和田中のPTA再編についての所見。
2008年4月17日に朝日新聞の「私の視点」欄に掲載されたものの副産物です。新聞の記事では舌足らずになった部分も多いため、編集作業を経る前の草稿を加筆修正して、より精度の高い文章にしたつもりです。掲載されたものとは作業の途中で枝分かれした別個の文章とお考えください。
なお参考文献は、やはりこちら、。
最近出回っている第二刷では、和田中PTA再編のことが加筆されています(藤原さんの発言として)。
PTAが変わるための機は熟している
東京都杉並区立和田中学校のPTAがPTA協議会を脱退し、「地域本部」内の「現役保護者部会」になるという。会長はおかず、地域本部の中に吸収される格好だ。「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」「親と地域が協力し学校を支える態勢を強めたい」というのが報道された理由だった。私は息子が公立小学校に入って以来、PTAにかかわり5年目。2年続けて役員を引き受けつつ、PTA関係者を取材し、問題点と可能性を探る雑誌連載も行ってきた。そのうえでの所見だが、和田中PTAの再編は、本質を突いた決断として注目に値する。
PTA活動に携わる者にとって「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」という願いは切実だ。私自身の昨年の役員業務は年間400時間を超えた。取材で会った都内の役員経験者のほとんどが「大体そんなもの」とうなずく。ましてや、P協の役員になってしまうと、この時間拘束がむしろ楽ちんにみえるほどの負担を強いられる。
ちなみにPTA役員の仕事の内訳は、総会や運営委員会の開催など事務局業務、学校への支援・協力・参画、P協の会議・研修会、地域との連携などだ。夜や週末の出も多い。個々の活動が意義深いものだとしても、現役の子育て世代である保護者にこれほどの負担を要求するのは無理がある。子どもにしわ寄せがいっては本末転倒だし、激務のため、あるいは家庭・仕事との板挟みで消耗し、心身の健康を損なった人を何人も知っている。
PTAはなぜかくも負担の多い団体になってしまったのか。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指導のもと構想されたPTAは、自発的に組織された社会教育団体と位置づけられつつも、実際にはほとんどの場合、保護者を自動加入させて始まった。今でも入会時の意思確認は珍しく、役員ですら「参加は任意」だと知らないことがある。
「自覚がないまま全員参加する自発的団体」というのは、実にやっかいだ。退会の選択肢がない以上、不満が高まっても事業見直しへの淘汰圧とはならず、会員を代表するはずの役員は「学校の嫁」と化す。時々の要請に応じて新規事業は立ち上がるが、やめるのは難しい。雪だるま式に仕事が増える。
そんな現状の中、和田中PTAが「必要なこと」を検討した結果、「必要でない」側に分類されたのが、P協であり、教師を含めての団体運営だったことは示唆に富む。PTAが地域と教育を結ぶかけ橋の役割を期待されている今、「保護者の労力」という有限のリソース(資源)を「地域」に集中させるのは十分アリだ。懸念するのは一点のみ。この方式がほかの学校にも広まった場合、「学校の嫁」だった現役保護者が、今度は「地域の嫁」になってしまうケースがありはしないかと、ということ。その恐れを差し引いても、現状のPTAが抱え込んでいる問題は実に根深く、和田中PTA(改組された現役保護者会)の今後の展開に大いに期待し、注目する次第だ。
もっとも、PTAが変わる方法は一つではない。東京都江戸川区の一部の小学校では、業務を会員のボランティアに任せている。普通クラスから何人というふうに決められる○○委員の仕事を細分化して、ボランティアでまわしてまおうという発想だ。また、横浜市のある小学校では、任意参加の「サークル」が業務を受け持つ。広報サークルが広報誌を作成し、読み聞かせサークルが授業に参画する、などなど。PTA本来の「ボランティア」「任意」を強調し、「担い手のいない業務には無理がある」と割り切ることで、重苦しい義務感から解放され、負担を軽くできる、と私は見る。
昨今注目される地域との関係でも、江戸川区の例ではPTAと地域が融合したPTCAに発展したり(Cはコミュニティーの略)、横浜の例ではサークル活動に卒業生の保護者が残ることで地域とのきずなが強くなる、など好循環が始まったと聞く。
今まさに「変わる」ための機が熟しているのではないか。
和田中PTAの思い切った再編は、PTAのあり方を存在意義から問い直す契機ととらえたい。
