この日は無料の貸自転車で防府市内を走り回ったんですわ。
防府市内は坂らしい坂もなく平坦な道ばかりなので
レンターサイクルで散策するのには最適の街かもしれまへん。
(防府市 マンホールの蓋)
(昨日と同じ 無料の貸自転車)
ホテルから南へ約2kmぐらいほど走った感じでおます。
江戸時代に萩藩・毛利家の船泊だった「三田尻御舟倉跡」を紹介しまひょ。
1611年(慶長16年)に下松からここ三田尻に萩藩・毛利家は
水軍の基地を全て移し替え「三田尻御船倉」としました。
現在は水路の一部しか残ってまへんが、幕末までは萩藩・毛利家の
御座船や軍船がここに留め置かれていたと書かれてました。
当時はこの辺りが三田尻の港だった訳でんな。
(三田尻御舟倉跡)
毛利家は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられたんですが
御大将の毛利輝元は大坂城から動かず、出陣した部隊も吉川広家の
東軍との密約で関ヶ原の戦いにも参加せずに終わりましたんや。
本来なら本領安堵の密約だったのに徳川家康の策略に嵌まって
112万石から防長30万石に減らされて山陰側の萩にしか
城を造ることを認めず、雌伏の時代を迎えたんですわ。
ここ三田尻か山口に城を築きたいと願い出たが徳川幕府は
毛利家を警戒し日本海側の萩に押し込めることにしたとか。
(萩往還の 終着点)
(三田尻御船倉跡 説明書き)
萩の城下から山口を通りここ三田尻で瀬戸内海に至ります。
この街道を江戸時代には「萩往還」と呼んだそうですわ。
萩の城下から南東の方角へ最短で結んだことになりまぁ。
毛利家の参勤交代はここから御座船で瀬戸内海を通り
大坂の蔵屋敷から小舟で京都の伏見に行き、そこからは
陸路で東海道を通り江戸へ向かったようでんな。
江戸幕府は萩から山陽道を通り全て陸路で江戸までこいと
干渉したり、毛利水軍を警戒することが多かったとも。
「萩往還」を少しだけ戻ると萩藩・毛利家の公館がおました。
(三田尻御茶屋 英雲荘)
萩藩・毛利家の参勤交代には、萩城下からやってきて
ここで休憩をした後、三田尻御舟倉で御座船の準備を待ち
藩主以下の一行は乗船して大坂へと向かったようでっせ。
「英雲荘」は萩藩・7代藩主の毛利重就公の法名のようで
毛利重就公は家督を譲られた後、ここで隠居されたそうですわ。
幕末に京都から下ってきた「七卿落ち」の三条実美以下7名の
公家さんたちも、ここで暫く滞在していたと記されてますな。
幕末には勤王の志士たちが国事を語り、あの坂本龍馬も
脱藩した後、ここに立ち寄ったと言われてますんや。
(曹洞宗 大楽寺)
若くして亡くなった夏目雅子さんのお墓がここに在ると書かれてまぁ。
ご主人だった伊集院静さんの実家のお墓に分骨されているようです。
ネットで検索したら東京多摩の実家の方にもお墓が在るようでした。
伊集院静さんは仙台の方と再婚されたとかで、寂しそうなお墓でした。
(大楽寺 山門)
(大楽寺 本堂)
(大楽寺 鐘楼)
(毛利重就公の お墓) (法名 英雲公)
先程書き込んだ萩藩・毛利家7代藩主さんですよ。
萩市内にも英雲公のお墓が在るそうですけど。
この英雲公は徳川中期に萩藩・毛利家の財政を立て直した
名君で、防府市に大きな塩田を造られたそうです。
現在は塩田の跡がマツダ防府工場などの工業団地になり
合わせて三田尻中関港も英雲公が創設したとのこと。
ここから反転して防府天満宮の方向へ戻ることにしました。
