こころとからだがかたちんば

YMOエイジに愛を込めて。

2011年7月22日 金曜日 夜 闇夜に溶ける終末

2011-07-23 00:22:22 | 音楽帳
23:20帰宅
1週間の仕事モードは終わりだ。

0:30ラーメンを食いつつ、「mo move」を聴く。



来週、フジロックに行く目的はYMOのみを聴くためなのだが。
90年代以降のテクノの変遷の中で、敬意を抱く1つのバンドがアンダーワールド。
2002年の「ア・ハンドレッド・デイズ・オフ」の1曲目「mo move」には、革命的意志の音を視た。



今週、後半は灼熱の「異常」以外の何者でも無い世界から正常化し、若干の安堵を覚えた。
今夜も涼しく、ビールをぐびぐび飲みつつ音楽を聴ける。

***

80年代の頭における東京という異質都市。
突出してとどまるところの無い・まれなる世界がそこには存在していた。
今の2011年、ボケ老人=石原慎太郎が「浄化」なる馬鹿げた政策を展開するアホどもの東京とは違う。
「一緒にされたらたまったものじゃない」
私の本心・本音はそういうこと。

YMOを産み、様々なフォロワーを産んでいった、過激な都市は今もうこの世には無い。

坂本龍一が、多くのアンダーグラウンドなインディーズの場面にふらりと現れては、誰も頼みもしないのに仕事をして帰っていった。

それは、ブライアン・イーノの明白な影響。
イーノが、ニューヨークでDNA他、異質な不気味な、カテゴライズ出来ない音楽を「発見」して狂喜の末、「NO NEW YORK」を出したように。



中学3年生、15歳の頃聴いたアート・リンゼイ率いるDNAの「5時30分」。
後に、坂本龍一がコンビを組むに至るとは当時は思わなかったが、坂本龍一はこういうリスキーなものに接近したかったことも今無意識を探れば明白な事実だった。
YMOは仮のバイトで、当時の坂本龍一の本質的な本筋は「B-2UNIT」に全部描かれている。
そういう記録と振動は、30年経っても、ちゃんと音盤として永遠なる記録として残っている。
彼の持つ過激さは、そこに「在る」。



当時、ロンドンで、ニューヨークで、カベのラクガキに「イーノに続け!」とスプレーで書かれたごとく、坂本龍一はそう振る舞いたかったのだ。

フリクション、EP-4、ヒュー、タコ、パンゴ・・・・そういったアンダーグラウンドとの接触を自ら進んで行った坂本龍一。

坂本龍一「Participation Mystique」(「Bー2UNIT」より)


80年代、東京がはらんでいた狂気とエネルギー。
このフリクションの映像と語り、そして、後は無い、そんな世界で垂直時空の瞬間に生きた人の顔つき。
ギタリスト=ツネマツ・マサトシの顔つきは、単なるパンクの影響で片付けられる代物では無い。
ニューヨークでもない。
ロンドンでもない。
その2つとの繋がりとは無縁。

東京そのものの顔つきが、ツネマツ・マサトシの表情だったとも言える。





誰が分かろうが分かるまいが、自分にはどうでもいい。
勝手にすればいい。
AKB48がどうのこうの・・・。
たかが東大に落ちただけでグレて、資本主義のバブルにまみれる事を選択した秋元康程度のクズ(=山師)が、おニャン子クラブのセルフ二番煎じを行う。
そのカネもうけの術中にはまる連中が渦巻いた2011年の東京には、ツバを吐きかける以外に何も言う事は無い。

***

フリクションのギタリスト=ツネマツ・マサトシのユニット、エディプス(E.D.P.S)の1983年の作品「ブルー・スフィンクス」の曲を聴いたのは、渋谷陽一のサウンドストリートだった。
「ブルー・スフィンクス」の中でも、自分が好んで聴いたのは、【表層】ではない内包されたエネルギーを持つ「デス・コンポジション」だった。



