京都の木屋町(きやまち)とは河原通りの一つだけ東側
前回に見て頂いた高瀬川に沿った辺りを呼びまんねん。
北部と南部の先斗町(ぽんとちょう)辺りでは趣が
少し違いまっけど北の方から下がって見まひょ。
京都では御所に向かう方を「上る」=あがる、
逆に京都駅の方へ向かうのを「下る」=さがる
このように呼んで、それに通りの名前を加えますのや。
京都では「通り」は「通」と書いて平仮名は付けまへんで。
ほんなら~ 京都市役所から始めまっせ。
(京都市役所 本庁舎) (京都市中京区寺町通御池)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(京都市役所敷地内 さるすべりの花)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
人口約146万人で11の区で構成された政令都市でおます。
戦争中も空襲を受けなかったので古都の趣が強い街でっかな。
京都市役所は横が河原町通なのに何故か寺町通を称してますんや。
寺町通は中世から存在した古い南北の通りで、河原町通は
江戸時代の初めに鴨川を改修した時に出来た新しい通り
それとも明治時代の敷地が河原町通まで広がってなかったのかも。
因みに御池通りの堀川通りから川端通までは京都市内では
一番、道幅が広い道路で地下鉄の東西線が走ってますんや。
(京都ホテル オークラ) (京都市中京区河原町御池)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
明治時代から昭和の時代迄は京都ホテルと呼ぶ老舗のホテルでした。
平成の14年にホテル・オークラの傘下に入ったようでおます。
このホテルは高さが60mで大阪なら別に高いビルじゃおまへんが
京都市内では京都駅前ビルに並ぶ一番高い高層ビルなんだそうな。
古都京都の景観を損ねるとかで随分とモメたんでっせ。
現在では、こんな高いホテルはもう建てられないそうですわ。
ここは江戸時代には長州藩邸があり幕末の歴史を騒がした場所で
ホテルの敷地内にその石碑がたってましたで。
(長州屋敷址の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1864年(元治元年)の蛤門の変では長州藩が京都御所まで押しかけ
会津藩や薩摩藩の軍勢に敗れ、京都留守居役は藩邸に火を放ったとか。
その火は南は現在のJR京都駅前まで西は堀川通から東は寺町通まで
二日間燃え続けて京都市民が「どんどん焼け」と呼ぶ大火になったそうな。
江戸時代では天明の大火に次ぐ大きな火災に成ってしまったんだって。
明治維新後は政府に没収されて京都ホテルに払い下げとなったのかな?
(高級料亭 幾松)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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この高級料亭は幕末に長州の桂小五郎が芸妓の幾松と隠れ住んだ家で
国の登録文化財に指定されている建物なんだって。
幾松が長持ちに桂小五郎を隠して新撰組の近藤勇とやりあって
難を逃れたとの伝説の舞台になったようでっせ。
長州藩邸内なら新撰組も手が出せないけど、ここは控えの屋敷
明治の元勲も危機一髪の処を幾松の機転で救われたと言うことですわ。
(高級料亭 幾松の玄関先)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
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「幾松」で1泊して京料理を味わったら2万円~14万円だとか
とてもじゃないけど鉄ちゃん爺やとは縁のない世界でおます。
画像の左手に見えているのが「幾松」の経営するレストランで
ここなら京料理のランチで4千円~6千円ぐらいだそうですわ。
「幾松」さんの納涼川床のメニューの写真を貼り付けて置きまひょ。
(幾松さんで 納涼川床 酒の肴かな?)