山口県の県道ではガードレールに黄色い塗装がみられますな。
どうして黄色い塗装にしたのかは知りませんけど。
(山口県の 県道のガードレール)
(小休止して 軽食でお昼を)
ベーグルと言うんでっか、若い女性に人気だとか
入った店が、ベーグルがメインのカフェでした。
鉄ちゃん爺やにはパンなのかドーナツなのか
はたまたハンバーガーとの区別がつきまへん。
(JR防府駅前 種田山頭火の銅像)
(JR防府駅舎)
種田山頭火はここ防府市で生まれ漂泊の俳人と呼ばれ
今回の旅行でも、宇佐神宮や新山口駅前でも見かけました。
大正時代から昭和初期にかけての俳人で、鉄ちゃん爺やも
お名前だけは知ってまっけど、詳しい活躍などは分かりまへん。
(種田山頭火の 生家跡)
(山頭火ふるさと館)
防府天満宮から歩いて10分ぐらいの近場でした。
旧毛利家本邸と毛利氏庭園を見たかったので写真だけ撮影し
先を急ぐ形になりましたんや。
途中で大村能章さんの顕彰碑を発見しましたで。
(大村能章顕彰碑)
「野崎小唄」「同期の桜」「旅笠道中」「麦と兵隊」などの
作曲家で、この方も現在の防府市のお生まれだったようでんな。
昔懐かしい東海林太郎さんの歌が多かったような感じ。
裏手は佐波神社になってますが、無人のようで
ご朱印は頂けないようでした。
(佐波神社)
ネットで調べたら平安時代に一之宮から三之宮までの神様を分祀し
国衙の近くで周防の国の総社とした由緒ある神社だとか。
現在は誰も訪れることもない、小さな神社になってまぁ。
(旧毛利家本邸の 四足門を背景に自撮り)
(旧毛利家本邸の 車寄せ)
(旧毛利家本邸・毛利氏庭園 拝観券)
明治維新後に最後の長州藩主・毛利元徳公が大名屋敷の姿を再現し
大正時代に建築させた書院造りの和風の建物になっています。
現在は国指定の重要文化財に指定されてるようですわ。
館内は博物館も兼ねており、毛利家が所有している国宝級の
宝物を始め、貴重な文化財が展示されていますんや。
(旧毛利家本邸 玄関)
(旧毛利家本邸 大広間)
重要文化財の掛け軸は「狩野探幽作」のようですが本物にしては
係り員も配置されてないので、大丈夫なのかしらと心配に。
掛け軸の前まで近づいたけど誰にも注意されまへんでした。
本当は次の間から奥へ入ったらダメなんですけどね。
(次の間)
(旧毛利家本邸から 庭園を望む)
(毛利家 各藩の家紋)
ここから先が旧毛利家本邸の博物館になりますんや。
館内の博物館は写真撮影が禁止されてますので
歴史的な文化財は写せませんのでご容赦のほど。
(旧毛利家本邸の2階から 防府市内を撮影)
防府市内が一望できるようで、2階は応接間かもしれません。
小高い丘に建ってますので、ここからの見晴らしは最高ですわ。
遥か向こうの山が見える辺りの先が瀬戸内海になりまっせ。
旧毛利家本邸を出て毛利氏庭園も拝観させて貰いまひょ。
(毛利氏庭園から 旧毛利本邸を撮影)
(毛利氏庭園)
最後に防府市の三田尻中関港は明治維新前夜に薩長の同盟が成立し
ここから京都へ向かって薩長の連合軍が出撃したんだそうです。
この連合軍が鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り討幕のスタートを切り
明治維新の夜明けを告げたのが現在の山口県防府市だったそうです。
(JR防府駅名標)
長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。
次回はJR防府駅から大阪へ向かう鉄ちゃん爺やの
