![]() | 「集団主義」という錯覚―日本人論の思い違いとその由来 価格:¥ 2,835(税込) 発売日:2008-06-25 |
この言明は、だいたい事実だと思われていて、その一方でアメリカ人は個人主義的であり、西欧の多くの国の人たちも、やはり個人主義的であると言われる。
ぼくはこのことについて、ある程度のリアリティを感じつつも、程度の違いや分布の違いであり、そんな決定的な差として語るのは適切ではないと思ってきた。
また、実際、911直後のアメリカでの愛国の嵐は報道を通じてではあるけれど目の当たりにしたし、マッカーシズムの吹き荒れた頃には、反全体主義の名のもとに、集団主義的な行動が社会の主流を占めたのではないかとも感じてきた。
アメリカ人は個人主義ってういうけれど、ちょっとボタンを押してあげれば簡単に集団行動になっちゃうじゃないって。
けれど、本書では、ぼくが感じてきたことをはるかに越えて、「日本人は集団主義、アメリカ人は個人主義」というのが錯覚だという。
痛快だ。
まず、過去の日本人論を論じ、日本人は集団主義とする議論のほとんど、というか、遡上にのせられたものすべてが、実証的な証拠に基づかず、著者自身、あるいは非実証的な文献からの引用、伝聞のたぐいで構成されていることを指摘する。
そして、いざ実証的な研究に目を向けると、心理学的な研究でも、社会学よりの研究でも、こぞって、両者に差がないか、しばしばアメリカ人の方が集団主義的という結論か導かれることをあきらかにする。
通説として、英語の"I"のように、一人称の主語を明確に使わないことが多い日本語は、自我の発達が未発達な日本人のありようとつながっている、というような言説がある。
また、いじめのような現象があるのも、日本的な集団主義が原因だ、という考えもよく聞く。
さらに、集団主義の帰結として語られる「日本的経営」「年功序列」「系列取引」「日本株式会社」といった「現象」もある。
これらのことが、ことごとく、「日本人は集団主義的」とする証拠として不適切であることが示される。いじめにせよ、経済関係の通説にせよ、実証的な研究をすると、まったく根拠がないというのだ。
いや、まいった。
もちろん、著者の見解への再反論というのもありえるのだろうが、もともとの日本人論が、まったく実証をベースに語られていないがゆえに、それも限定的だろう。
億を超える人口を持つ複雑なコミュニティの中から、自説に都合のよいエピソードを選んで物語を紡ぐなら、なんだっていえてしまうのだ、と痛感させられる。
著者は一歩進んで、みずから、「エピソード主義」の手法で、「アメリカ人は集団主義で、日本人は個人主義」という説を、説得的に提示してみせるのだから念が入っている。もちろん、著者の意図は、その説が正しいとすることではなく、エピソードによる印象論はいかん、ということを説得的に述べることにつきるのだが。
では、なぜ、こんな通説がまかり通るようになったのか。
著者の分析は、ぜひ、本書をごらんください。
ぼくとしては、著者が指摘している、「性格より状況に人の行動は左右される」という分析。国民性というのがあったとしても、それは、その国の人たちの性格がそうであるというよりも、その国の人たちが置かれている状況に依存しているという話。
こういった異文化誤解の事例には、決定性・両極性・斉一性・不変性といった4種類の誤解がついてまわるという指摘がなされる。まあ、このへんも、興味のある方は本書で。
ぼくとしては、この本を「単純な二分法による理解を警戒せよ」とするものとして読んだ。
かりに、そういう二分法が、問題の系を適切に切り分けるとしても、かならず二つ間には「中間」があり、グレーゾーンがある。つまり、常に分布を意識せよ、ということ。
それにくわえて、二分法があまりにしっくりする場合、むしろ、疑問視して、別の座標軸を持ち出し、せめてデカルト座標で考えてみようよという思考の癖をつけておきたい、ということ。
ことPTAについて語る場合など、とくに要注意。
日本は集団主義だから……というのは、あまりに分かりやすすぎて、むしろ、本質を捕まえ損ねていると思ってきたがゆえ。
![]() | PTA再活用論―悩ましき現実を超えて (中公新書ラクレ) 価格:¥ 819(税込) 発売日:2008-10 |
なお、PTAについては、この本の後に新聞連載した「PTA進化論」も配布しています。
くわしくはこちら。
http://blog.goo.ne.jp/kwbthrt/d/20090515