鉄ちゃん爺やの 独り言

鉄ちゃん爺やは大阪に住んでますので
画像で隠れた関西の名所も紹介します。

鉄ちゃん爺や  堺事件の妙国寺を散策

2016-02-07 08:38:19 | デジカメ散歩
今回は明治維新の前夜を騒がした堺事件だっせ。

歴史に詳しい方しか、ご存じないかもしれまへんな。

明治維新って何時から始まったのかしら?

(京都御所)



建礼門は天皇陛下か、もしくは天皇陛下に同行する
皇后陛下や国賓の方しか、通ることができまへん。

皇后陛下や皇太子殿下が単独で御所に入る際は
東側の建春門(けんしゅうもん)からになりまぁ。

(京都御所の正門 建礼門)



1867年(慶応3年)旧暦12月9日  王政復古
    新暦では1868年 1月3日

1868年(慶応4年)旧暦 9月8日 明治天皇即位
    新暦では1868年 10月23日

鉄ちゃん爺やは明治天皇が即位されて元号の明治が
スタートした方を、明治維新の始まりと考えてまっけど。

1867年(慶応3年)旧暦10月14日 大政奉還
    新暦では1867年 11月9日

他には大政奉還が行われた日と考える説もおますかな。

(京都 蘆山寺)





このお寺には明治天皇のご生母である中山慶子さんの
お写真が本堂に掲げられている、昔は皇室の御寺でおます。

(明治天皇のご生母 中山慶子さま)



現在の天皇家の直系祖先に当たる閑院宮典仁親王さん
(かんいんのみやすけひと)親王とお呼びする方の
お墓がおますけど、お寺は桔梗の花を鑑賞される方のみ。

境内のお墓にお詣りする方はほとんどおられまへんな。

天皇家が断絶するのを救った閑院宮家の第三皇子でっせ。

この方の第6皇子が第118代後桃園天皇の一人娘
欣子(よしこ)内親王を正妻に迎えられて即位されます。

内親王の年齢に合わせて天皇陛下になられたんですな。

この方が第119代光格天皇とお呼びするお方ですよ。

併せて第119代光格天皇のご生母のお墓も祀られてまぁ。

この方は民間人で、閑院宮典仁親王の側室だったようです。

明治天皇は第119代光格天皇の曾孫になりまんねんで。

話が随分と脱線しましたが堺事件へと戻しまひょ。

(天誅組 上陸の地)



明治維新前夜に尊王攘夷を掲げる天誅組と呼ばれる
騒動が起きて、ここ堺の港に上陸し仲間を合わせ
奈良の五条代官所を襲撃する事件がおましたんや。

その中心人物が先ほど紹介した明治天皇ご生母の
同母の弟で中山忠光と呼ばれる青年公家さんでおます。

吉野の奥で幕府軍に鎮圧されてしまいますけど。

1863年(文久3年)旧暦2月の事件でっから
歴史を振り返れば事を起こすのが5年ばかり早かった?

事件の後は長州に逃れて匿われていたが第一次長州征伐の
どさくさに紛れて暗殺されて亡くなっておられますな。

この同じ堺の港で5年後に大事件が起こりましたんや。

1868年(慶応4年)旧暦2月15日のことでおます。

まだ明治と改元される半年前のことになりまっせ。

(堺事件 フランス水兵 上陸の地)





(現在の 堺の旧港)



鳥羽伏見の戦いが起きたのが、この年の旧暦の1月でした。

15代将軍の徳川慶喜公は戦いが負けと判ると身内を連れ
大坂城から江戸へ逃げ去ってしまうんでしたな。

大坂や神戸は幕府の役人の逃亡で無政府状態になりますんや。

そこで大坂は薩摩藩に神戸は長州藩に、ここ堺の街では
土佐藩が警備を任されることになりましたんや。

当時の堺は外国人には開港されてない街なので、許可を
貰わなければ立ち入りが認められない区域になりまっせ。

新政府は江戸へ向けて討幕軍を送っている最中なのに
大坂の天保山沖に外国軍艦が17隻も停泊。

新政府側に付くのか、それとも幕府側に付くのか日和見中。

新政府も不穏な動きを警戒していた頃なんでしような。

(幕末の 堺港の案内板)





突然ながらフランス軍艦が堺の港にやってきて水兵が上陸との
町民の訴えで、土佐藩6番隊の箕浦猪之吉、同じく8番隊の
西村左平次の両人が指揮する73名が派遣されましたんや。

箕浦・西村の両隊長はフランス水兵を船へ戻そうとしたが
言葉が通じず、フランス水兵も民家や神社に不法に侵入。

捕縛しようとしたら土佐藩の隊旗を奪って逃げようとしたとか。

旗手が追いかけて鳶口でフランス水兵を殺傷に及んだそうな。

これにフランス水兵が銃を発砲し土佐藩の兵卒も応戦したので
フランス側は死者11名負傷者9名をだして軍艦に退却。

これが大事件になり、新政府はフランス公使の要求に負けて
藩士20名の死刑と15万ドルの賠償を払うことで落着。

ここで外国勢を敵に回したくないの思いが強かったようですわ。

土佐藩は兵卒の発砲者を取り調べて25人の内から、なんと
くじ引きで16人を藩邸の側にある稲荷社で切腹させる人選を
決めることにしたんだって。

現在では考えられない、くじ引きの殺人でっしゃろ。

隊長2人と小頭2人に兵卒16名で都合が20人になりまんな。

フランス側の要求で堺市内にて死刑の執行と決まりましたんや。

武士の情けで全員が切腹ということで20名を納得させたとか。

兵卒は足軽や郷士なので切腹は許可されないのが建前なんだって。

(日蓮宗 妙国寺)







