近研ブログ

國學院大學近代日本文学研究会のブログです。
会の様子や文学的な話題をお届けします。

芥川龍之介「蜜柑」

2012-05-24 01:14:16 | Weblog
こんばんは、2年の今井です。

5月21日に行った芥川龍之介「蜜柑」例会について記載させていただきます。
発表者は神戸さん、司会は今井でした。


今回の研究は、作者を含めない1つの作品として「蜜柑」を捉え、なぜ「私」は「僅に」しか退屈な人生を忘れられなかったのかを解き明かしていくという方針で進められました。
以下本文分析を要約させていただきます。

「珍しく私の外に一人も乗客はゐな」い非日常の場で、電車という卑俗から切り離された簡易的な密室空間で作品は展開していく。しかし小娘という乱入者が現れ、「私」は過剰なまでの嫌悪感を示す。小娘(=卑俗な現実)のイメージがここで確定される。
トンネル内で夕刊を照らす光が暮色から人工の電燈の光に変化すること。また「汽車の走ってゐた方向が逆になったやうな錯覚」は、一瞬トンネルという人工物に引き戻されているということであり、これらから卑俗な現実へと「私」が引き戻されているといえる。
それから「私」は現実からの逃避のために眠るという手段をとるが、小娘が電車の窓を開けたことで電車という疑似的な密室空間が消滅(現実との融解)することへの脅威を感じ、目を覚ます。窓を開けたことで「私」を襲う「どす黒い空気」は現実に苦しめられる「私」の暗喩ではないか。
日が暮色から暖かな日の色へ変化し「不可解な、下等な、退屈な人生」が暖かな日の色に染まるが、また「私」の現実は暮色に染まってしまう。しかしそこには日常の中の非日常として「蜜柑色」が登場し、現実は絵画のような芸術的美に変換される。
この光景や、自分で作り出しさも現実のよう認識している小娘の兄弟愛の物語に感動した「私」は小娘の変化を期待し「別人を見るやうに」見るが、小娘は変わらないまま存在している。それに言葉を失った「私」は「……………………」で表現されている。このような変わらず卑俗な現実のようである少女がもたらした「蜜柑色」が、「私」のなかで特異なものとしてさらに輝くことになる。
「暖かな日の色」は暮色へと変化し私の日常に根付くことはない。ここから卑俗な現実が復活したといえ、同じように「私」のなかで暖かな日常は持続しない。だからこそ蜜柑は非日常的であり、感動を与える特化した存在であった。
まとめは、小娘が投げた蜜柑は「一瞬日常の色として輝いた。だが直ぐさま「私」は蜜柑に非日常性を伴わせ、蜜柑は「鮮やかな蜜柑色」へと変化し「私」の人生を「僅に」照らすばかりである」とされました。

いただいたご意見やご指摘は「……………………」「この時」「僅に」の部分に集中しました。いくつか挙げさせていただきます。「三点リーダーの連続は単なる沈黙か、失望にもとれる」「三点リーダーは「或る得体の知れない朗らかな気持ち」を解釈しようとしているのではないか」「「僅に」は「私」の大変辛い現実と、蜜柑のエピソードのありがたみを強調している」「「私」が小娘に冷酷なのは作品の終盤を際立たせるために人工的に造形されているから」「語る「私」は感動を1度経験した以上また経験するのではないか」「三点リーダー以下がついている理由を考えるべき。マイナスではなくプラスで閉じているから、語る現在の「私」の認識も変化した状態のままだといえる」。


私の論点の飲み込みや整理が遅く、参加者の方々に大変もどかしい思いをさせてしまったと思います。申し訳ありません。また、多大なご協力をいただきありがとうございました。
まず作品をきちんと読み込んでくるところに立ち返りたいと思います。


次週は藤野先輩の横光利一「頭ならびに腹」の研究発表です。
では、失礼いたします。

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