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まさか~ 14400円で済むとは思えまへんのやけど。
14400円~ だからお酒や川床の席料も要るでしょうな。
勿論ながら料亭の「幾松」は予約しないと入れませんよ。
お隣りのレストランは予約なしでも食べられる時もありだとか。
(高級料亭「幾松」さん 玄関のお飾り)
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祇園祭の長刀鉾をかたどったお札か? お飾り? のようですね。
料亭「幾松」さんの前も歴史上で名高い方の遭難の地ですわ。
(佐久間象山 & 大村益次郎 遭難の碑)
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幕末の歴史上に名高いお二人なんだけど、明治維新を挟んで
5年ぐらいの違いがあるのに並んで石碑が立てられてますな。
手前の小川は高瀬川で石碑の向こう側はホテル・オークラですわ。
なにせ木屋町界隈を歩いてたら、幕末に勤王の志士や佐幕派の方など
多くの人が殺害された現場だとの石碑が目立ちますんや。
木屋町や先斗町は幕府や京都所司代の監視も祇園などより緩く
志士たちが隠れて泊る宿屋や料亭などが多かったようでんな。
万が一に危険が迫っても長州藩邸や土佐藩邸が近かったことや
この界隈が幕末の志士たちに協力的だったのかもしれまへんで。
少し話題を変えて鴨川の畔へ出てみまひょ。
(御池大橋から 鴨川は木屋町の川床を撮影)
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先程の高級料亭「幾松」さんの川床も奥の方に見えてまっせ。
(御池大橋から 二条大橋と鴨川の上流を撮影)
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(御池大橋から 比叡山をズームアップ)
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天台宗の延暦寺などで名高い比叡山なんですが正確に言えば
比叡山と呼ぶ山は存在しないんですわ。
画像で奥の大比叡=だいひえい標高848m と手前に見える
四明岳=しめいがだけ標高838mの二つの峰を総称して初めて
比叡山と呼ぶのが正しい呼び方なんでっせ。
双耳峰のこの山は京都盆地から見ると手前の四明岳に奥の大比叡が隠れ
一つの山に見える事が多く、二つの峰が見えるのは珍しいんですわ。
それでは再び木屋町に戻り高瀬川に沿って下って行きまひょ。
(木屋町通り 加賀藩邸址の石碑)
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御池通りを挟んで北側には幕末には過激派の長州藩邸が
南側には穏健派の加賀藩邸が並んで居たのも面白いでんな。
加賀藩は明治維新までほとんど歴史上での動きは見られず
中立を守り通したのも京都留守居役の役目だったようでっせ。
(銀座の柳二世)
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銀座の柳も明治時代に京都の仏光寺?から移植されたとかの説。
だから銀座の柳は故郷の京都へ里帰りしたようなもんでっかな。
反対側に在った銀座の柳二世の1本が近年に枯れてしまったとか
銀座の柳・四世を貰い受けして現在は育成しているようでしたわ。
(高瀬川沿いの しだれ柳)
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高瀬川の御池通りから三条通り迄には柳が多く植えられてますんや。
京都の小川にはしだれ柳が良くお似合いですわ。
三条通りを越えて南側の木屋町へ入って来ましたで。
(浄土宗 瑞泉寺=ずいせんじ)
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この辺りは中世には三条河原と呼ばれる鴨川の中州だったようでんな。
罪人を処刑する場所だったそうで歴史上に名高い前関白・豊臣秀次公の
妻妾と子供たちの一族が秀次公の生首の前で三十余名も処刑されたんだって。
生れてまだ1~2歳の幼い子供達も数多くいたとか。
あの残忍な徳川家康公でさえ豊臣秀頼公の娘は処刑せず鎌倉市の東慶寺の
尼にして命だけは助けたのに、豊臣秀吉公は全員を殺してしまいましたんや。
それも姉の子(甥っこ)とその一族全員と言う事は、もし処刑していなければ
豊臣家の滅亡が無くて歴史が変っていたかも知れませんからね。
(豊臣秀次公 & ご一族の墓所)
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豊臣秀吉公は処刑後も墓を作ることを許さずに大きな穴を堀り三十余名の
遺体を埋めて供養塔だけを一つ上に置かせたとのこと。
江戸時代の初期に角倉了以が鴨川を改修して高瀬川を開削した折りに
石塔が出てきたのでその場所にお寺を建てさせたとされています。
瑞泉寺(ずいせんじ)の名前は豊臣秀次公の法名から付けられたそうですわ。
(瑞泉寺 境内)
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豊臣秀次公とその一族が処刑されたのは1595年(文禄4年)ですから
豊臣秀吉公が亡くなる3年前で、我が子の秀頼を愛するあまりにしてもね。
若い頃は人を殺すのを避けてきた豊臣秀吉公も老年になり神経が狂ってしまい
信ずるべき身内を謀反の疑いで、みな殺しにしてしまうとは考えられませんな。
そんなに大きなお寺じゃないけど訪れる人は誰も見かけませんでした。
このお寺が出て数年後に大坂夏の陣が起こり豊臣氏は滅亡していますからね。
(木屋町の料亭 玄関にて撮影)
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「酒なくて なんの己れが 櫻かな」 良く聞く俳句? それとも川柳?
