1月9日(火)10時から信長公記を読む会がありました。出席者は21名でした。
今回から 巻八(5)山中の猿御憐愍の事 に入る。
この話は東山道(いまの中山道)の美濃と近江の境の関ヶ原にある「山中の宿」の道のほとりにいつもいた「山中の猿」と呼ばれる「頑者(かたわもの)」の「乞食(こつじき)」の身の上(先祖がこの宿で常磐御前を殺した因果で代々「頑者」に生まれる)に信長が憐愍、木綿20端を与え、暮らしの世話をするように村人に命じたという話。
この話は天下統一事業に関係がないためか、小瀬甫庵の「信長記」には記述がない。太田牛一は信長の「徳」を顕彰する目的で信長公記に加えたのだ。
また山中の宿で常磐御前を殺害したというのは史実ではなく、信長も愛好した幸若舞の「山中常磐」で語られている説話なのだ。
またこの章から太田牛一の書き方が変わってくる。武田を討ったあと、信長を将軍と見なす空気感が出てきたのだろう。
砂川先生は「差別が当たり前の時代のこと。信長を考えるにあたり重要な逸話だ」と仰る。また幸若舞についての蘊蓄を披露された。
*幸若舞は15世紀の初め頃越前の桃井幸若丸により始まった。
*現在奈良県都祁村上深川および福岡県みやま市瀬高町大江で伝承されている。
*部下に好まれ江戸時代まで能よりも上に見られていたが、明治維新を乗り切れずに没落した。
6月26日信長は上洛したが、摂家、清花ほか畿内隣国諸侍が信長に出仕する。
巻八(6)禁中において親王様御鞠遊ばさるゝの事に入る。
7月3日に誠仁(さねひと)親王主催の正式の蹴鞠が清涼殿のお庭で開催され、信長は見物。蹴鞠のあと天皇から杯を御拝領する。
この蹴鞠には権大納言以下、主立った貴族たちが参加している。
信長公記には信長は天正三年の三月に蹴鞠の見物を所望したとあり、この蹴鞠の目的は「長篠・設楽が原合戦の慰労のため、朝廷の側が(ごまをするため)セットしたのだろう。同じ日に信長の官位を進める話が持ち出された事も一続きのものだ」と先生は仰る。いずれにせよこの蹴鞠は信長と朝廷とのつながりを象徴しているわけだ。
信長は官位を進める話を辞退したが、中国の故事に習い一応固辞しただけの事。この年の11月には権大納言、右近衛大将に任官している。
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