瀬島龍三 回想録「幾山河」を読んで(2)
その戦況も、翌年(昭和17年)の夏頃から、米軍は制空・制海権を奪回し、増援・補給力に物を言わせ、逆転したようです。
それに対して、わが軍の補給はままならず、特に食料は「一人平均、定量の三分の一ないし五分の一」という状態だったようです。わかってなかったのかな~?
昭和17年6月頃からのミッドウエー海戦の報告を聞いて、「一驚、暗然とした気持ち」になり、
さらに「ガダルカナル島へ、艦隊支援の下に米軍上陸開始・・・同島に海軍の飛行場設営隊と警備隊を派遣し、飛行場を建設中であり、ほぼ完成しつつある。」とありました。
「・・・我々はこの連絡によってはじめて『ガダルカナル島』の名前を知った。
地図で探すと、ラバウルの東南方約千㌔の地点であった。」 どうもどうも・・・
この辺から、戦況はおかしくなったようです。
翌18年1月より、止む無くガダルカナル島撤収作戦に入ったが、わが方の損害は多大なもののようでした。
とくに「・・・陸軍が投入した兵力33,600人の内、戦死者8,200人、戦病死者約11,000人。戦病死者のほとんどは食料不足による栄養失調、マラリアによるものであった。」とありました。
食料不足は悲惨ですね。
いまだに精神論を振りかざす老人がいますが、日清、日露の夢を追っていたのでしょうか。
これだけ兵站線を拡げながら、当初から食料補給が十分でなかったのは何故でしょう。
多分現地補給を原則にしていたからではないでしょうか。
現地住民もたまったものではないですよね。
私は、以後の戦況を読むに堪えなくなり、ここで本を閉じます。
なお、小学生の頃、三つ上の兄と、夕刻のラジオ放送で戦況を聞いて、戦果を記録して喜んでいましたが、
いつも 『わが方の損害軽微なり』 でした。
よく言うよ! ですね。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます