地図を楽しむ

地図と共に歩く。里山歩きや、ウオーキングに、そして時には読書に・・・

「ふるさと澁谷の昔がたり」を見て

2011-01-28 | 日記
「ふるさと澁谷の昔がたり」の舞台(地図)をみて

先日、代々木公園を米軍が占拠していた頃のワシントンハイツを知るため、澁谷区の「郷土博物館」を訪ねましたが、カメラにバッテリーを入れ忘れていてコピーできず、目的を変え、ゆっくり全体をみて廻りました。

そして、発見したのが下の地図です。
陸地測量部発行の明治42年(1909年)の一万分一地形図です。

(原本はモノクロ。着色は私の手慰み)

先ずこの地図での発見一号は、
我が家のマンションが井村病院の跡地に建ったことです。
規模の大きい病院のようですが・・・?

そして次ぎは、現在の消防学校が阪川乳牛場跡地に出来たことです。

年寄りたちの語るこの土地の昔語りでは
「畑ばかりで、何にもないところ・・・」という記憶ばかりでした。

地図を眺めてる内に、現地を確かめたく、ジットしておれなくなって、現地を訪ねて歩きました。


先ず、近くの玉川上水緑道に建っている説明板(渋谷区教育委員会)ですが
「・・・この玉川上水は、承応二(1653)年に庄右衛門,清右衛門兄弟の手によって着工されました。取水口は多摩川の羽村で、そこから実に43Km先の四谷大木戸まで掘割を造り、上水を引くという大工事でした。上水は同年11月に四谷大木戸まで完成し、翌年6月には江戸市内まで完成して通水しました。(約2年間の工事?)(中略)
この上水は、江戸市民の飲料水として使われましたが、その余水は田畑の灌漑用水にも使われました。(後略)」

現在は暗渠になり、「玉川上水緑道」として散歩などに親しまれています。
下は、この説明板のすぐ横の緑道の写真です。
私も毎朝のジョギングに使わせていただいています。



その後、水質汚染により、明治新政府は、玉川上水路を使用しながら、代田橋付近から淀橋浄水場まで新たに「新水路」を建設しました。
明治31(1898)年12月に完成し、神田、日本橋方面にも給水を開始しました。

真直ぐな水路です。淀橋から代田橋まで約3.5Km,その間に16個の橋をかけ通行の便を図ったようです。
近くの六号商店街は今でも繁盛しています。
六号橋は痕跡もなくなっていましたが、「六号坂上公園」が、その名残をとどめていました。


昭和40(1965)年、武蔵水路が完成し、水不足解消の切札として利根川の水が東京へ導かれました。
そして、淀橋浄水場の役目も終わり、東村山浄水場へと移りました。



玉川上水緑道にも、「玉川上水」の頃の橋が各所に残っています。
近くの「ニ字橋」(ふたあざ橋)、初台駅横の「改正橋」(かいせい橋)、・・・

事のついでに、この地図の中の主な場所を拾ってみると、

○、こそだて地蔵:
甲州街道沿いの陸橋横に、窮屈そうに建っていました。
そこの説明板(渋谷区教育委員会)によると
「・・・地蔵は苦難のときに身代わりに現れるとか、冥界と現実界との境にあって死後救ってくれるとか、子供の安全を守ってくれるとか、・・・。この地蔵は江戸時代の貞亨三年(1686)の造立で、・・・甲州街道の道幅を拡げるとき、ここにあった大ケヤキのあとに移され、大勢の人々の浄財によって立派なお堂が造られました。」
狭いところですが、立派な鉄筋の建物に収まっていました。


○、幡代小学校:
ジョギングの途中にあります。百年以上の歴史ある小学校とか。ところが、この明治42年発行の地図には掲載されていません。
実は、このたびの調査でわかったのですが、元は今の八千代銀行初台支店のところにあったようです。

そこにも渋谷区教育委員会の説明板がありましたので引用してみますと、
「白水小学校跡:明治12年(1879)、水上忠蔵がこの場所に白水分校という私立の小学校を設立しました。・・・明治15年(1882)2月、白水分校を代々木・幡ヶ谷連合の村立として幡代小学校と改称し,同18年(1885)11月、西側に隣接する場所に新校舎を建築して、移転をしました。」
下が八千代銀行横の説明板の写真です。



○、清岸寺:
この地図は新中野通りが出来る前なので、清岸寺の場所が解りにくく、ずいぶん探し回りました。中野通りに面した由緒ある立派な浄土宗のお寺でした。
なお、ここの説明板に、「幡ヶ谷」は「畑ケ谷」ともかいた。とありましたが納得!?


だいぶ暗くなってきたので、帰りを急いでいましたら、中野通りを甲州街道を渡ったところに「牛ケ窪地蔵」と銘打った「道供養碑」がひっそりと鎮座していました。

○、牛窪地蔵:
渋谷区教育委員会の説明板によると
「・・・道路自体を供養して報恩感謝の念を捧げることにより、交通安全を守ろうとする全国でも珍しい供養碑です。・・・尚、甲州街道に中野通りが交わるこのあたりは、地形が少し低くなっていて、江戸時代から牛ケ窪と呼ばれており、幡ヶ谷地域の農民が雨乞行事を行う場所でした。」



さらには、火葬場→ 幡ヶ谷葬祭場、八幡神社→ 代々木八幡、福泉寺、代々木練兵場→ 代々木公園、春の小川・・・等等、書きたいが次回にしましょう。

先ずはこの辺で・・・









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