【きたない汚染だけの】エネルギーを愛想良く振りまくのは、東京電力が放つ放射能くらいの2011年の日本に捧げる。
ひょっとしたら、この愛想良く、大判振る舞いで天から振りまいている人は、イエス・キリストかもしれない。
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2011年7月22日 金曜日 夏のフェイバリッツ・23 Funkapolitan 「As The Time Goes By」'82.6

2011-07-22 08:00:24 | 音楽帳
すっかり1982年のファンカラティーナから離れてしまったが、6月に日本発売されてレコードレビューでは知っていたファンカポリンタン。
そのヒットとなった曲「アズ・ザ・タイム・ゴーズ・バイ」を初めて聴き、ボクの「NEW WAVE」カセットシリーズに収めたのは、やはりFM東京の「貿易風の彼方から」という番組。



当時の10~20代は燃えるように良質な音楽を量産していたが、このファンカポリタンは8人組だが、平均年齢はなんと18歳。

クラッシュのニューヨーク公演の前座を務め、脚光を浴び、キッド・クレオール&ザ・ココナッツの総統オーガスト・ダーネルが彼らをプロデュースするにいたる。

オーガスト・ダーネルと言えば、当時、今野雄二が絶賛していたっけ。
あの悪しき「音楽評論家」も、そういえば自殺してしまったっけ。
彼の書く物には近づきたくないという拒否反応は、当時も今も変わらないが、このファンカポリタンは若いゆえのつたなさはあったが、さすがオーガスト・ダーネルがプロデュースしてか、ファンキーでノリが良い。





当時、ファンカポリタンもファンカラティーナの一派だったが、この「へたうま」さは、ビックリハウス・宝島の日本のサブカルチャー世界にはまる自分ともマッチしていた。

この「アズ・ザ・タイム・ゴーズ・バイ」は大好きで、日本発売の7インチEPレコードと、輸入盤の12インチ・シングル両方もっている。

南洋の風と海の青さを思いながら、毎日この曲を聴いていた1982年を思い出す。

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2011年7月21日 木曜日 夏のフェイバリッツ・22 ゲルニカ 「カフェ・ド・サヰコ」'82.6

2011-07-21 12:19:39 | 音楽帳
YENレーベル発足と共に、細野さん・幸宏、それぞれのソロ。
そして、プラスチックス解散後、チカ&トシと分かれて革新的な音楽を始めた天才=立花ハジメのソロ、そして、このゲルニカのファースト・アルバムが出た。

1981年中学3年生の頃から、それまで天と地の距離のあった6つ上の兄と、受験勉強を教えてもらうかたわらで音楽を通じて、距離が縮まっていった。
レット・ツェッペリン、イエス、キング・クリムソン命の兄と、YMO命の自分。



1981年の「BGM」「テクノデリック」の2枚のLPレコードは、当時新譜は定価でしか買えなかった中、兄が安く新譜が買えるという店で、買ってきてもらった。
お互いの音楽を交換しつつ、ボクの音楽世界も広がった。
イーノもボウイもハロルド・バッドもララージもジョン・ハッセルも・・・1981年に兄が教えてくれたレコードとテープからだった。
一方、自分は兄にYMO周辺の音楽と最新のニュー・ウェイヴを教えて上げた。

YENレーベル発足時に、自分は、どのアルバムをLPレコードで買うかなあ。。。
と迷っていた。
兄は、「ハジメちゃんのLPレコードにしようよお」と強く推したが、「んんん・・」と迷った挙句に選んだのがゲルニカだった。
兄は、ボクのおこづかいで買ってきたLPレコード「改造への躍動」にはまったく興味がなかった。



ボク自身は、細野さん・幸宏・ハジメちゃんのソロはエア・チェックもしていて、十分に全曲聴ける状況にあったから、このナゾのバンド「ゲルニカ」に惹かれた。
また、細野さんが入れ込んで創ったといううわさも聞いていたので、それが興味を加速させた。

てなわけで「改造への躍動」を聴いたが、「ああ、失敗だあ!」とつい悔やんだ記憶があった。
ゲルニカの試みは、昭和初期のモボ・モガが聴くような、当時の流行歌に外国の音楽が微妙にまぶされた、いにしえの時代をシンセサイザーでレトロちっくに再現するというコンセプトだったが、一聴して実に病的で、それは、YMOの1981年の「BGM」「テクノデリック」を通過した「ほとんど、ビョーキ」を体感したボクにも超えられないようなビョーキだった。

