信濃町駅から四谷見附界隈までの散歩へ
お茶に招かれたのを縁に、信濃町駅から四谷見附までお寺巡りをしました。
地形図で見ると、須賀町から若葉町、左門町あたりは、無暗にお寺のマークが多く、
前から一度訪ねてみようと思っていました。
ある記録によると、
「この地区は、かつて四谷区寺町、南寺町で、
その町の名の通り、新宿区内寺院の25%の寺院がここに集中している。」とあり、
そのわけは、どうも江戸の火災によるらしいです。
「寛永11年(1634)に江戸城西丸が全焼した際、城の北西の外堀拡張・新設計画に従って、
麹町の寺社が四谷に集団移転してきたもので、
江戸時代に活躍した人士、あるいはその頃の無縁仏の風化した墓石、石仏が多い。」
とありました。
尋ねていると、由緒ある人たちの墓が多く見られます。
例えば、服部半蔵、縞保己一、最後の武士と云われた高松喜六 、それに伊賀の忍者たちの墓です。
それと、無暗に坂道が多く、平坦な道は、むしろ少ないです。
その道を、すでに真夏を思わせる暑さの中を歩き回りました。
歩いたコースは次の赤線です。距離たったの約3Km。
先ず、信濃町駅から、慶応病院沿いに北に進み、途中から左の折れました。
途中は寺だらけです。
正覚寺、顕性寺、本性寺、報恩時、永心寺、勝興寺、西応寺、それから坂を下りて左へ、
そして右に観音坂を登って、真成寺、蓮乗院・・・、
真成寺さんは、納骨堂を営まれていました。
そして、途中に、寺町には珍しい神社がありました。須賀神社です。
また、お寺さんです。
真英寺、法蔵寺、円通寺、そしてやっとの思いで甲州街道へ出ました。
確か真英寺には、この戦争で亡くなられた英霊が祀られていました。
甲州街道を渡ってしばらく進むと、新宿歴史博物館がありました。
入口には、在りし日の四谷見附橋の古い写真や、元の四谷橋の欄干などが並んでいました。
それに添えて次の説明板がありました。
「・・・この橋が架かるまで四谷見附は、
江戸城防備のため甲州街道の要衝として築かれた コ の字状の枡形の名残をとどめ、
麹町方面には直進することが出来ませんでした。
そこで東京市は、甲州街道を直行する橋を計画し、
明治四十四年(1911)三月に着工、大正二年十月に完成しました。・・・」
そして、博物館の中には、
昔懐かしい新宿駅前の「高野フルーツパーラー」や、三越や伊勢丹の建物の写真が見れました。
なんたって、都電が走っている頃の写真ですから。
また、ゆっくり別の日に、歴史博物館見学だけにまいりましょう。
さて、だいぶ暑さにまいりましたので、
四谷見附までの三栄通りで、手打ちそばと 『生』 を一杯、きこし召しました。
美味かったです。やっと人心地を取り戻しました。
それから、お招きいただいたカフェにまいりました。
後は、よろしいように、ご想像を・・・。
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