HPで調べてみましたが分かりませんでした、古典落語にも出てくる
江戸時代からの諺のようですが、作者も誰なのか不明でしたよ。
長くなりますので木屋町の後編は次回にさせて頂きまひょ。
ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~
前回に見て頂いた高瀬川に沿った辺りを呼びまんねん。
北部と南部の先斗町(ぽんとちょう)辺りでは趣が
少し違いまっけど北の方から下がって見まひょ。
京都では御所に向かう方を「上る」=あがる、
逆に京都駅の方へ向かうのを「下る」=さがる
このように呼んで、それに通りの名前を加えますのや。
京都では「通り」は「通」と書いて平仮名は付けまへんで。
ほんなら~ 京都市役所から始めまっせ。
(京都市役所 本庁舎) (京都市中京区寺町通御池)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
(京都市役所敷地内 さるすべりの花)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
人口約146万人で11の区で構成された政令都市でおます。
戦争中も空襲を受けなかったので古都の趣が強い街でっかな。
京都市役所は横が河原町通なのに何故か寺町通を称してますんや。
寺町通は中世から存在した古い南北の通りで、河原町通は
江戸時代の初めに鴨川を改修した時に出来た新しい通り
それとも明治時代の敷地が河原町通まで広がってなかったのかも。
因みに御池通りの堀川通りから川端通までは京都市内では
一番、道幅が広い道路で地下鉄の東西線が走ってますんや。
(京都ホテル オークラ) (京都市中京区河原町御池)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
明治時代から昭和の時代迄は京都ホテルと呼ぶ老舗のホテルでした。
平成の14年にホテル・オークラの傘下に入ったようでおます。
このホテルは高さが60mで大阪なら別に高いビルじゃおまへんが
京都市内では京都駅前ビルに並ぶ一番高い高層ビルなんだそうな。
古都京都の景観を損ねるとかで随分とモメたんでっせ。
現在では、こんな高いホテルはもう建てられないそうですわ。
ここは江戸時代には長州藩邸があり幕末の歴史を騒がした場所で
ホテルの敷地内にその石碑がたってましたで。
(長州屋敷址の石碑)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
1864年(元治元年)の蛤門の変では長州藩が京都御所まで押しかけ
会津藩や薩摩藩の軍勢に敗れ、京都留守居役は藩邸に火を放ったとか。
その火は南は現在のJR京都駅前まで西は堀川通から東は寺町通まで
二日間燃え続けて京都市民が「どんどん焼け」と呼ぶ大火になったそうな。
江戸時代では天明の大火に次ぐ大きな火災に成ってしまったんだって。
明治維新後は政府に没収されて京都ホテルに払い下げとなったのかな?
(高級料亭 幾松)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この高級料亭は幕末に長州の桂小五郎が芸妓の幾松と隠れ住んだ家で
国の登録文化財に指定されている建物なんだって。
幾松が長持ちに桂小五郎を隠して新撰組の近藤勇とやりあって
難を逃れたとの伝説の舞台になったようでっせ。
長州藩邸内なら新撰組も手が出せないけど、ここは控えの屋敷
明治の元勲も危機一髪の処を幾松の機転で救われたと言うことですわ。
(高級料亭 幾松の玄関先)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「幾松」で1泊して京料理を味わったら2万円~14万円だとか
とてもじゃないけど鉄ちゃん爺やとは縁のない世界でおます。
画像の左手に見えているのが「幾松」の経営するレストランで
ここなら京料理のランチで4千円~6千円ぐらいだそうですわ。
「幾松」さんの納涼川床のメニューの写真を貼り付けて置きまひょ。
(幾松さんで 納涼川床 酒の肴かな?)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
まさか~ 14400円で済むとは思えまへんのやけど。
14400円~ だからお酒や川床の席料も要るでしょうな。
勿論ながら料亭の「幾松」は予約しないと入れませんよ。
お隣りのレストランは予約なしでも食べられる時もありだとか。
(高級料亭「幾松」さん 玄関のお飾り)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
祇園祭の長刀鉾をかたどったお札か? お飾り? のようですね。
料亭「幾松」さんの前も歴史上で名高い方の遭難の地ですわ。
(佐久間象山 & 大村益次郎 遭難の碑)
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幕末の歴史上に名高いお二人なんだけど、明治維新を挟んで
5年ぐらいの違いがあるのに並んで石碑が立てられてますな。
手前の小川は高瀬川で石碑の向こう側はホテル・オークラですわ。
なにせ木屋町界隈を歩いてたら、幕末に勤王の志士や佐幕派の方など