短い曲がたくさん入っていたが、途中でへこたれて針を止めてしまうほど、変な世界に入りそうでやめた。

そーゆーなかだが、1曲2曲であれば、そーゆー「毒」も良し。



ということで、今も当時も好きな1曲を挙げるとしたら、A面2曲目に入っている「カフェ・ド・サヰコ」。
いろんな過去の文化が入り混じり合うレトロな匂いを放ちつつも、戸川純のヴォーカルと上野耕路のシンセサイザーは退廃的で「未来」「アンドロイド」といった言葉すら浮かぶ不思議な良く出来た曲だと思う。



そういえば、砂原良徳さんのミックスCDにも、この「カフェ・ド・サヰコ」のフレーズが出てきたなあ。

「夏」というイメージとかけ離れているように思われるだろうが、自分が聴いたのが夏だったので、無意識下で、どうしても結びついてしまう。

このときの戸川純が21歳だったというのもなかなかすごい。
日本もロンドンも10~20代の才能が燃えるように開花していた1982年だった。

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2011年7月20日 水曜日 夏のフェイバリッツ・21 ムーンライダーズ 「さよならは夜明けの夢に」'77

2011-07-20 22:45:39 | 音楽帳
昨年夏の「ワールド・ハピネス2010」で十代の連中に混じって炎天下の下、音楽を聴いていた。

ボクは、トリのYMOを聴くために、余力を残すために、興味の無いバンドの時は、立って大騒ぎする十代の足の横で、草むらの中で眠っていた。
ちょうど日よけになって良かった。

たいていボクが立って聴く音楽の時には、十代は座っておしゃべりをしていて。。。
そういうまったく間逆のパターン。

そんな中の1つがムーンライダーズだった。

少々雨がパラついた後に、雲がすごい勢いで、風と共に動く空の下で聴いた1曲目のインプロビゼーションの「くれない埠頭」。
この時空を記憶しておきたいと立って聴いていた。

***



昨日に続いてしまうが、ムーンライダーズ。
彼らの曲の中でも、特に好きな名作と思う「さよならは夜明けの夢に」。

1977年の「イスタンブール・マンボ」より。


こういう曲を聴くとつい「ムーンライダーズは、東京一、東京らしいバンド」と言いたくなってしまう(YMOというモンスターは別格として)。
しかし、あの日「くれない埠頭」を、ちゃんと聴いてくれなかった十代と自分との溝は実に深いと思った。
それは、単に自分が80年代の幻影に未だに取り付かれていると言ってしまえば、それまでだが。。。。
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2011年7月19日 火曜日 『緩急』

2011-07-19 23:17:16 | 雑記帳


3連休したお陰で、休み明け今日は(予想通りといえばそれまでだが)灼熱の間の注文の大波。
ああだこうだするうち22:30の電車の帰り道。
現実は甘くは無い。

しかし、だからこそ休みは休むのじゃ。
『ぼのぼの』のスナドリネコさんの言うように。
「先の悩み事を憂えてもムダ。
そんなのは、その時になって悩めば良い。」

休みに何かをせ『ねば』ならない…。
そんな呪縛を背負った人が多い。
休みさえ、どこかに行って・何かした仕事をしないと気が済まない日本人。

そう言いながら、私とて、そういう呪縛にはまることは多い。
気が付かない間に、いつの間にか罠に入っていることが多々ある。

だが、単純に「休みは休むべし」。
休むとは、言葉通り休むこと。
焦る必要もない。
好き勝手にすること。

***

3連休は、ずいぶんと休んだ。

先週金曜晩は、明かりを消し、映画『カイロ・紫のバラ』よろしく、高橋幸宏のオールナイトニッポンの1983年10月以降放送のカセット(CDに起こして焼いたもの)を聴いて、幸宏・景山民夫さん・スーパーエキセントリックシアターの愛する面々の織り成す心地好い世界に自分も中に入り込み、夜中3時まで酒を飲む。

