「毎日の暮らし ー 僕らの時代が喪失したもの」

2012年01月13日 | 社会


2011年12月、飯舘村での除染活動


新年も2週間が過ぎようとしている。今年はもっと料理や家族のこと、
「食」や毎日の暮らしにまつわること、身の回りの大切なことから
出発して書きたいと思う。
もともと、このブログを「ほぼ毎日ドイツ」というタイトルで書き始めたのも、
そんな想いに導かれてのことだろう。ところが、去年の3月、福島の
原発事故以降は、脱原発のことやその運動への関わりばかりがテーマと
なってしまった。確かにそれが僕の日常だったのだろう。
日本に行くことも4回、特に秋以降は福島原発事故に関わって福島市や
飯舘村に何度も足を運ぶこととなった。大事な仕事だったとは思う。

けれども、原発のことを自分なりに深く考えていくと、いつも一つの問題、
一つの感覚にぶつかる、たどり着くように思う。

「こうして身の回りのことや、生活、暮らしの中の当たり前のこと、
自らの健康や心、生命に直接関わること・・・。多くの人がそれを
二の次にして日常を送っている・・・。いつからこんなことが当たり前に
なったのだろう?」
「自分や家族、周りの人のために当たり前にていねいに料理を作ること、
いくらかの野菜、果物、穀物を自分で植えたり収穫したりすること・・・。
朝は早起きして深呼吸をして、太陽を見上げて有難いと思うこと。
何故こういう当たり前のことを忘れてしまったのだろう?」
「自分の生命が何百、何千億の人々の一つであること、それが自然の
大きな流れの中にあること
。何故、こういうことが頭では分かっていても、
日常の身体的感覚や行為、所作の中では失われてしまうのだろうか。」

「フクシマ」の原因や帰結には日本の経済・社会・価値の構造や、
その象徴たる原子力村、軍事・経済を中心とした米国モデルの世界的な
浸透・支配など、いろいろなことが考えられる。けれどもこのような、
いわゆる知識・情報に基づく理解・分析が本当に世界を変えていくのだろうか?
近現代の歴史の答えは明らかに否である。

僕らの時代の喪失はもっと大きいものなのだと思う。それは世界の全ての
先進国とその周辺で起きていることだろう。それはもう数世代を超えて、
100年以上続く流れだろう。この流れは戦後、とりわけこの30、40年で
一気に加速したと思う。日本はこの点でも発展途上、後進国から一気に先進国へ、
そして時代の最先端へとたどり着いたのだと思う。

日常をていねいに生きること、毎日の暮らしをだいじにすること。
それがこの時代に僕達が出来る大切なことの一つだと思う。




2011年12月、20km圏内、福島県浪江町の海岸から
(後景は、福島第一原発の事故現場)




2011年12月、同じく福島県浪江町、請戸の港近く。
津波後、そのまま残された家屋の跡。