一人旅のブログ最終回とさせて貰います。
ほな~ さいなら~♪
宴豪軍が
防府市内は坂らしい坂もなく平坦な道ばかりなので
レンターサイクルで散策するのには最適の街かもしれまへん。
(防府市 マンホールの蓋)
(昨日と同じ 無料の貸自転車)
ホテルから南へ約2kmぐらいほど走った感じでおます。
江戸時代に萩藩・毛利家の船泊だった「三田尻御舟倉跡」を紹介しまひょ。
1611年(慶長16年)に下松からここ三田尻に萩藩・毛利家は
水軍の基地を全て移し替え「三田尻御船倉」としました。
現在は水路の一部しか残ってまへんが、幕末までは萩藩・毛利家の
御座船や軍船がここに留め置かれていたと書かれてました。
当時はこの辺りが三田尻の港だった訳でんな。
(三田尻御舟倉跡)
毛利家は関ヶ原の戦いで西軍の総大将に祭り上げられたんですが
御大将の毛利輝元は大坂城から動かず、出陣した部隊も吉川広家の
東軍との密約で関ヶ原の戦いにも参加せずに終わりましたんや。
本来なら本領安堵の密約だったのに徳川家康の策略に嵌まって
112万石から防長30万石に減らされて山陰側の萩にしか
城を造ることを認めず、雌伏の時代を迎えたんですわ。
ここ三田尻か山口に城を築きたいと願い出たが徳川幕府は
毛利家を警戒し日本海側の萩に押し込めることにしたとか。
(萩往還の 終着点)
(三田尻御船倉跡 説明書き)
萩の城下から山口を通りここ三田尻で瀬戸内海に至ります。
この街道を江戸時代には「萩往還」と呼んだそうですわ。
萩の城下から南東の方角へ最短で結んだことになりまぁ。
毛利家の参勤交代はここから御座船で瀬戸内海を通り
大坂の蔵屋敷から小舟で京都の伏見に行き、そこからは
陸路で東海道を通り江戸へ向かったようでんな。
江戸幕府は萩から山陽道を通り全て陸路で江戸までこいと
干渉したり、毛利水軍を警戒することが多かったとも。
「萩往還」を少しだけ戻ると萩藩・毛利家の公館がおました。
(三田尻御茶屋 英雲荘)
萩藩・毛利家の参勤交代には、萩城下からやってきて
ここで休憩をした後、三田尻御舟倉で御座船の準備を待ち
藩主以下の一行は乗船して大坂へと向かったようでっせ。
「英雲荘」は萩藩・7代藩主の毛利重就公の法名のようで
毛利重就公は家督を譲られた後、ここで隠居されたそうですわ。
幕末に京都から下ってきた「七卿落ち」の三条実美以下7名の
公家さんたちも、ここで暫く滞在していたと記されてますな。
幕末には勤王の志士たちが国事を語り、あの坂本龍馬も
脱藩した後、ここに立ち寄ったと言われてますんや。
(曹洞宗 大楽寺)
若くして亡くなった夏目雅子さんのお墓がここに在ると書かれてまぁ。
ご主人だった伊集院静さんの実家のお墓に分骨されているようです。
ネットで検索したら東京多摩の実家の方にもお墓が在るようでした。
伊集院静さんは仙台の方と再婚されたとかで、寂しそうなお墓でした。
(大楽寺 山門)
(大楽寺 本堂)
(大楽寺 鐘楼)
(毛利重就公の お墓) (法名 英雲公)
先程書き込んだ萩藩・毛利家7代藩主さんですよ。
萩市内にも英雲公のお墓が在るそうですけど。
この英雲公は徳川中期に萩藩・毛利家の財政を立て直した
名君で、防府市に大きな塩田を造られたそうです。
現在は塩田の跡がマツダ防府工場などの工業団地になり
合わせて三田尻中関港も英雲公が創設したとのこと。
ここから反転して防府天満宮の方向へ戻ることにしました。
山口県の県道ではガードレールに黄色い塗装がみられますな。