その放送をかけながら、疲労からたんまり寝る。
寝る寝る寝る寝る。

起きると土曜日夕方の6時。
ちらっと外を見れば、まだ灼熱。
こりゃ出たらアカン。

熱が引いた夜になってからスーパーに更にビールを買い出し。
土曜の夜も幸宏のオールナイトニッポンを繰り返し聴き、酒を飲む。
飲む飲む飲む飲む。

★格言コーナー
『トラクタ抜きの川作業』(元ネタ:とらぬタヌキの皮算用)(八木橋さん)

『てーシャツ着て、デスコでへーバー』(元ネタなし)(八木橋さん)

『親孝行したいときに親は梨もぎ』(元ネタ:親孝行したいときに親は無し)(小倉さん)


★暗いハガキのコーナー
『わたし、今、鼻の穴ほじってます。』(大久保林清)

『うちのテレビ、絵が出ません。』(今村明美さん)

『私は、家族が居ないとき、ウンコが出るビデオを逆再生で見るんです。
どんどん入って行くんですよ。
ウンコが。』(大久保林清)

『うちの村はウミウシの化石が発見されて有名になりました。
このお陰で、今年の村祭りには、あの大スター細川たかしさんが来て村じゅうが湧きました。
しかし、これから村には、寒くて長くて暗い冬がやって来ます。』(小倉さん)

日曜もだらだらとごろ寝。
夕方4時に外出、駅前の「一哲」で手作り水ようかんを買い、実家の鬼畜父の日の集いへ。
ひたすら酒を飲み、酔っ払って夜10時に帰宅。

ごろごろとまた幸宏のオールナイトニッポンを更に聴く。
聴く聴く聴く聴く。

月曜祝日は、珍しく朝10時に起きる。
ひたすら音楽を聴き、YOUTUBEを聴き、音楽三昧。
そして、文をしたためる。
思い付くまま。
自分の興味心の動きが、仕事的要素より、密度を上回り・勝つ。

エレクトロニックポップ、ファンク、ダブ、スーパーエキセントリックシアターの80年代の番組、EP―4、コールドウェイヴ、ギターサウンド。。。。

日が暮れて、ぬる湯に浸かり、あわあわで汗を落としさっぱり。

夜、切り身魚とご飯。
冷えたビールを飲み、ゆらりゆらり。

ニュースをネットで見ると、毎年恒例の水の事故がどうしたこうした。

今週は、これから台風のお陰で夏の雨。
やっと温度が下がってくれる。
こんなキチガイのような温度の夏には、外に出ないで好きな事をするに限る。

風呂上がり外に出ると、ネコのメロンも夕涼み。
頭をナデナデ。

ひたすら休みつつ、刻がゆっくり過ぎて行くのを過ごす。

今週は4日働けば済むので、カラダの負担も楽なら良いのだが。。。。。

***

と思っていたら、そこからおかしくなる。

余りに暑い夜で睡眠薬飲んでも眠れず。
さらに手足のかゆみが収まらず。

寝たのか?
寝ていないのか?
その境目をうろちょろしながら、変な夢。
ドラマのように多様な人物が出てくるが、とにかく話が一向に片付かない夢。
さらに答えが出ぬまま進むじれったい「Limbo」の状態の夢が朝まで続き、けたたましいアラーム音で現実に戻された。

休みの心境から180度逆転。
ふらふらになりつつ起きる。

わけもなく、気持ちが沈む(-_-#)。
まぶたが重く、機嫌が悪い(-_-#)。
希望を夜中に奪い取られた(-_-#)。

抜け殻の朝。

7:50過ぎ駅に向かう。
うねる灰色の空。
途中で大粒のスコールが降り出す。

鬱の電車の中では、安部公房の文庫本が支えになった。

そして仕事場に入ったら最後、本物の現実に戻った。。。

***

とは言え、仕事場を出たら、夜の余暇を楽しむこと。
ただし、明日に影響しない程度に。
自分に言い聞かせる。
明日は明日の風が吹くさ。
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2011年7月19日 火曜日 夏のフェイバリッツ・20 ムーンライダーズ 「バック・シート」'79

