海のサンクチュアリ化(1994年)と、一方的に押し切られる形になっており、捕鯨再開をにらんだいわゆる「調査捕鯨」も風当たりが強い。

 以前、ぼくは、日本政府の言い分と、反捕鯨NGOの代名詞ともいえる、グリーンピースの主張を、それぞれ比較してその妥当性を検討したことがある(『クリーンピースの正義VS捕鯨の論理』諸君!1999年11月号)。日本政府側は「根拠のないモラトリアムやサンクチュアリの設定は非科学的」と非難し、グリーンピースは「調査捕鯨は科学ではなく、科学に偽装した商業捕鯨だ」と主張する。おたがいを「非科学的」と論難し、一歩も歩み寄りを見せない不毛の議論だ。

 双方が、相手を非科学的とした場合、通常、考えられるのは、(1)どちらか一方だけが正しい、(2)両方間違っている、だろうが、この場合、ぼくが下した結論は、「双方の文脈に照らして、双方が正しい」だった。

 つまり、日本政府は、鯨類資源の産業利用を前提にして、適正利用を実現するための「水産資源管理学」的なアプローチをとっており、グリーンピース側(あるいは反捕鯨国の政府)は、「生命中心主義」的な市民の支持を受けて、利用せずに護ることを前提にした「保全生物学」的なアプローチをとっている。そして、それぞれの主張は、それぞれの前提に立った上では大きな矛盾はない。つまり、典型的なパラダイム論争だった。

 無自覚なパラダイム論争ほど、悲惨な結果をもたらすものはない。納得できる理由を見いだせないまま、数の論理で押し切られて商業捕鯨をあきらめた我が国の人々は、「一方的にやられた」「理が通らない」という鬱屈した感情を抱いた。特に南極海で捕鯨船とクジラの間にゴムボートで割り込む、グリーンピースの派手なパフォーマンスは、「日本人=クジラを殺す悪人」というイメージを世界的に確立すると共に、日本では、自然保護団体/環境団体に対する、拒否反応と「自然保護は論理を無視した感情論」というイメージを植え付けたのだ。

 グリーンピース・ジャパンの内部でもこういったことは問題にされていて、「本部が出したプレスリリースを直訳するのでなく、我が国の実状にあわせて『翻訳』して伝える努力が必要だった」と認めている(前掲論文に詳述)。

 結局、我が国で、自然保護が、どこか感情的で、それを推進する団体が胡散臭いと感じられるのは、煎じ詰めれば、まず、自然保護が海外から輸入されたものであったこと。その際に、我々は「なぜ護るのか」という根本的な部分を受容できず、かといって自分たちの「理由」を発見する間もなく、捕鯨問題など特定分野で、完膚無きまでに蹂躙されてしまったからなのではないか。

 日本版自然の権利裁判
 それでは、日本ではどういうことが「腑に落ちる」のだろうか。「自然保護は大切」と多くの人が原則的には認めるのだから、我々が感情的に共有できる「理由」はどこかにあるはずだ。

 平成7年、鹿児島地裁で起こされた「アマミノクロウサギ訴訟」が、意外なところからヒントを提示してくれている。奄美大島のゴルフ場開発差し止めを求めて、アマミノクロウサギやオオトラツグミなど、4種の固有種が原告に名を連ねて起こされたものだ。アメリカ流の「自然の権利」裁判の体裁をとっており、また、そのような報道がなされた。

 しかし、原告側がまとめた『報告・日本における[自然の権利]運動』という冊子を読むと、まったく違う実像が浮かび上がる。要点は、この訴訟が、開発が続けば「(自分たちの故郷である)奄美が奄美ではなくなってしまう」(原告・薗博明氏)という危機感のもと、「自然と人間が分かつことのできない関係にあり、人間にはそれを尊重する義務がある」(原告・中原貴久子氏)ことを訴えるために起こされたものだということだ。