2008年4月17日に朝日新聞の「私の視点」欄に掲載されたものの副産物です。新聞の記事では舌足らずになった部分も多いため、編集作業を経る前の草稿を加筆修正して、より精度の高い文章にしたつもりです。掲載されたものとは作業の途中で枝分かれした別個の文章とお考えください。
なお参考文献は、やはりこちら、。
バカ親、バカ教師にもほどがある (PHP新書 515) 価格:¥ 756(税込) 発売日:2008-03-15 |
最近出回っている第二刷では、和田中PTA再編のことが加筆されています(藤原さんの発言として)。
PTAが変わるための機は熟している
東京都杉並区立和田中学校のPTAがPTA協議会を脱退し、「地域本部」内の「現役保護者部会」になるという。会長はおかず、地域本部の中に吸収される格好だ。「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」「親と地域が協力し学校を支える態勢を強めたい」というのが報道された理由だった。私は息子が公立小学校に入って以来、PTAにかかわり5年目。2年続けて役員を引き受けつつ、PTA関係者を取材し、問題点と可能性を探る雑誌連載も行ってきた。そのうえでの所見だが、和田中PTAの再編は、本質を突いた決断として注目に値する。
PTA活動に携わる者にとって「仕事をリストラし必要なことに力を注ぎたい」という願いは切実だ。私自身の昨年の役員業務は年間400時間を超えた。取材で会った都内の役員経験者のほとんどが「大体そんなもの」とうなずく。ましてや、P協の役員になってしまうと、この時間拘束がむしろ楽ちんにみえるほどの負担を強いられる。
ちなみにPTA役員の仕事の内訳は、総会や運営委員会の開催など事務局業務、学校への支援・協力・参画、P協の会議・研修会、地域との連携などだ。夜や週末の出も多い。個々の活動が意義深いものだとしても、現役の子育て世代である保護者にこれほどの負担を要求するのは無理がある。子どもにしわ寄せがいっては本末転倒だし、激務のため、あるいは家庭・仕事との板挟みで消耗し、心身の健康を損なった人を何人も知っている。
PTAはなぜかくも負担の多い団体になってしまったのか。戦後、連合国軍総司令部(GHQ)の指導のもと構想されたPTAは、自発的に組織された社会教育団体と位置づけられつつも、実際にはほとんどの場合、保護者を自動加入させて始まった。今でも入会時の意思確認は珍しく、役員ですら「参加は任意」だと知らないことがある。
「自覚がないまま全員参加する自発的団体」というのは、実にやっかいだ。退会の選択肢がない以上、不満が高まっても事業見直しへの淘汰圧とはならず、会員を代表するはずの役員は「学校の嫁」と化す。時々の要請に応じて新規事業は立ち上がるが、やめるのは難しい。雪だるま式に仕事が増える。
そんな現状の中、和田中PTAが「必要なこと」を検討した結果、「必要でない」側に分類されたのが、P協であり、教師を含めての団体運営だったことは示唆に富む。PTAが地域と教育を結ぶかけ橋の役割を期待されている今、「保護者の労力」という有限のリソース(資源)を「地域」に集中させるのは十分アリだ。懸念するのは一点のみ。この方式がほかの学校にも広まった場合、「学校の嫁」だった現役保護者が、今度は「地域の嫁」になってしまうケースがありはしないかと、ということ。その恐れを差し引いても、現状のPTAが抱え込んでいる問題は実に根深く、和田中PTA(改組された現役保護者会)の今後の展開に大いに期待し、注目する次第だ。
もっとも、PTAが変わる方法は一つではない。東京都江戸川区の一部の小学校では、業務を会員のボランティアに任せている。普通クラスから何人というふうに決められる○○委員の仕事を細分化して、ボランティアでまわしてまおうという発想だ。また、横浜市のある小学校では、任意参加の「サークル」が業務を受け持つ。広報サークルが広報誌を作成し、読み聞かせサークルが授業に参画する、などなど。PTA本来の「ボランティア」「任意」を強調し、「担い手のいない業務には無理がある」と割り切ることで、重苦しい義務感から解放され、負担を軽くできる、と私は見る。
昨今注目される地域との関係でも、江戸川区の例ではPTAと地域が融合したPTCAに発展したり(Cはコミュニティーの略)、横浜の例ではサークル活動に卒業生の保護者が残ることで地域とのきずなが強くなる、など好循環が始まったと聞く。
今まさに「変わる」ための機が熟しているのではないか。
和田中PTAの思い切った再編は、PTAのあり方を存在意義から問い直す契機ととらえたい。