2011-07-19 08:01:49 | 音楽帳
自分は、YMOを知ることによって、次第に周辺の音楽を開拓してきた。
それまでは、アメリカのチャートを受身で聴くことから脱して。

そういう中で、ムーンライダーズに出会う。

かつて1994年の「ソリトンSIDE-B」にゲストで出た幸宏。
そこにビートニクスも含め長い交流の鈴木慶一さんがゲストに。

ある逸話を。

YMOと東京が世界の中心だった真っ只中、場所はとあるレストランかカフェで。
隣り合わせだったのを知ってか知らずか?
教授=坂本龍一が「最近、あのムーンライダーズが、シンセサイザーを買って、テクノをやろうとしているんだってさ。ははははは(大爆笑)。」

隣で聴いていた鈴木慶一。

***

自分は、「カメラ=万年筆」からさかのぼるようにムーンライダーズを聴いた。
そこで分かる感覚は「同じ東京生まれにしか、このぼんやりした、もっさりした感触」は分からないだろうというもの。

1984年くらいに、センチメンタル・シティ・ロマンスというバンドが解散して以降、日本ではその時点で最古のバンドとなったムーンライダーズ。

ロキシー・ミュージックが追い求めた究極の状態で「AVALON」を創り、「これ以上のものは無い」と解散したのと、ムーンライダーズは相反する。

彼らは、いつも何か新しいものを創ろうと試行錯誤しながらも、50点や、時にうまくいったときには80点を打つことはあっても、決して100点のアルバムを創らない。

なにかそういうあり方自体が、東京的であり、ムーンライダーズたるゆえんである。
ボクはそう想っている。

彼らの2枚組CDのタイトルに「ザ・ワースト・オブ・ムーンライダーズ」というタイトルを持ってくる感覚こそが、実に彼ららしい。

***

好きな曲はいろいろあるが、今日は「モダーン・ミュージック」という1979年のアルバムに入っている「バックシート」をかける。



この曲は、かしぶち哲郎さんの作品。
詩の憂鬱感が、夏の切なさとあいまって、ボクはよく夏にこの曲を聴く。
詩は、恋人同士の心中を想起させる。



車を走らせる中、何気ない風景が「見慣れたしあわせ」に映る。。。。というくだりに小学生時代の自分の感覚が重なる。
毎日、夫婦喧嘩がやまなかった中「なぜ、うちだけは、普通の家族のように過ごせないんだろうか」というぼんやりと見える世間と隔離された地獄家族がダブる。
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2011年7月18日 月曜日 夏のフェイバリッツ・19 Duran Duran 「Save A Prayer」'82.6

2011-07-17 13:01:18 | 音楽帳


1981年。YMOとロンドンを結ぶ線は「ニュー・ロマンティクス」として花開いた。
ミッジ・ユーロを核としたウルトラヴォックス、そして、彼らとマガジンのメンバーがバックアップというか別名で活動したヴィサージ、そして、スパンダー・バレエ、デュラン・デュラン。。。。

ニュー・ウェイヴの命題は「常、より違う何かへ」と動く(Move)こと。
ある場所で停止したら、それは腐ることと同一。

1982年、ニュー・ロマンティクスのそれぞれは、より新しい何かを求めて模索していた。
みんな。

そんな中、デュラン・デュランのセカンド・アルバム「リオ」を6月に聴いて感動を覚えた。
ニュー・ロマンティクスの面々そのものがデカダンスでロマンティストで(良い意味で)生意気。
非常に「ナンパ」な空気が漂っていたが、ボクはこの「リオ」を聴いて、ナンパなだけではない彼らの躍進・成長を喜んだ。