 この時、自然は「本性的に価値があるから」というのではなく、「人間と分かちがたく結びついた」不可分の存在として、イメージされている。もともと我が国では、手つかずの原生自然など、ほとんどない。人間から切り離された「そのものの価値」を問う前に、人々の生活の中で、単純な利用価値にとどまらず、人格の一部にまで食い込む形で、自然の存在が重要な意味を持ってきたのではないだろうか。このような場合、自然を護ることは、人格権の一部にまでなる。

 ここにいたって、ひとつの重要な視点を提示することができそうだ。つまり、我が国において、リアリティを持った自然保護の「理由」は、「人間が自然と分かちがたく結びついていること」を元に構築すべきではなかっただろうか。ほとんどすべての土地が、人間に利用されてきた我が国のありようを考えれば、とても自然な考え方なのだ。

 分かちがたい結びつき
 それでは、首都圏など、自然があまり残っていない大都市の人たちは、その「分かちがたい結びつき」を維持できるだろうか。絶望的に見えて、実はそれほど困難ではないと信じている。

 たとえば、日本版「自然の権利訴訟」のひとつが行われた「生田緑地」は政令指定都市である川崎市に位置する。地域住民は、奄美のように、長年住み続けた人たちばかりではない。それでも、人は住む場所と自分のアイデンティティを容易に結びつける。大都市であればあるほど、人は自然を欲していて、身近なささやかな自然に愛着を感じるのではないか。

 たぶんこのことは、遺伝子レヴェルにまで深く埋め込まれた人間の本源的な欲望てはないだろうか。自然が強大であると、それを開発し、人間の領域に変えていくくせに、いざ、自然を失うと週末には森へ出かけて森林浴したくなったり、テラスでささやかなガーデニングを試みたりもする。反自然的な存在と自らを規定しがちだが、自然なくしては、人間は人間らしくあることができないことを、我々はなんとなく知っているのだ。

 日本に住む我々が、自然との絆をたえず再確認し、維持する方策として、「鶴見川流域ネットワーキング」の岸由二氏が提唱する「流域思考」が示唆に富んでいる。ぼく自身が心惹かれるという意味で、紹介しておこう。

 我々が暮らしている場所は、必ずなにがしかの河川の流域だ。身近な小川を下って、大きな川に合流し、海に至るプロセス。あるいは上流へ、源流へと向かうプロセス。川はごく自然に、自分が今立っている場所とほかの場所をネットワークする。東京のような都市部でも、自分が属する流域に目を転じれば、緑がないところなんてない。川を軸に自分の立ち位置を見直すと実に多くのことが見えてくる。ここで紙幅を割くことはできないが、川の多い我が国では実に有効に機能しそうなアイデアである(「自然へのまなざし」(岸由二、紀伊国屋書店)を参照のこと)。

 また、最近、よく言われるようになった「里山」など、我が国固有の概念を、自然保護の考えに組み込む動きにも注目すべきだ。多くの人にとってすとんと腑に落ちる、地に足のついた価値観のセットを手に入れるのに、我々は後一歩のところまで来ている。

 その過程で、ぼくが常々気になっている、「自然保護」と「環境保護」との間の微妙な緊張関係も解消されよう。一見、似ているが、間の事象を扱うことが多い「自然保護」と、人間が中心にイメージされる「環境保護」は、時にねじれの関係にある。もちろん、同じ地球に人間も間も住んでいる以上、多くの場で重なり合うにしても、たとえば、身につまされるダイオキシン問題と、ヤンバルクイナの保護の問題が、かなり位相がズレているのは明らかだろう。「人間と分かちがたく結びついた」自然を、自然保護の出発点にすることで、我が国では、環境保護と自然保護か同じベクトルの上に乗ることができるのではないだろうか。

 共感、共生、絆、いくらだってキーワードはある。いったんは、スポイルされかけた我々の「自然保護」を、自らの手に取り戻さなければならない。自分自身の問題として、自然をイメージすることができて、はじめて、我が国に根付く「自然保護」が見えてくる。



