YENレーベル発足と共に、細野さん・幸宏、それぞれのソロ。
そして、プラスチックス解散後、チカ&トシと分かれて革新的な音楽を始めた天才=立花ハジメのソロ、そして、このゲルニカのファースト・アルバムが出た。
1981年中学3年生の頃から、それまで天と地の距離のあった6つ上の兄と、受験勉強を教えてもらうかたわらで音楽を通じて、距離が縮まっていった。
レット・ツェッペリン、イエス、キング・クリムソン命の兄と、YMO命の自分。
1981年の「BGM」「テクノデリック」の2枚のLPレコードは、当時新譜は定価でしか買えなかった中、兄が安く新譜が買えるという店で、買ってきてもらった。
お互いの音楽を交換しつつ、ボクの音楽世界も広がった。
イーノもボウイもハロルド・バッドもララージもジョン・ハッセルも・・・1981年に兄が教えてくれたレコードとテープからだった。
一方、自分は兄にYMO周辺の音楽と最新のニュー・ウェイヴを教えて上げた。
YENレーベル発足時に、自分は、どのアルバムをLPレコードで買うかなあ。。。
と迷っていた。
兄は、「ハジメちゃんのLPレコードにしようよお」と強く推したが、「んんん・・」と迷った挙句に選んだのがゲルニカだった。
兄は、ボクのおこづかいで買ってきたLPレコード「改造への躍動」にはまったく興味がなかった。
ボク自身は、細野さん・幸宏・ハジメちゃんのソロはエア・チェックもしていて、十分に全曲聴ける状況にあったから、このナゾのバンド「ゲルニカ」に惹かれた。
また、細野さんが入れ込んで創ったといううわさも聞いていたので、それが興味を加速させた。
てなわけで「改造への躍動」を聴いたが、「ああ、失敗だあ!」とつい悔やんだ記憶があった。
ゲルニカの試みは、昭和初期のモボ・モガが聴くような、当時の流行歌に外国の音楽が微妙にまぶされた、いにしえの時代をシンセサイザーでレトロちっくに再現するというコンセプトだったが、一聴して実に病的で、それは、YMOの1981年の「BGM」「テクノデリック」を通過した「ほとんど、ビョーキ」を体感したボクにも超えられないようなビョーキだった。
短い曲がたくさん入っていたが、途中でへこたれて針を止めてしまうほど、変な世界に入りそうでやめた。
そーゆーなかだが、1曲2曲であれば、そーゆー「毒」も良し。
ということで、今も当時も好きな1曲を挙げるとしたら、A面2曲目に入っている「カフェ・ド・サヰコ」。
いろんな過去の文化が入り混じり合うレトロな匂いを放ちつつも、戸川純のヴォーカルと上野耕路のシンセサイザーは退廃的で「未来」「アンドロイド」といった言葉すら浮かぶ不思議な良く出来た曲だと思う。
そういえば、砂原良徳さんのミックスCDにも、この「カフェ・ド・サヰコ」のフレーズが出てきたなあ。
「夏」というイメージとかけ離れているように思われるだろうが、自分が聴いたのが夏だったので、無意識下で、どうしても結びついてしまう。
このときの戸川純が21歳だったというのもなかなかすごい。
日本もロンドンも10~20代の才能が燃えるように開花していた1982年だった。
そして、プラスチックス解散後、チカ&トシと分かれて革新的な音楽を始めた天才=立花ハジメのソロ、そして、このゲルニカのファースト・アルバムが出た。
1981年中学3年生の頃から、それまで天と地の距離のあった6つ上の兄と、受験勉強を教えてもらうかたわらで音楽を通じて、距離が縮まっていった。
レット・ツェッペリン、イエス、キング・クリムソン命の兄と、YMO命の自分。
1981年の「BGM」「テクノデリック」の2枚のLPレコードは、当時新譜は定価でしか買えなかった中、兄が安く新譜が買えるという店で、買ってきてもらった。
お互いの音楽を交換しつつ、ボクの音楽世界も広がった。
イーノもボウイもハロルド・バッドもララージもジョン・ハッセルも・・・1981年に兄が教えてくれたレコードとテープからだった。
一方、自分は兄にYMO周辺の音楽と最新のニュー・ウェイヴを教えて上げた。
YENレーベル発足時に、自分は、どのアルバムをLPレコードで買うかなあ。。。
と迷っていた。
兄は、「ハジメちゃんのLPレコードにしようよお」と強く推したが、「んんん・・」と迷った挙句に選んだのがゲルニカだった。
兄は、ボクのおこづかいで買ってきたLPレコード「改造への躍動」にはまったく興味がなかった。
ボク自身は、細野さん・幸宏・ハジメちゃんのソロはエア・チェックもしていて、十分に全曲聴ける状況にあったから、このナゾのバンド「ゲルニカ」に惹かれた。
また、細野さんが入れ込んで創ったといううわさも聞いていたので、それが興味を加速させた。
てなわけで「改造への躍動」を聴いたが、「ああ、失敗だあ!」とつい悔やんだ記憶があった。
ゲルニカの試みは、昭和初期のモボ・モガが聴くような、当時の流行歌に外国の音楽が微妙にまぶされた、いにしえの時代をシンセサイザーでレトロちっくに再現するというコンセプトだったが、一聴して実に病的で、それは、YMOの1981年の「BGM」「テクノデリック」を通過した「ほとんど、ビョーキ」を体感したボクにも超えられないようなビョーキだった。
短い曲がたくさん入っていたが、途中でへこたれて針を止めてしまうほど、変な世界に入りそうでやめた。
そーゆーなかだが、1曲2曲であれば、そーゆー「毒」も良し。
ということで、今も当時も好きな1曲を挙げるとしたら、A面2曲目に入っている「カフェ・ド・サヰコ」。
いろんな過去の文化が入り混じり合うレトロな匂いを放ちつつも、戸川純のヴォーカルと上野耕路のシンセサイザーは退廃的で「未来」「アンドロイド」といった言葉すら浮かぶ不思議な良く出来た曲だと思う。
そういえば、砂原良徳さんのミックスCDにも、この「カフェ・ド・サヰコ」のフレーズが出てきたなあ。
「夏」というイメージとかけ離れているように思われるだろうが、自分が聴いたのが夏だったので、無意識下で、どうしても結びついてしまう。
このときの戸川純が21歳だったというのもなかなかすごい。
日本もロンドンも10~20代の才能が燃えるように開花していた1982年だった。