近時「ヴィジュアル系」という「意味不明」用語があるが、音楽は音楽で語るべきである。
いくら化粧しようが、どう表面をつくろっても、音楽を隠すことは出来ない。

勘違いした人々は、化粧や見た目で音楽を誤魔化せると思っている。

そういう人々とニュー・ロマンティクスの面々の違いは明らか。
音楽の中身がカラッポなのと、見た目だけでは無い音楽を創る人との違い。

アルバム「リオ」は、それまで創りだめた曲を捨てて、新しく創った曲で出来た、彼ら自身にとっても自信作だった。
ボクは、その渡されたアルバムをヘッドフォンでキャッチして、興奮しながら聴いた。

本当にポップでメロディアス。
イギリスのチャートで火が付いたこのアルバムは、この後、海を渡って数ヵ月後アメリカとMTVとをつないで「ハングリー・ライク・ザ・ウルフ」のヒットになる。

全曲メロディアスで好きなアルバムだが、夏の1曲を選ぶなら「Save A Prayer」。
海とナンパと一夜限りの情事が歌われていて、童貞硬派の自分には憧れでしかなかったが、何か夏という季節の持つ短い花火のような刹那がこの曲には上手に表現されているように思う。



PS:ロンドンで会ったデュラン・デュランの面々と幸宏。
「ボクらの兄貴」と慕って出会った師と弟子の姿。
サディスティック・ミカ・バンドがロンドン公演を行った姿をテレビ越しで彼らは見ていて、それも彼らが14歳の頃。
「テレビ画面に向かって、ポラロイド写真を撮り、それを今も大事に飾っているよ」とYMOと3人のソロそれぞれを「好きだよ」と公言してはばからなかったデュラン・デュラン。
この曲のサビで奏でられる揺れるシンセサイザーの音調は、明らかにYMOの日本人ならではのリフの「テクノポリス」や「ライディーン」の影響が聴いてわかる。
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2011年7月16日 土曜日 終わりなき旅 ~7月前半~

2011-07-16 21:08:28 | 写真日和

1日 金曜日

順天堂で一日検査の中、空いた時間にアイスコーヒーを飲みに行くと、たなばたの短冊のかかった竹。




さまざまな祈りが肉筆で書かれ、それを見るうちにこみ上げる気持ち。


隅田川をゆうゆうと流れる船。


神保町の和菓子屋さん。


ジャニス2に寄る。


路地。


少年の頃から30年近く歩く坂を振り向き一枚。

2日 土曜日

むらさきの花。


弁財天碑。

3日 日曜日

ミニひまわりとでもいうようなかわいい花。


夏の夕暮れの空。

4日 月曜日

45歳の誕生日。
ささやかに、夏の暑さを超えるために、うな丼を食べる。
支えてくれた人々に感謝。

5日 火曜日

朝の半熟目玉焼き。


朝の夏空。


つくばから都内にUターンする道でスコールに会う。


南千住では、すでにスコールは上がっていた。


夕飯。海老とピーマンとシイタケの煮た物。

6日 水曜日

たなばたの飾り。

7日 木曜日

たなばたの夜に、亡き相棒2人を想う。
まみちゃん・正ちゃん。
15年前、生後3ヵ月半の手に負えない頃の2人の肖像。


還暦の細野さんの好きなショットを画撮。

8日 金曜日

1週間の仕事を終えて、橋を渡る。


仕事を終えたぼくたちは。

9日 土曜日

金麦とやきそば。


ゴミ屋敷から、1984年夏のFMステーションを引っ張り出す。
定価200円!

10日 日曜日

外は炎天下。


メロン。


鮮やかな花が咲く。


夕暮れのシマ。


夜、テクノドンのライブを見る。

11日 月曜日

「業」


小出裕章先生。

12日 火曜日

つくばに向かう車窓から、夏雲。


都内Uターン時のスカイツリー。


夜の居酒屋。

13日 水曜日

色川武大さんのYOUTUBE。

14日 木曜日

静かな朝の花。


早朝、眠れずに4時起き、仕事場に向かう。


夕暮れの秋葉原。


「おかずガールズ2011」とはよく言ったもの。
実にケバイ。


和泉橋と月。


みなも。


夏の広告。

15日 金曜日

帰り道の読書。


浅草。
東武線のエグい急カーブした線路。


訃報と隣り合わせのラジオ体操案内。


1週間を終えたよろこびのビールとゴンチチの組み合わせは格別。
つまみはいらない。
「南方郵便船」のおおらかさ。

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2011年7月16日 土曜日 夏のフェイバリッツ・18 Culture Club 「I'll Tumble 4 Ya」'82.11