どうして黄色い塗装にしたのかは知りませんけど。
(山口県の 県道のガードレール)
(小休止して 軽食でお昼を)
ベーグルと言うんでっか、若い女性に人気だとか
入った店が、ベーグルがメインのカフェでした。
鉄ちゃん爺やにはパンなのかドーナツなのか
はたまたハンバーガーとの区別がつきまへん。
(JR防府駅前 種田山頭火の銅像)
(JR防府駅舎)
種田山頭火はここ防府市で生まれ漂泊の俳人と呼ばれ
今回の旅行でも、宇佐神宮や新山口駅前でも見かけました。
大正時代から昭和初期にかけての俳人で、鉄ちゃん爺やも
お名前だけは知ってまっけど、詳しい活躍などは分かりまへん。
(種田山頭火の 生家跡)
(山頭火ふるさと館)
防府天満宮から歩いて10分ぐらいの近場でした。
旧毛利家本邸と毛利氏庭園を見たかったので写真だけ撮影し
先を急ぐ形になりましたんや。
途中で大村能章さんの顕彰碑を発見しましたで。
(大村能章顕彰碑)
「野崎小唄」「同期の桜」「旅笠道中」「麦と兵隊」などの
作曲家で、この方も現在の防府市のお生まれだったようでんな。
昔懐かしい東海林太郎さんの歌が多かったような感じ。
裏手は佐波神社になってますが、無人のようで
ご朱印は頂けないようでした。
(佐波神社)
ネットで調べたら平安時代に一之宮から三之宮までの神様を分祀し
国衙の近くで周防の国の総社とした由緒ある神社だとか。
現在は誰も訪れることもない、小さな神社になってまぁ。
(旧毛利家本邸の 四足門を背景に自撮り)
(旧毛利家本邸の 車寄せ)
(旧毛利家本邸・毛利氏庭園 拝観券)
明治維新後に最後の長州藩主・毛利元徳公が大名屋敷の姿を再現し
大正時代に建築させた書院造りの和風の建物になっています。
現在は国指定の重要文化財に指定されてるようですわ。
館内は博物館も兼ねており、毛利家が所有している国宝級の
宝物を始め、貴重な文化財が展示されていますんや。
(旧毛利家本邸 玄関)
(旧毛利家本邸 大広間)
重要文化財の掛け軸は「狩野探幽作」のようですが本物にしては
係り員も配置されてないので、大丈夫なのかしらと心配に。
掛け軸の前まで近づいたけど誰にも注意されまへんでした。
本当は次の間から奥へ入ったらダメなんですけどね。
(次の間)
(旧毛利家本邸から 庭園を望む)
(毛利家 各藩の家紋)
ここから先が旧毛利家本邸の博物館になりますんや。
館内の博物館は写真撮影が禁止されてますので
歴史的な文化財は写せませんのでご容赦のほど。
(旧毛利家本邸の2階から 防府市内を撮影)
防府市内が一望できるようで、2階は応接間かもしれません。
小高い丘に建ってますので、ここからの見晴らしは最高ですわ。
遥か向こうの山が見える辺りの先が瀬戸内海になりまっせ。
旧毛利家本邸を出て毛利氏庭園も拝観させて貰いまひょ。
(毛利氏庭園から 旧毛利本邸を撮影)
(毛利氏庭園)
最後に防府市の三田尻中関港は明治維新前夜に薩長の同盟が成立し
ここから京都へ向かって薩長の連合軍が出撃したんだそうです。
この連合軍が鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破り討幕のスタートを切り
明治維新の夜明けを告げたのが現在の山口県防府市だったそうです。
(JR防府駅名標)
長くなりますので、今日はこれでお仕舞にしまひょ。
次回はJR防府駅から大阪へ向かう鉄ちゃん爺やの
一人旅のブログ最終回とさせて貰います。
ほな~ さいなら~♪
宴豪軍が