なんかああだとうごするうちに、ちょっと展開がありメモしときます。
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酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(2).
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酔狂人の異説 - トンデモという決め付け(3).
いずれも、先日の「理科教育と構成論」のからみからの流れ。
(2)の方は、コメント欄もよんでいただけるとよいか、と。
ぼくは、最初は、この方は強い非実在論の支持者だと思っていたわけですよ。
でも、(3)くらいになると、決してそうでもなくて、自然法則の実在性はアプリオリに認めてらっしゃる。
にもかかわらず、「構成」「創造物」という言葉にはとても愛着があるようで、
「重力に関する「逆二乗の法則」もケプラーの法則などをもとに「創造」されたものだと思うが……。科学理論は、それ以前の科学理論などをもとに「創造」されたものである。それは、新しい曲や新しい小説がそれまでに書かれた曲や小説から影響を受けているのと同様、先人の知見を踏まえて、それらを肯定的、あるいは否定的に引き継ぎ、それに新しい何かを加えたものと言えるだろう。
自然法則が創造物であることを否定するのは、自然法則が先人の膨大な努力の結果として成り立っていることを否定することになるだろう」
とおっしゃるわけです。
これはぼくも合意ですよ。
まったく合意。
これは、科学の成果が、実在的であるから、非実在であるか、というのはまったく別問題ですよね。
科学は歴史をひきずってしいる。わざわざ言われるまでもなく、当たり前のことです。
ただ、ぼくは、創造とか、構成とか、いう言葉を使わないというだけです。
つまり、構成物・創造物という言葉が、使われる時、
まず第一に、「実在」と切れていることを主張しているのだ、とぼくは受け取っており、この方は、「歴史性」を述べる言葉だと受け取っている、ということなんでしょう。
たとえは、
「自然法則が創造物であることを否定するのは、自然法則が先人の膨大な努力の結果として成り立っていることを否定することになるだろう」とおっしゃるわけだけれど、
ちなみに、日本語としての「創造」は、
そう‐ぞう【創造】(サウザウ)
*新たに造ること。新しいものを造りはじめること。「?力」*模倣。
*神が宇宙を造ること。「?者」「天地?説」
と広辞苑がのべるとおり、新たに作る、ということに力点がくるので、むしろ、歴史との断絶を言い立てる時に使われがちな言葉だよ、とも指摘できますね。神様ニュアンスも当然あるので、この言葉はいろんな意味で「強い」言葉なんです。
一方で、構成論者がつかう時の「創造」は、実在に根ざしていないという意味がまず先に来るのだとぼくは認識しております。だから、先行理論に根ざしたりするのは充分にアリでしょうが、しかしながら、「創造」という言葉の中に、「先人の到達したものに何かを付け加えたりさっぴいたりしたもの」という含意は特にないんじゃないでしょうか。上記の通り、むしろ正反対の含意を持つことの方が多いのではないか、と。
とにかく分かったのは、この方は「理論の実在論者」です。「対象(原子とか電子とか)の実在論者」かどうは分からないけれど。
でも、とすると、ぼくが書いた最初のエントリに対するコメントが不可解にもなってくるんですよね。
「キーワードから探るこれからの理科教育」で紹介されている科学観(
「 理科教育に入り込んだ(?)、「現代の科学観」という名のトンデモ」.を参照)は、「科学理論や法則、体系というものは、あくまで人間の構成物であり、それら自体が自然界に実在するということを前提としない」というものなんです。
つまり、科学法則すら、自然界に実在することを前提としない立場。
もちろん実在しないけれど、法則は成り立つのだという考えはアリなのだけれど、その立場って、はたして科学哲学的にどうよ、というとまた複雑な問題になっていきます。
まあ、少なくとも、この問題については、すごく理解の幅があって、同じ言葉を使っていてもまったく理解が違い、かなり合意できるはずのことも、鋭く対立しているように見えたり、逆に同じことを言っているようでまったく違ったり、ということが簡単に起きそうだ、というのがよく分かりました。
このあたりゆるりと頭の中で整理することといたしましょう。
お付き合いいただいた酔狂人さん、どうもありがとうございました。