2011-07-16 08:02:45 | 音楽帳
私が、カルチャークラブに初めて出会ったのは「視覚」では無く、「聴覚」でだった。
また、重苦しい個室で地下生活者のような机に1つの灯りをともす1982年の漆黒の夜。
静かな部屋で、ヘッドフォンでチューニングし、録音し続けた「クロスオーヴァー・イレヴン」から「Do You Really Want To Hurt Me」という曲が流れて、トリコになった。
その日の放送は、マイク・オールドフィールド、シンプルマインズがかかり、忘れがたき夜だった。



私は、1982年4月FM東京の夕方16:00に始まった「貿易風の彼方から」という番組を毎週月曜日楽しみにしていた。
ここでかかった南洋の音楽にトリコになる中、南洋の音楽とニューウェイブがミックスされた「ファンカラティーナ」(ファンク+ラテン)というムーヴメントがロンドンで起こり、その系列の1つとしてカルチャークラブ初期(1枚目のアルバムに入っている曲)の音があった。

実は、カルチャークラブのヴィジュアルを目の当たりにしたのは、音楽を聴いた後でのことだった。
そこで、同じ男性(ボーイ・ジョージ)に恋をしてしまった。



ドラムのジョン・モスくんと「良い仲」と聞いて嫉妬したっけ。

カルチャークラブ1枚目「Kissing to Be Clever」に入っている曲の中から、ファンカラティーナ的なポップな1曲を選ぶとしたら「I'll Tumble 4 Ya」でしょうか・・・。



当時、批判的な視点で彼らの音楽を語る人が居たが、ファンだから言うのではなくして、ボーイ・ジョージという「ポップ・スター」は、単なるアダ花ではなくて、ホモセクシャルという侮蔑的差別と偏見を超えて、偉大なる存在だった。

今でも、ボクはそう信じている。
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2011年7月15日 金曜日 夏のフェイバリッツ・17 鈴木さえ子「夏休みが待ち遠しい」'85.7

2011-07-15 07:40:35 | 音楽帳
今度は珍しく1985年にワープする。



この1985年の4月には、素浪人生活が始まっていたので、7月21日にさえ子ちゃんの3枚目のソロアルバム「緑の法則」が出た頃には、自分はかなり置かれた世界の中での状況は良くなかったはずである。

とはいえ、FM雑誌「FMステーション」で、可愛い姿をした彼女の写真を当時眺めていたし、FMラジオでも聴いた記憶はある。

また、1984年4月から1985年3月までの1年だけだったが、文化放送の土曜夜(22:00~22:30?)放送の、糸井重里と共に隆盛を極めた西武がスポンサーの「サウンド・キッチン」で彼女の声を聴くのを楽しみにし、癒されていた。
そのとき録音したテープを編集したカセットは、今も現存する。
時折、当時夫婦だった鈴木慶一がふらりと横に居たりする場面もあった。

***



どうも、自分はこの人には弱くて、一時期、正直、恋をしていた。
それは、音楽での舌足らずな可愛らしい声としなやかな音楽とちょっとお姉さんに憧れる感じが相まっていた。
自分は、男だけの世界で生きてきた、みうらじゅんせんせいいわくのDT(童貞)生活の青春ノイローゼだったので、こういうお姉さん的な存在には弱かった。

3枚目の「緑の法則」の1曲目に「夏休みが待ち遠しい」という曲がある。
サンプリングに自転車の音や口笛や指パッチンの音、そういうものを入れながら、まさに女性ならではのさわやかな「夏休みが待ち遠しい」が奏でられている。

自分には、このようなしなやかな女性の生き方、そして、楽しみ方は出来ないが。
夏になると、この「夏休みが待ち遠しい」を聴く。
取れるかどうかもわからない2011年の夏休みの中、「あの頃」のように無条件で夏休みが取れた幸福なときへトリップして。

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