雑誌原稿などを公開

2008-04-20 09:50:30 | 雑誌原稿などを公開
「雑誌原稿などを公開」というカテゴリを新設します。

昔、雑誌などに書いたもので、埋もれている原稿があって、そういうのを積極的に発掘し、週一回ペースくらいで(もちろん、その時の気分で変わります)、アップしていくことにいたします。

原則的に雑誌の販売期間(次の号が出るまで)が終われば、法的にも道義上も(?)問題ないと考えますが、実際はもっと「古い」ものから、手をつけていきます。

書いた時期によって、「今」の事情とそぐわないものになっていることもあると思うけれど、自分としても見るべきところがあると感じる原稿をパソコンの古いフォルダの中から発掘予定。
乞うご期待、であります。


" 朝日新聞の「私の視点」"へのコメントへのレスをエントリにしちゃいます

2008-04-19 08:12:12 | 保育園、小学校、育児やら教育やら
朝日新聞の「私の視点」というエントリのコメント欄にがっつりコメントがあったので、それらに対するレスも、エントリにしちゃいます。


遅くなりましたがレスします。
まず、とまてさん。
「地域」が、P連にかわる別のヒエラルキーになってしまうの可能性は、地方に限らず東京でも同じだと思います。そこは本当にやばいところです。きわめて怖いです。なまじ、地縁とオーバーラップするだけに、「逃げ場なし」になりかねませんからね。その点、岸さんのところのように、地域側がPTAにすごく配慮するような形になるか、PTAの底を抜く(逃げたい人が逃げられる)ようにしなければいかんと思います。

FJNさん、そうですね。【単位PTAには規約上の主体性があること】を記者が理解していない、という匂いがぷんぷんしますね。ちなみに和田中PTAの総会は公開なんでしょうかね。一般に対しても。まあ、PTAはPTAですからね。学校ではなく。部外者が傍聴なんて、できないですかね。まあ、時期的に自分も忙しくて、どうしようもないけど。

はぐれ猿さん、安部前総理の「ボランティアの義務化」の話題の時、いやー、そんなのとっくに先例があるぜー、と思いましたよね。おぞましいったらありゃしない。
ぼくも和田中PTAのことは、ありうる選択肢のひとつだと思っています。メリットもあれば、危険性もあります。どんどんやってもらって、いいとこ悪いとこ見せてい欲しいですね。
ちなみに、NHKのお昼のニュースのトップだったのですか……。
そういう順番にしたデスクの人とお話したいです。
それって、実はすごいことですよ。ここにひとつ巨大な「問題」が埋まっているのだと認識していただいて、これからもばんばんやってほしいくらいです。

知らなかった母さん、はじめまして。
ぜひぜひ、お仲間でも話題にしてください。
PTA会則に「本会の会員は、本校に在籍する児童の保護者」と書いてあるところは本当に多くてむしろ標準的です。本来は「本会の会員になることができるのは、本校に在籍する児童の保護者」と書くべきなんですけどね。
区の見解は、PTAの発足の歴史からみても、ほかの法体系との整合性からみても、「正しい」のですが、個々のPTAは個々のPTAなので、かりに区に「うちのPTAおかしいのでなんとかしてください」と言っても、「みなさんが納得して作られた規約でしょうから、なんともできません」ということになります。なにしろ、自主的に自発的にでき、納得ずく入会した会員が構成する団体だということになっているので、区は指導できないわけです。
実に民主的で素敵でしょ(笑)。ま、実際に指導なんかされたら困りますから。
でも、世田谷区、「みんてで学ぶPTA」(お手元にありますか? 必ず一年生の時に配られています。なかったら区にいうと分けてくれるかもしれませんよ)にちゃんとこのことを明記して各家庭に配っているという意味で、とてもありがたいとも思う訳です。これがなかったら、自分の身の回りで「知らなかった人たち」も、なかなか信じてくれなかったと思います。