福島の原発事故やその背景を考えるとき、僕の考えは往々にして、
日本の戦前・戦後の歴史的過程、日本の今の社会の歪みと抑圧的構造、
日常の中で自然と時間軸への感覚を失った日本人の暮らしぶり等に
行き着いてしまう。
「原発事故、放射能汚染が日常の生活の一部、もはや取り返すことも
取り除くことも出来ない自業自得の運命となった国、日本。
私達が受けた心の深層部への打撃、損なわれた心、精神の裂け目は
相当に大きいのかもしれない。意識と無意識の二つの層に関わっている
ように思う。まだはっきりとした言葉にはならない。
私達日本人が、この日本の社会、このような帰結に至った日本の戦後65年の
社会構造や日常を形成してきた支配的な価値構造を変えられるかどうか、
まだ分からない。本当に難しいと思う。
この国が大きく変わることに期待をかけて、自分の生活をないがしろにしたり、
失望したり、それにこだわり過ぎないようによくよく気をつけよう。
「脱原発」や「自然エネルギー」への転換はあり得るかもしれない。
多分、そうなるだろう。それ自体は悪いことではない。
けれども、今の日本の社会構造自体が大きく変わることは、まず無理なこと
だと思う。日本の近現代の歴史の歩み、日本社会に対する自らの経験からは、
そう思わざるを得ない。
日本の病巣はあまりに深い。暮らしのあらゆる分野に行き渡り、多くの多くの
人々の感覚の中にしっかり根を張っている。
それでも、一人一人の生き方のみが微力ではあれ、社会を、時代を
変えていくということは確かなことだ。
幻想も、行き過ぎた熱情も、裏返しの失望も役に立たない。
心の中に冷たい風が吹くときがあっても、
自らの生き方を大切にしなければならない。大切にしよう。
醒めた目でも希望の話をしようと思う。」
幻想を抱かずに、希望の話をすること。自分を見失わないこと。
今日はそのために、過去の記録から幾つかのことを書き留めておこう。
「2010年10月17日の記録/twitterより」
祝島、上関町の海を守ること。そこに暮らす人達のために。私達の故郷、
日本を壊さないように。子供達の命と未来を大切にするために。
瀬戸内海、田ノ浦の埋め立てに、原発建設に反対します。
日本もドイツも未来は本当に一つ。
それは経済原理、効率重視、原発建設ではなく、何百年、何千年と
続いてきた自然や文化、人の心を大切にすること。
「2010年11月3日の記録/ブログより」
21世紀、緑のドン・キホーテが戦いを挑んでいるのは風車ではない。
戦うべきは、旧態依然の経済効率最優先の考え方、そしてそれが産み
出してきた技術やシステムだろう。その先端にあるのが、21世紀の
エネルギー問題の解決を、原子力発電に求める姿である。
日本では緑のドン・キホーテは多勢に無勢。この環境を変えて行くのは
まさに個人の一人一人だろう。ドイツにいても僕もその一人。
ドン・キホーテは諦めない。荒唐無稽の妄想に見えても、夢と希望を
胸に抱いている。21世紀の邪悪な巨人は風車ではない。それは他にいる。
見間違えないようにしよう。
「2010年2月21日の記録/twitterより」
日本の山口県上関田ノ浦ではとんでもない事が今、起きています。
中国電力の原発工事強行とそれを支持する山口地裁の仮処分決定。
これは私達の、市民の基本的権利を著しく損なうもの。
人の命はまだ失われていませんが、人々の心の深いところが引き裂かれて
います。肉体的、精神的死者が発生します。壊れた国でも私達の故郷。
「自分等の子供にこんなとこ見せられますか。未来につながる
ことですかこれが。今の生活のために仕事してるのは分かるけど。。
子供に堂々と言えるんですか。誰がこんなこと望むんですか。」
(2月21日、山口県上関田ノ浦の原発予定地、強行工事現場から)
「2010年5月4日の記録/ブログより」
福島県は会津若松の辺りだろうか、一枚一枚よく手入れされた田んぼが
何百枚と左右に大きく広がっている。何代も営々と営まれてきた農の姿。
昔からの東北の轂倉地帯。点在する集落、そばには村の墓場と桜の木々。
その田畑と里山の風景を見下ろすかのように、都会への送電線が張り
巡らされ、その為の大きな送電塔が縦横に並び立つ。
戦後日本の社会や経済、そして私たちの生活を支えてきた風景。
その源を手繰り、追いかけて行けば、日本の何人もの田中角栄や、それを
支えた地元の権力者、有力者、有権者達、都会の財界や官僚達に、そして、
日本各地の補助金や公共事業、そして、過疎地を狙い撃ちした原発誘致と、
推進派と反対派と補償金交付に引き裂かれた村々にたどり着くのだろう。
この日本の戦後の一極集中、中央集権体制、大都市と農村部の上下構造、
権力主義がもたらしたものが、福島原発事故につながっていることは
間違いない。
では、それを一人一人がどう変えていくのか、どうしたいのかということが
本当の問いかけである。
「2011年7月31日の記録/ブログより」
村を街を壊し、車と家電に囲まれて、墓場の隣にマンションを建て、
田圃を潰して、郊外大型店やネオンのお化けをつくり、
何百年の砂浜を潰して、過疎地に原発をつくり、
その前で夏の海水浴をして平然としている国民や、それを子供達の
夏の思い出として何も訝らない親や、若者達を生み出して来た国。
こんな奇怪な、歪んだ社会はもう要らない。
日本とドイツの両親、文化の間に生まれた長男には父親の国、
日本の風土や歴史、暮らしの文化、人々の優しさを知ってほしいと思う。
けれども、この社会に住んでほしいとはどうしても思えない。
人は何かの能率や成果の為、国の経済的発展やモノの為に生きている訳ではない。
若者の生命は、人の命は将来のためだけではなく、何よりも「今」を生きる
ためにあるのだとつくづく思う。
- マハトマ・ガンジー
一人々が強い意識を持って、また互いに手をつなぎ合って、波にのまれ流されないよう行動しましょう。
ご活動、応援しています。
遠く海外から故郷を見守るものとして私も何度か絶望したくなりましたが、一人一人の力を寄り合わせれば山を動かす事もできましょう。
サイト紹介とドンキホーテのくだりツイートしても宜しいでしょうか?