K.テツのひとりごと

行動記録、趣味の話などを書いてゆきます

4月度 信長公記を読む会

2021年04月15日 | 日常のこと

4月6日(火)10時から4月度 信長公記を読む会がありました。先月は所用のため、前半のみ出席、後半は受講できませんでした。今月から新たに(富田林在住の)会員が2名加わったことも有り、出席者は15名と最近の会では一番多くなりました。

新年度ということもあり講師の砂川先生のお話の要点から・・・

*2011年4月からはじめた「信長公記を読む会」、11年目に入った。《私は2011年8月からの参加です》

*先月今月と 【荒木村重の尼崎城「移」動ー検証『信長公記』「荒木村重書状」「立入左京亮入道隆佐記」ー】(地域史研究 尼崎市立歴史博物館紀要 第120号 令和3年2月)、今月配布した論文 【越前長崎称念寺・時衆・明智光秀】(時衆教学年報 第49輯 2021年3月) という最近執筆した2つの論文を配布した。それに加え【因幡鹿野藩主 亀井茲矩(これのり)】が 岩田選書「地域の中世」の中で出版されることになった。《それにしても益々活動的な先生です。鹿野は砂川先生の故郷、砂川家の墓地には先生の遠い親戚で、亀井茲矩と戦い敗れた兵主源六の墓があるそうです》

テキストは巻十一(天正6年)の(6)高倉山西国陣の事〔4月下旬毛利勢が来襲、備前・播磨・美作三国の国境に位置する山中鹿之介居城の上月城を取り囲み、全軍が大亀山に陣を構えた。 これに対し、織田勢からは羽柴秀吉・荒木村重の両人が出撃し、敵にほど近い高倉山に上って対陣したが、救援すべき上月城は高山を下って谷や熊見川を越えた先であり、もはや救う手立てもなくなっていた〕の4月29日の条から。

4月29日、滝川・惟任(明智)・惟住(丹羽)の三将が播州へ出陣した

*レジュメの5月4日付け臨江斎(歌人)宛光秀書状の 尚々書きの光秀が詠んだ歌から 、生田→歌枕→本歌取り→光秀と連歌→越前長崎称念寺、時衆→陣僧→金蒼(刀傷、医術)・・・と博識な先生のお話は止まるところを知りません。約1時間半におよびましたがそれが面白いのです。

5月朔日、続いて中将信忠殿・織田信雄・織田信包・織田信孝・細川藤孝・佐久間信盛の諸将が、尾張・美濃・伊勢三ヶ国の兵を率いて出陣した。

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