多くの人が殺害された現場だとの石碑が目立ちますんや。
木屋町や先斗町は幕府や京都所司代の監視も祇園などより緩く
志士たちが隠れて泊る宿屋や料亭などが多かったようでんな。
万が一に危険が迫っても長州藩邸や土佐藩邸が近かったことや
この界隈が幕末の志士たちに協力的だったのかもしれまへんで。
少し話題を変えて鴨川の畔へ出てみまひょ。
(御池大橋から 鴨川は木屋町の川床を撮影)
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先程の高級料亭「幾松」さんの川床も奥の方に見えてまっせ。
(御池大橋から 二条大橋と鴨川の上流を撮影)
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(御池大橋から 比叡山をズームアップ)
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天台宗の延暦寺などで名高い比叡山なんですが正確に言えば
比叡山と呼ぶ山は存在しないんですわ。
画像で奥の大比叡=だいひえい標高848m と手前に見える
四明岳=しめいがだけ標高838mの二つの峰を総称して初めて
比叡山と呼ぶのが正しい呼び方なんでっせ。
双耳峰のこの山は京都盆地から見ると手前の四明岳に奥の大比叡が隠れ
一つの山に見える事が多く、二つの峰が見えるのは珍しいんですわ。
それでは再び木屋町に戻り高瀬川に沿って下って行きまひょ。
(木屋町通り 加賀藩邸址の石碑)
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御池通りを挟んで北側には幕末には過激派の長州藩邸が
南側には穏健派の加賀藩邸が並んで居たのも面白いでんな。
加賀藩は明治維新までほとんど歴史上での動きは見られず
中立を守り通したのも京都留守居役の役目だったようでっせ。
(銀座の柳二世)
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銀座の柳も明治時代に京都の仏光寺?から移植されたとかの説。
だから銀座の柳は故郷の京都へ里帰りしたようなもんでっかな。
反対側に在った銀座の柳二世の1本が近年に枯れてしまったとか
銀座の柳・四世を貰い受けして現在は育成しているようでしたわ。
(高瀬川沿いの しだれ柳)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
高瀬川の御池通りから三条通り迄には柳が多く植えられてますんや。
京都の小川にはしだれ柳が良くお似合いですわ。
三条通りを越えて南側の木屋町へ入って来ましたで。
(浄土宗 瑞泉寺=ずいせんじ)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
この辺りは中世には三条河原と呼ばれる鴨川の中州だったようでんな。
罪人を処刑する場所だったそうで歴史上に名高い前関白・豊臣秀次公の
妻妾と子供たちの一族が秀次公の生首の前で三十余名も処刑されたんだって。
生れてまだ1~2歳の幼い子供達も数多くいたとか。
あの残忍な徳川家康公でさえ豊臣秀頼公の娘は処刑せず鎌倉市の東慶寺の
尼にして命だけは助けたのに、豊臣秀吉公は全員を殺してしまいましたんや。
それも姉の子(甥っこ)とその一族全員と言う事は、もし処刑していなければ
豊臣家の滅亡が無くて歴史が変っていたかも知れませんからね。
(豊臣秀次公 & ご一族の墓所)
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photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
豊臣秀吉公は処刑後も墓を作ることを許さずに大きな穴を堀り三十余名の
遺体を埋めて供養塔だけを一つ上に置かせたとのこと。
江戸時代の初期に角倉了以が鴨川を改修して高瀬川を開削した折りに
石塔が出てきたのでその場所にお寺を建てさせたとされています。
瑞泉寺(ずいせんじ)の名前は豊臣秀次公の法名から付けられたそうですわ。
(瑞泉寺 境内)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
豊臣秀次公とその一族が処刑されたのは1595年(文禄4年)ですから
豊臣秀吉公が亡くなる3年前で、我が子の秀頼を愛するあまりにしてもね。
若い頃は人を殺すのを避けてきた豊臣秀吉公も老年になり神経が狂ってしまい
信ずるべき身内を謀反の疑いで、みな殺しにしてしまうとは考えられませんな。
そんなに大きなお寺じゃないけど訪れる人は誰も見かけませんでした。
このお寺が出て数年後に大坂夏の陣が起こり豊臣氏は滅亡していますからね。
(木屋町の料亭 玄関にて撮影)
photo by kuroda0729 from フォトフレンド for マイポケット
「酒なくて なんの己れが 櫻かな」 良く聞く俳句? それとも川柳?
HPで調べてみましたが分かりませんでした、古典落語にも出てくる
江戸時代からの諺のようですが、作者も誰なのか不明でしたよ。
長くなりますので木屋町の後編は次回にさせて頂きまひょ。
ほんなら~ 今日はこれで、さいなら~