1週間の仕事モードは終わりだ。
0:30ラーメンを食いつつ、「mo move」を聴く。
来週、フジロックに行く目的はYMOのみを聴くためなのだが。
90年代以降のテクノの変遷の中で、敬意を抱く1つのバンドがアンダーワールド。
2002年の「ア・ハンドレッド・デイズ・オフ」の1曲目「mo move」には、革命的意志の音を視た。
今週、後半は灼熱の「異常」以外の何者でも無い世界から正常化し、若干の安堵を覚えた。
今夜も涼しく、ビールをぐびぐび飲みつつ音楽を聴ける。
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80年代の頭における東京という異質都市。
突出してとどまるところの無い・まれなる世界がそこには存在していた。
今の2011年、ボケ老人=石原慎太郎が「浄化」なる馬鹿げた政策を展開するアホどもの東京とは違う。
「一緒にされたらたまったものじゃない」
私の本心・本音はそういうこと。
YMOを産み、様々なフォロワーを産んでいった、過激な都市は今もうこの世には無い。
坂本龍一が、多くのアンダーグラウンドなインディーズの場面にふらりと現れては、誰も頼みもしないのに仕事をして帰っていった。
それは、ブライアン・イーノの明白な影響。
イーノが、ニューヨークでDNA他、異質な不気味な、カテゴライズ出来ない音楽を「発見」して狂喜の末、「NO NEW YORK」を出したように。
中学3年生、15歳の頃聴いたアート・リンゼイ率いるDNAの「5時30分」。
後に、坂本龍一がコンビを組むに至るとは当時は思わなかったが、坂本龍一はこういうリスキーなものに接近したかったことも今無意識を探れば明白な事実だった。
YMOは仮のバイトで、当時の坂本龍一の本質的な本筋は「B-2UNIT」に全部描かれている。
そういう記録と振動は、30年経っても、ちゃんと音盤として永遠なる記録として残っている。
彼の持つ過激さは、そこに「在る」。
当時、ロンドンで、ニューヨークで、カベのラクガキに「イーノに続け!」とスプレーで書かれたごとく、坂本龍一はそう振る舞いたかったのだ。
フリクション、EP-4、ヒュー、タコ、パンゴ・・・・そういったアンダーグラウンドとの接触を自ら進んで行った坂本龍一。
坂本龍一「Participation Mystique」(「Bー2UNIT」より)
80年代、東京がはらんでいた狂気とエネルギー。
このフリクションの映像と語り、そして、後は無い、そんな世界で垂直時空の瞬間に生きた人の顔つき。
ギタリスト=ツネマツ・マサトシの顔つきは、単なるパンクの影響で片付けられる代物では無い。
ニューヨークでもない。
ロンドンでもない。
その2つとの繋がりとは無縁。
東京そのものの顔つきが、ツネマツ・マサトシの表情だったとも言える。
誰が分かろうが分かるまいが、自分にはどうでもいい。
勝手にすればいい。
AKB48がどうのこうの・・・。
たかが東大に落ちただけでグレて、資本主義のバブルにまみれる事を選択した秋元康程度のクズ(=山師)が、おニャン子クラブのセルフ二番煎じを行う。
そのカネもうけの術中にはまる連中が渦巻いた2011年の東京には、ツバを吐きかける以外に何も言う事は無い。
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フリクションのギタリスト=ツネマツ・マサトシのユニット、エディプス(E.D.P.S)の1983年の作品「ブルー・スフィンクス」の曲を聴いたのは、渋谷陽一のサウンドストリートだった。
「ブルー・スフィンクス」の中でも、自分が好んで聴いたのは、【表層】ではない内包されたエネルギーを持つ「デス・コンポジション」だった。
【きたない汚染だけの】エネルギーを愛想良く振りまくのは、東京電力が放つ放射能くらいの2011年の日本に捧げる。
ひょっとしたら、この愛想良く、大判振る舞いで天から振りまいている人は、イエス・キリストかもしれない。