妙国寺は1945年(昭和20年)7月の堺大空襲で全焼し
戦後に再建された新しいお寺に変わりましたんや。

このお寺にフランス公使や海軍の士官を案内させられたのが
NHK朝ドラで現在放映中の五代友厚だったと記録されてまぁ。

フランス公使や海軍士官は切腹という儀式に興味を持ち
立ち合いと言うよりは、見物にやってきたんでしょうな。

フランス側は警護の兵士を含む数十人だったとか。

ここ妙国寺には天然記念物の大ソテツがあるんでっせ。

写真撮影はネットで迷惑しているので全面禁止なんだって。

だから、写真を買ってそれを紹介しておきまっさ。

(天然記念物 妙国寺の大ソテツ)





このソテツは樹齢が1000年以上でこんな伝説がおます。

織田信長がソテツを安土城に移し替えたんだって。

夜な夜な 堺へ帰りたい~ 帰りたいと泣いたとか。

怒った信長は家臣に刀と斧でソテツを叩き割ったところ
赤い血が噴き出し、気味が悪くなった信長は元の
妙国寺へ戻したといわれてますんや。

余談ながら本能寺の変に際し堺の街を見物していた
徳川家康公はここ妙国寺に宿泊していたんだって。

当時から格式の高い勅願寺として知られていたのかな。

(妙国寺の 株分けされたソテツ)





さて~ 土佐藩の切腹を命じられた20名は当日の朝に
大坂は長堀の藩邸から、肥後の細川家と安芸の浅野家の
藩士に護送されて堺の妙国寺に到着したようでっせ。

フランス公使や士官の他に、日本側の検視役としては
外国係総裁の山階宮(やましなのみや)親王殿下や
外国事務方の前宇和島城主・伊達宗城(むねゆき)に
東久世少将などが立ち会ったと記録されてまんな。

最初に本堂の裏庭に引き立てられたのは箕浦猪之吉で
十文字に腹を切り、内臓をフランス公使に投げ捨てると共に
介錯人の馬場が二度も、首を切るのに失敗すると叱りつけ
三度目に首が切り落とされたと記録されてまっせ。

フランス公使やフランス士官は顔面蒼白になって震えたとか。

11名が次々とお国のためと叫びながら切腹をしたようですわ。

生首が3m以上も飛んでフランス人の手前に落ちたんだって。

フランス公使など切腹する武士の姿すら見れなかったとの話。

(妙国寺境内 十一烈士の慰霊塔)





慰霊塔には右側にフランス水兵のも見えてまっしゃろ。

20名の切腹の予定でしたが11人目を終えた時点で
フランス公使やフランス士官は退席してしまいますんや。

あまりにも壮絶な切腹におびえて、中止を申し出たとか。

フランス側の死者が11名なので、これで辻褄を合わせたかも。

12人目の橋詰某が着座したところで中断の声が出たとの事。

12人目の橋詰某は同僚に申し訳ないと直後に舌を噛んだが
死にきれずに、後に11名の墓守をして余生を送った
そのような記録も残されているようでっせ。

(妙国寺 門前の石碑)



「とさのさむらい はらきりのはか」と刻まれてまっせ。

土塀に五筋の白い横線が入っているのが、勅願寺の高い
格式を誇ることを、今に伝えているようにも感じまんな。

11名は切腹したが勅願寺に埋葬するのは恐れ多いと
道路を挟んだ反対側の宝珠院というお寺にお墓がおます。

(土佐十一烈士の墓 宝珠院)







このお寺は前土佐藩主・山内容堂が藩士11名の忠節を称え
お寺の敷地を広げて丁重にお祀りした真言宗のお寺でっせ。

このお寺には切腹を免れた9名の入るべき甕(棺桶)が今も
保存され、参拝者には長生きできるとの人気なんだって。

(妙国寺 境内)







妙国寺には土佐藩士の切腹前に切り取った遺髪の他に
切腹に際して血糊の付いた三宝が残っているんだって。

堺市のお祭りの時だけ一般に公開されるそうだっせ。

生き残った9名は流罪となり土佐の四万十川の僻地に
住まされましたが、明治天皇即位の恩赦があり後に
罪を許されて高知市民に戻ったと聞きましたな。

9名の内で1名だけは病死をされたとの記録でっけど。

天然記念物の大ソテツや堺事件の推移はボランティアの方で
400円を払って本堂の縁先で拝見できるそうですわ。

写真撮影が全面禁止だとのことで今回はパスしましたけど。

気の毒に感じたのか、ボランティアの方が鉄ちゃん爺やに
ソテツの実を一つだけ内緒で渡してくれました。

運が良ければ芽が出てソテツが育つとか言われましたけど。

(妙国寺 ソテツの実)



長くなりましたので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。

次回はザビエル公園やら堺市の名所を続けて紹介しまっさ。

ほんなら、これで、さいなら~♪


















コメント (18)
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